元ヤクルトのスカウトが今も忘れない逸材5人。高校1年時に「ひと目見て度肝を抜かれた」投手がいた

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2022年07月07日 10:51  webスポルティーバ

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 スカウトは毎年、何百人を超える選手をチェックし、チームに必要な逸材をリストアップし獲得に励む。そのなかには、獲得の有無に関わらず、「思い入れのある選手」が必ずいるはずだ。そこで元ヤクルトの矢野和哉氏にスカウト時代に印象に残った選手を5人挙げてもらった。




超高校級の技術と思考

高塚信幸(智辯和歌山→近鉄7位)

 ひと目見て度肝を抜かれたのが、智辯和歌山の高塚信幸投手です。最初に見た時は高校1年生でしたが、「こんなすごいボールを投げる高校生がいるのか」と衝撃を受けました。140キロを超えるストレートに縦のカーブ。とくに投手不利なカウントでも変化球でストライクをとれる技術と思考は、高校生の域をはるかに超えていました。

 2年春のセンバツでは、準々決勝の国士舘高校戦で延長13回を完封するなど、さすがのピッチングを見せてくれましたが、決勝は4連投の疲れもあって鹿児島実業に6失点し敗れました。結局、この大会で高塚投手は712球を投げました。

 その影響もあって、大会後に肩を壊し、夏の甲子園は登板なし。3年夏にチームは全国制覇を成し遂げましたが、高塚投手は初戦に登板して2回途中降板。その後、再びマウンドに上がることはありませんでした。

 高塚投手は社会人入りが内定していましたが、近鉄がドラフト7位で指名。結局、プロ6年間で一軍登板なしに終わりました。もし肩を壊していなかったら、間違いなくドラフト1位で指名された逸材ですし、どれほどの投手になっていたんだろう......と、今でも思いますね。

「プロで活躍する」と確信した東都の逸材

阿部慎之助(中央大→巨人1位)

 中央大時代の阿部慎之助捕手は、3年秋から東都リーグ1部に昇格しましたが、それまでは2部。その時に東京・世田谷区にある東農大グラウンドのライト場外にあるマンション4階のベランダにぶち込んだ打球を目の当たりにしました。

「2部だから打てた」と言う人もいましたが、バットのヘッドスピードが速くなければあそこまで飛ばせない。しかも出合い頭の一発ではなく、しっかりタイミングをとって、ヒジをたたんで、ボールをバットに乗せて打った本物の一発です。

 プロ入り後も長きにわたり巨人の主軸を担い、通算2132安打、406本塁打のスラッガーになったわけですが、あの本塁打を見て「とんでもない打者になる」ことは確信しました。

 バッティングに注目が集まっていた阿部選手ですが、捕手としても強肩だったし、キャッチングもまずまず。リードはプロ入り後に覚えるだろうと。名実ともに球界を代表する捕手となったわけですが、"打てる捕手"がいるチームは強い。ヤクルトにも古田敦也選手がいましたし、阿部選手がマスクを被っていた時の巨人は強かったですからね。

石川雅規(青山学院大→ヤクルト1位)

 青学大時代の石川雅規投手は、東都大学リーグ通算23勝8敗。284奪三振、防御率1.63の好成績を残し、2000年のシドニー五輪に大学生ながら選ばれました。石川投手の身長は170センチに満たず、ストレートも140キロに届くか届かないか。それでも「この子はプロに入らなければいけない投手だ」と惚れ込みました。

 なぜそう思ったかと言えば、投げる時に左腕が体に隠れて、打者はボールの出どころがわからないからです。それに球のキレがいいから、表示速度よりも速く見える。シンカーやチェンジアップの変化球もしっかり腕を振って投げられるし、コントロールも絶品でした。

 アメリカで開催された日米野球を視察した時のことです。石川投手はわずか2/3イニングの投球でしたが、重要な局面でのリリーフ。この場面で、普段と変わらない投球を披露しました。

 つまり、ピンチであろうと感情は変わらず、力むことがない。力まないということは、コントロールミスが少ないのはもちろん、投球フォームも崩れにくいので肩やヒジを痛めるリスクが少ないんです。

 今年でプロ21年目、史上28人目の通算3000投球回到達の金字塔を打ちたてましたが、コントロールを武器に大きなケガなく投げ続ける石川投手のまさに"真骨頂"と言えると思います。

将来性を感じたふたりの高校生

岩村明憲(宇和島東高校→ヤクルト2位)

 平井正史投手(93年/オリックス1位)、橋本将選手(94年/ロッテ3位)、宮出隆自投手(95年/ヤクルト2位)、そして96年は岩村明憲選手がヤクルトに2位指名され、宇和島東高校(愛媛)から4年連続4人もの選手がプロ入りしました。

 高校時代、岩村選手はヒジとヒザを痛めていたのですが、巨人のほか、近畿大や社会人野球の強豪チームも狙っていました。じつは私自身、ヒジを手術してプロ入りした初めての投手なので、プロのトレーナーと計画を立ててケアしていけば心配ないと思っていました。

 岩村選手は高校時代に厳しい練習に耐え、その経験から得た強い精神力と自分自身の身体を熟知しているという点で、選手生命の長い選手になるだろうという予感はありました。

 高校時代の岩村選手は、捕手をやったり、ショートを守ったりしましたが、お世辞にも守備はうまいとは言えませんでした。しかし、甲子園出場経験もないのに高校日本代表の4番を任されるほど、バッティングはずば抜けていました。

 なにより記憶に残っているのが、ここぞという場面で打つ"勝負強さ"です。私が視察に行ったすべての試合で本塁打を打ちました。とにかく絶対に必要な選手だと思っていましたし、他球団が4位の評価だったのを私はAランク(2位評価)に繰り上げて獲得しました。

 ヤクルト入団後は自慢のバッティングはもちろん、名手としてならした大橋譲コーチ(当時)がマンツーマンで岩村選手の守備を特訓したことが奏功しました。三塁手としてゴールデングラブ賞6度の選手にまで成長してくれました。

岩隈久志(堀越高校→近鉄5位)

 身体能力の高さに驚愕したというより、印象深い選手として岩隈久志投手を挙げたいと思います。プロ入り後は身長191センチ、95キロと堂々の体躯を誇っていましたが、堀越高校時代の岩隈投手は、とにかく線の細い選手でした。

 筋力はまったくで、ストレートの球速も120キロ台。それでもヒジの使い方が抜群で、「いい投手になるかも」という予感はありました。ただ、このままプロに入ったら、周りの投手との競争に焦って投球フォームを崩すリスクはある。私としては、大学を経てからプロ入りしたほうがいいと判断しました。

 ところが、近鉄がドラフト5位で指名しました。当時の近鉄は、岩隈投手自身が焦らず、練習に打ち込める環境があったのでしょう。1年目の秋の教育リーグで149キロをマークし、2年目の2001年に一軍で4勝を挙げ、日本シリーズにも登板しました。そして2003年には15勝をマーク。その後、創設された楽天に移り、メジャーでも活躍。日米通算170勝の大投手になりました。

 高校からプロに入ったほうがいいのか、大学や社会人を経由したほうがいいのかという判断は本当に難しい。もちろん、入る球団によっても大きく変わってきます。岩隈投手については、日本を代表するピッチャーになってくれたという喜びもありますが、やっぱり獲りたかったという悔しい気持ちのほうが大きいですね。

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