桑田真澄、清原和博のPLに7対29。元東海大山形のエースが明かす「歴史的惨敗の真相」「KKの記憶」「脅迫状…」

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2022年08月14日 09:51  webスポルティーバ

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 1985年夏の甲子園の抽選会。東海大山形に不穏な空気が漂っていた。

「やばいんじゃねぇの?」

 監督の滝公男が苦笑いをつくる。選手たちも同じような表情でその時を待っていた。そして嫌な予感は見事に的中した。東海大山形の初戦は大会7日目の第2試合、相手は桑田真澄、清原和博の"KKコンビ"を擁し、優勝候補の大本命に挙げられているPL学園に決まった。




「武田のバカ野郎!」

 クジを引いてしまったキャプテンの武田政治に非難が集中する。エースで4番、チームの大黒柱である藤原安弘もその野次に乗っていた。

「まさか本当に引いちゃうなんてね。最悪やった、ホンマに」

 抽選会が終わると、東洋大姫路の選手たちが声をかけてきた。兵庫県姫路市出身の藤原は、キャッチャーでキャプテンの阿山正人やセカンドの大墨弘幸ら、小学生時代から知る選手たちが多かった。

「ちょっとビビらせといてくれよ」

 威勢と冗談が入り混じったトーンで、藤原はPL学園と交流のある彼らにお願いした。本当なら自分の成長、実力を試すには最高の相手だったはずなのだが......。

山形大会で悲鳴をあげた右ヒジ

 3年生の時点で、ストレートの最速は「145キロくらいは出ていた」という。持ち球のスライダーとシュート、チェンジアップはボールに握りを変えながら、軌道を少しずつ変化させていた。当時の高校野球雑誌では、東北高校(宮城)の佐々木主浩と並ぶ東北地区の注目ピッチャーとして掲載されたこともあった。

 しかし、この抽選会の時点で藤原は145キロのストレートはおろか、投げることすら困難な状態にあった。

 最初に異変を感じたのは、山形大会準々決勝の酒田南戦だった。スライダーを投げた瞬間、「プチッ」という音とともに、「これはやばい」と直感した。試合は6対3で勝利し、準決勝の羽黒工戦ではスライダーを封印し、ストレートとシュート主体のピッチングが奏功して11対3で勝利。決勝進出を決めたが、藤原には終始不安がつきまとっていた。

 日大山形との決勝戦。ついにヒジが悲鳴を上げた。「ブチン!」。試合終盤、スライダーを投げると準々決勝の時とは明らかに違う鈍い音がした。そこからヒジがしびれ、まともにボールを操れなくなった。試合は打線の援護もあって9回サヨナラで甲子園出場を決めたが、勝利の代償はあまりにも大きかった。

「きみ、絶対に投げられないよ」

 重度の炎症を起こし、医師からドクターストップを宣告されていた藤原にとって、PL学園は「最高」ではなく、「最悪」の相手だった。試合までは治療に専念した。腫れ上がった患部に注射を打ち、水を抜く。指圧に湯治、「ヒジが焼けるくらい痛かった」という電気治療も施したが、どれも気休め程度にしかならなかった。

「もうアカン、ダメっすよ。甲子園で投げられないっすわ」

 部長の森清人にだけはありのままの気持ちを伝えたが、監督の滝と対峙する時の藤原は常に戦闘モードだった。

 試合前日、藤原は滝にこう告げられた。

「"背番号1"をつけているのは誰だ」

 藤原は頷き、「投げられます」とだけ答えた。ただ実際は「投げられない」ことを隠すだけで精一杯だった。右ヒジの注射針のあとが見えないよう七分袖のアンダーシャツを着用し、投球練習は10球ほど「それっぽく投げた」だけで試合に臨んだ。

5回を投げて被安打21、失点20

 1番の内匠政博をセカンドゴロに抑えたが、2番の安本政弘にストレートを弾丸ライナーでレフトラッキーゾーンへ叩き込まれ、いきなり先制点を奪われた。

「強烈な打球でした。あんなスイングの速い選手、東北では見たことなかった」

 3番の松山秀明をサードファウルフライに抑えてツーアウト。ここでスラッガーの清原と初めて対戦した藤原だったが、フォアボールという結果以外に特別な感情はなかった。

「事前に『インコースを攻めよう』とミーティングでは話していたけど、ヒジが痛くて......清原がすごいバッターなのは知ってるけど、こっちはそれどころじゃなかった。あの日、試合に出たなかで5人もプロに行ってるんでしょよ。みんな怖かった」

 藤原は、清原より「ピッチャー・桑田」との対戦のほうが覚えていると言った。

「カーブがすごかった。ドロップのような軌道で、よう見えんかったですね。1打席目は空振りの三振でした」

 試合での藤原の記憶は、事実上、ここで途切れている。1回に2失点してからも、2回に5点、3回に4点、4回に3点。なんとか3アウトをとり、ベンチに戻ればアイスボックスにヒジを入れて冷やす。藤原にとって甲子園でのプレーは機械的な作業になっていた。人間味がある感情を挙げるとすればただひとつ、羞恥心だけだった。

「緊張はなかった。とにかくヒジがズキン、ズキンと痛くて、何も考えられへんかったけど、『どうしよう......恥や、恥ずかしいわ』っていうのはありました」

 そんな藤原に理性を保たせてくれていたのが、監督の滝の檄だった。

「ヒジが痛いのはわかるけど、東海大山形を強くしてくれたのはおまえだ。せめて、5回までは投げてマウンドを降りろ」

 5回にさらに6点を献上し、藤原はマウンドを降りた。132球を投げて被安打21、四死球4、失点20。これが甲子園における藤原の投手としての成績である。

「山形ではバンバン抑えとったのに。こんな状態やなかったからね」

 今もあからさまに言い訳をしないのは、監督の思いを知っているからだ。

「藤原を負け犬にはさせたくなかった」

断片的に蘇るKKの記憶

 6回からライトの守備に就いた藤原だが、痛み止めの影響で胃けいれんを起こし、ヒジの痛みと同時に吐き気とも戦わなければならなかった。降板後に思い出せるのはその程度だと言うが、断片的に蘇る記憶もある。"KK"とのエピソードだ。

 9回、PL学園3番手の小林克也から甲子園初ヒットを放った藤原は、一塁ベース上で清原から「ナイスバッティング」と声をかけられ、「ありがとう」と返したという。

 試合後には桑田から慰労の言葉をかけられた。ベンチ裏の通路で藤原のもとへ駆け寄り、「ヒジ、大丈夫? 気ぃつけてな」と。簡単なやりとりだけだったが、「めっちゃええヤツやな」と、藤原はPL学園の懐の深さを知った。

 試合は7対29という歴史的惨敗。"戦犯"の扱いを受けることになった藤原は、試合後、チームには帯同せず病院に向かい右ヒジの治療を行なった。ひどい炎症だった患部は剥離骨折していて、右腕はギプスで覆われた。

「山形に戻ったらなに言われんのかな? 監督とチームに申し訳ない......ずっとそんなことばかり思うてました」

 藤原が懸念したとおり、東海大山形の戦いは大失態のように扱われ、県議会で無責任に議題に挙げられたという。

「なぜ山形の高校野球はこんなに弱いのか?」

 野球部の寮にはこんな手紙も送られてきた。

<藤原を殺すのに刃物はいらない。セーフティバント3本で十分>

 要するに「藤原なんて打たなくても倒せる」といった趣旨の嘲笑や罵倒が大多数だった。ほかにも学校や寮へのいたずら電話もかなりあったという。しかし当時は、藤原本人の耳には入ってこなかった。

「気を遣ってくれてたんでしょうね。チームメイトも学校の友だちも先生も、みんな普通に接してくれました。自分になんも害が及ばないようにしてくれたと思いますね」

 あの惨敗以来、しばらくうしろ指をさされていると感じたこともあった。それでも藤原が野球を辞めなかったのは、恩師のあの思いが心の支えとしてあったからだ。

 負け犬にはさせたくなかった──。

高校卒業後は野手としてプレー

 高校を卒業後、川崎製鉄神戸に進んだ藤原は内野手に転向した。全国大会の都市対抗野球と日本選手権にも出場し、11年間プレーした。現役を引退後は1年間、社業に従事して退職。家業を継ぐために3年間、理容専門学校に通い資格を取得し、現在は兵庫県内にある『バーバーショップ・エース』の店主として忙しい日々を過ごす。

 気さくな関西弁に、年下であってもついついため口になってしまうほど客も乗せられる。カットが終わり、客が会計前にトイレを借りる。用を済ませると、それまでため口だった口調が敬語に変わっているという。

「マスター、甲子園に出たことあるんですね」




 客はようやく店主が東海大山形のエースだったことに気づく。PL学園に20点もとられたピッチャーは「まあね」と返し、聞かれたことだけを話す。当時の映像を見ることはない。ただ封印したい過去ではなく、単純に見ないだけだという。

 山形になんて行かなければよかったと思ったことはないか? そう尋ねると、藤原はすかさずかぶりを振り、穏やかな目を向けて即答した。

「それは一切ない。山形に行って大正解。人生変わったよ、むちゃくちゃ幸せもんよ」

(文中敬称略)

このニュースに関するつぶやき

  • もし山形の監督が佐々木朗希投手の監督だったらゾッとする。どう考えても無茶苦茶だ。
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