オリックスの二軍選手を支援する元巨人ドラ2右腕 猛牛OB・松谷竜二郎さんが後輩に託す思い

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2022年07月22日 17:12  ベースボールキング

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渡部遼人に前半戦MVP賞を贈呈する「スチールエンジ株式会社」の松谷竜二郎社長 [写真=北野正樹]
◆ 猛牛ストーリー 【第28回:松谷竜二郎さん】

 連覇と、昨年果たせなかった日本一を目指す今季のオリックス。監督・コーチ、選手、スタッフらの思いを「猛牛ストーリー」として随時紹介していきます。

 第28回は、今季から設けられたファームのMVPを表彰する「ヒーロー賞」で若手選手を支援する、建築関連会社「スチールエンジ株式会社」の松谷竜二郎社長(58)です。大阪府出身で、大阪市立高校(現・大阪府立いちりつ高校)から大阪ガスを経て、1989年のドラフト2位で巨人に入団した右腕。近鉄バファローズで現役生活を終えた球団OBが、後輩たちにエールを送りました。




◆ 二軍戦で2度のノーノーも一軍の壁は厚く…

 「(オリックスに統合前の)近鉄で現役生活を終え、今は仕事でオリックスさんの設備関係に携わっていることもあり、後輩への励みになるよう、そしてモチベーションを上げられるようなことをしたいと考えました」

 7月16日、ソフトバンク戦が行われた杉本商事BS舞洲にて、オリックスの二軍選手を対象とした「ヒーロー賞」の贈呈式後、松谷さんは静かな口調で説明した。



 松谷さんは大阪ガス時代、3年連続して都市対抗野球に出場。88年には1回戦で対戦した強豪・プリンスホテルとの延長戦を制し、勝利投手となって注目を集めた。

 同年のドラフトでは2位指名で巨人入り。1年目はファームの大洋(現・DeNA)戦でノーヒットノーランを達成したが、一軍の登板は4試合にとどまった。


 当時の巨人といえば、斎藤雅樹、桑田真澄、槙原寛己らが全盛期の投手王国で、なかなかチャンスは巡って来なかった。

 頭角を現したのは、3年目の91年。初先発した5月22日のヤクルト戦で、1失点の完投勝ち。2戦目も2失点で連続完投勝利を挙げた。

 この年は21試合に登板(先発5)し、2勝2敗1セーブ。しかし、その後は右肩を痛め、92年に二軍戦で2度目のノーノーを達成したものの1勝。移籍した近鉄でも96年の1勝にとどまり、通算59試合登板、4勝4敗1セーブでプロ生活9年を終えた。


 「1年目はキャンプからケガなく過ごせましたが、以後は肩を痛めてキャンプから出遅れるようになり、一軍と二軍を行ったり来たりでした。一軍投手の枠は10人しかなく、二軍でいくら勝っても、勝つくらいでは上に上げてもらえません。ノーヒットノーランで上げてもらえるような、結果がすべての世界。(競争の中で)いかに抜けていくかということをしていかないと、この世界では生きていけないと感じました」と松谷さん。

 「思い返すと、完全燃焼というわけでもありません。あの時、こうやっていれば、という気持ちもあります。もともと肘に痛みがあってそれが肩にきた。本当は休みたかったけれど、僕らの1年間の対価は年俸に反映されるので、少々痛くても休めず無理をしてしまいます。今から思うと、思い切って1〜2年間、棒に振っても良かったのかもしれません」

 「休んでも変わらなかったかもしれませんが、そのタイミングで勇気を持って休むということが出来なかった。3年間くらい、ローテーションで勝てる投手なら言えたかもしれませんが、なかなか言うのは難しかったですね」

 当時も球団トレーナーは選手の体を守ってくれていたそうだが、一軍のマウンドに立つというプロ意識が、逆に選手生命を短くすることにつながってしまった。


◆ 「モノづくりは人づくりから」

 それでも悔いはない。

 「早く(プロを)辞めたからこそ、今がある。後ろ向きの発想ではなく、仕事をやらせてもらっているという想いはあります」

 34歳で現役引退後、当時巨人のコーチだった末次利光さんの紹介で建設会社に就職。営業担当だが建設現場に出向き、ヘルメットを被って現場作業も覚える日々。しかし、数年後に会社が傾くと、同僚と休眠状態の建築関連会社に移り、2003年に社長に就任した。現在は東京、大阪、名古屋、福岡、札幌、仙台、広島、岡山に営業拠点を構え、年間売り上げは約150億円。社員約150名の会社の指揮を執る。


 社名の「スチールエンジ」は、建築資材の「スチール」(鉄)を扱う「エンジニア」(技術集団)から採った。

 松谷さんの経営ポリシーは、『モノづくりは人づくりから。人こそが企業の原動力ですので、そこに人が育たない限り、その企業の成長も高品質のモノづくりも期待できません。多様なニーズにお応えできる企業であるためにスチールエンジは人づくりから始めています』と記された同社HPの社長あいさつに凝縮されている。

 「プロ(野球選手)は自分で解決できますし、腕一本で勝てばいい。でも、会社はそうはいかない。一人で起承転結して終われるならストレスはありませんが、仕事は人に委ねなければなりません。喜怒哀楽で楽しませてもらうこともありますが、悲しむこともあります。そこをどのように導いていくのかという難しさはあります。月末になると業者さんへの支払いがありますし、仕事も継続して供給しなければいけません。また、決められた給料を振り込まなければなりません。その意味では今の方が大変で、野球とは雲泥の差があります」

 「本来、僕はずぼらな性格で、投手時代は自分が抑えたら負けることはない、という感覚でやっていました。今はこの環境なので、性格は変えられませんが、人格は変わっていっていると思います」

 グループ会社や同社の仕事を専門にしている協力会社約80社、その協力会社などの家族を含めると、約1万人の雇用や生活が肩にのしかかっているだけに、舵取りを誤るわけにはいかない。


◆ 「一軍がプロ野球選手。二軍は鍛錬の場」

 これまでも、スポーツへの支援は続けてきた。

 オリックスとの関連では、昨年から「バファローズCUP 少年少女軟式野球大会」に協賛。2019年からは、ジャイアンツ球場で開催されるイースタン・リーグ公式戦で活躍した巨人選手に「ヒーロー賞」を提供。世界少年野球大会福島大会や堺ユースサッカーフェスティバルなどにも協賛し、NOMOベースボールクラブの支援も行って来た。

 そして今は、社会人野球チームを持つことを目指している。

 「社会人野球にいましたので、競技を終えて仕事に専念した時に、社内でリーダーシップを取れる人材を育てたいのです。野球だけでなくスポーツを通じて得たもの、スポーツの素晴らしさを社会の中で分かってもらう、その一端を担えればいいかな、と。スポーツを応援したいんです」

 次代を担う人材を、スポーツ界から生みたいという想いがほとばしる。


 後輩たちには、このメッセージを送る。

 「選手として頑張るのは当たり前で、社会人としての立ち居振る舞いがきちんと出来なければ、プレーにもつながると思います。人の顔を見てあいさつをすることは、誰にでもできることなので」

 「二軍は鍛錬の場。一軍がプロ野球選手で、二軍はプロ野球選手ではないということを頭に入れてやってほしい。チャンスが訪れた時に、いかに準備をしてそのチャンスをつかむか。日頃から鍛錬、準備をしておくことが大事だと思う」

 「もし、だめでも人生は長い。活躍したかしていないかではなく、一つのことをやり遂げたということが一番大事。良くても悪くてもいい経験になると思うし、うまくいかなかった方が次のステージでいい経験になると思います。野球選手だったから出来ないのでなく、野球をしていたがゆえに、社会に入っても出来るんだという想いでやってきました」


 3、4月度の「ヒーロー賞」を受賞した2年目の山下舜平大は「第1号で自分がもらえるとは思っていなかったので、すごくうれしかった」と言い、副賞の黒毛和牛3キロは実家に送り親孝行をしたそうだ。

 16日に「前半戦MVP賞」(10万円の旅行券)を受賞した新人の渡部遼人は「プロになって初めてもらった賞なのでうれしい。ファームに賞を出していただくのはありがたいです。励みになります」と、一軍再昇格に向け意欲を燃やす。

 松谷さんの思いは、後輩に引き継がれていくはずだ。


取材・文=北野正樹(きたの・まさき)
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