「薔薇はシュラバで生まれる」 笹生那実が見た70年代少女漫画の現場と恋愛事情

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2022年08月15日 07:01  リアルサウンド

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(左から)笹生那実『すこし昔の恋のお話』、『薔薇はシュラバで生まれる』(ともにイーストプレス刊)


 漫画家といえば、とにかく大変な仕事というイメージが定着している。〆切に追われて徹夜は当たり前で風呂にも入れない、編集者と議論を交わし、時には衝突しながら必死に原稿を完成させる―― そんな漫画制作の現場に欠かせない存在がアシスタントである。


 漫画を描く道具が、紙とペンから、iPadや液晶タブレットへと移り変わっても、その重要度は変わらない。特に、商業誌の週刊・月刊連載は“修羅場”の連続であり、ほぼアシスタントの助けなしでは原稿が仕上がらないと言っていいだろう。


 笹生那実の『薔薇はシュラバで生まれる』『すこし昔の恋のお話』は、1970〜80年代、少女漫画の全盛期に地獄のような“修羅場”を経験した著者の実録エッセイ漫画である。笹生がアシスタントを務めた漫画家は、『ガラスの仮面』の美内すずえ、『日出処の天子』の山岸凉子など、錚々たる大御所ばかり。さらには、自作のアシスタントを『私が見た未来』のたつき諒に依頼したことがあるという、知られざるエピソードもある。


 原稿と格闘を続け、数々の修羅場を経験してきた笹生に、1970年代の少女漫画界の裏話を濃密に語っていただいた。


知られざる少女漫画制作の現場とは?

――先生は漫画家としてデビューされてから、様々な漫画家のアシスタントを経験されました。主にアシスタントの仕事は、どんなものがあるのでしょうか。


笹生:アシスタントはスクリーントーンを貼ったりベタを塗ったりするだけでなく、背景や小物を描く仕事もあります。現場では建物から花まで様々なものを描くように指示が飛びますが、私の場合、描けるものと描けないものの差が凄いんです。例えば西洋風の墓地を描けと言われた時は苦労せずに描けましたが(笑)、一方で、花のような美しくきれいなものは難しい。人により得手不得手があるので、それぞれの得意分野で仕事を分担します。


仕事場で漫画を描く笹生那実。商業誌に原稿を描く傍ら、70年代の初期コミックマーケットにも参加。その後長く離れていたが、20年ほど前からはほぼ毎回参加しているという

――墓地って、そんなに描く機会があるんですかね(笑)。当時の少女漫画家は、“薔薇を描く”スキルは必須だったのでしょうか。


笹生:薔薇……私は苦手でしたね(笑)。繊細で柔らかい描線が描けないんですよ。それでも無理やり描いたことはありますが、やはり上手な人はレベルが違いました。ちなみに、私の読み切りでは、友達のたつき諒さんに花を描いてもらったことがあります。たつきさんは筆が早いので、いろいろな人のアシスタントをしていました。(原稿を指さして)例えば、この花はたつきさんが描いたものです。


――これ、何の花ですかね。


笹生:…わかんない(笑)。たつきさんは上手いので、資料なしで描いていましたが、これは架空の花なんじゃないかな。ちなみに、1960年代の少女漫画はまだ花の描き方が大雑把なんですよ。ところが、70年代に入ると、おおやちき先生のように緻密な花を描く漫画家が現れてきたので、みんな写真を見たりして、花びらの構造まで理解して描くようになりました。


笹生の生原稿。背景の“謎の花”や点描を担当したのは、近年、東日本大震災を予言していたとして著名になった、たつき諒。点描を地道に描くのは少女漫画のアシスタントの必須業務。まさに職人技の世界である
アシスタントの仕事は職人技の世界

――笹生先生の原稿を見ると、スクリーントーンの模様のような服や背景の模様もぜんぶ手描きなんですね。これは、時間がかかっただろうなと思います。


笹生:今ではスクリーントーンがあるので、背景の点描や模様も描かなくていいですよね。当時はアシスタントが手描きしていました。私が苦労したのは“縄網”です。描き方を知らなかったので、見様見真似で必死に描いたんですよ。それが雑誌に載ったのを見たら、目が当てられないほど酷くて……反省しましたね。


――現場では、先輩のアシスタントが描き方を教えてくれなかったんですかね。


笹生:というより、教えている暇がないんですよ(笑)。猫の手も借りたいほどの修羅場で招集がかかりますから。専属のアシスタントは初歩から教わると思いますが、当時は漫画の専門学校もなかったので、描ける人と描けない人の差が激しいのです。アシスタント初心者だった頃の私は、本当に描けませんでした。背景の模様はどう描けばいいんだろうと、お手本の原稿を観察しながら学んでいきましたね。


左のコマの人物の周りに描かれているのが、縄網の一種である“オドロ線”。ちなみに薔薇の花はたつき諒が描いたもの

――目で見て、技術を盗むというのは、昔ながらの職人の世界ですね。失敗して叱られた経験はありますか。


笹生:実は、ほとんどありませんでした。初心者の頃は一度行ったら二度と呼ばれなかったりで……描き慣れてきてからも、とにかく原稿を仕上げることが第一で、先生も怒っている暇がなかったのだと思います。


――それは切実な事情ですね。


笹生:アシスタント初心者だった頃、ある先生のところでベタの指示を受けたんですが、どう見てもベタにしたらおかしい場面だったんです。ここを塗ったら変、でも必死で原稿を描いてる先生にそんなことは言えない。悩みながら、結局塗ってしまったんです。そしたら先生が「あなた、なぜそこを塗ってるの!?」と言うのです。そして、ご自分が指示を間違えたと気づいて、とても嘆いて……。私が、先生に確認すべきでしたね。


――今は背景を集めた資料集が本屋に売っていますし、デジタルデータでビルや学校などのフリー素材が販売されています。笹生先生がアシスタントをしていた時代は、資料はどうやって収集していたのでしょうか。町並みを描くときには、撮影に出かけることもありそうですよね。


笹生:一部の先生は舞台になる町をカメラマンに撮影してもらったり、大事な場面は写真を参考にすることもありましたが、大半は想像で描いていましたね。結構、昔の漫画の背景っていい加減なところがあるんですよ。アシスタントはパースの取り方なんて習っていないし、漫画の技法を説明する本もありませんから。パースが変だと背景と人物がチグハグになって、人物が巨人に見えてしまう場合もあります。


 なので、「パースなんて考えずに描いたほうがマシ」と言う先生もいました。中途半端な技術で描くと、かえってパースが狂い、余計に変になってしまうからです。


――慣れないことを修羅場で試すとますます悲劇を生んでしまう、という教訓ですね。


笹生:酒井美羽さんは、パースの取り方をデザイン学校のアニメーションコースで学んだそうですが、あくまでもレアケースです。まだ、漫画の専門学校は存在しませんでしたから。当時は、上手い漫画家さんの絵を参考にすることも珍しくありませんでした。「誰それ先生の『○○』という作品を参考に描いて」と、指示を出されることもありました。


編集者が新人を育てる仕組みがこうして生まれた

――笹生先生は高校3年生、18歳でデビューされています。当時の漫画家の年齢を見ると、10代でデビューしている作家が珍しくありません。今なら、「高校生漫画家登場!」という塩梅でネットニュースになりそうなものですが、当時は珍しくなかったのでしょうか。


笹生:10代でデビューするのが当たり前で、20歳代半ばのデビューとなれば遅い気がするくらいでした。30歳を過ぎてからブレイクしたりすれば、30歳の狂い咲きと言われたほどです。私の周りでは、結婚相手を20代で見つけて引退する漫画家も多かったですが、それは当時の社会的な風潮もあったんでしょうね。


――かつての編集者といえば、手塚治虫先生の現場のように、原稿が上がるまでひたすら忍耐強く待つのが仕事というイメージです。しかし、今では新人の段階から漫画家を育て上げ、ネームや下描きの段階で漫画家に的確にアドバイスを行い、二人三脚で作品を創るイメージがあります。いつから変わったのでしょうね。


笹生:1960年代は漫画家の絶対数が少なかったため、手塚治虫先生や石ノ森章太郎先生のような売れっ子が、ひとりで何本も雑誌を掛け持ちするのが普通でした。人気漫画家のもとには仕事が集中するので、自社の原稿が後回しにされないよう、どの編集者も必死だったそうです。手塚先生の原稿を待ち続ける“手塚番”は有名ですよね。


 つまり、この頃は既存の漫画家をいかに引き抜き、自社の媒体に描いてもらうのかがポイントでした。流れが変わったのは、出版社が新人を育てるようになってからでしょう。『別冊マーガレット』編集長の小長井信昌さんが、1966年に新人の原稿を募集する「まんがスクール」を始めたことが大きいですね。スクール形式で指導するのではなく、ただ原稿を募集するだけの新人賞なら、以前からあったのですが。


――小長井さんが、新人を発掘し、育成するシステムを発明したわけですね。


笹生:これを機に、次第に一人の漫画家がいろいろな雑誌に描かなくなったので、原稿の順番待ちが解消されていきました。ちなみに、同じ集英社つながりで、『週刊少年ジャンプ』が小長井さんのやり方を見て、新人を戦略的に集めるようになったと聞きます。それが有名なジャンプの専属システムに発展していきました。


――まさに、編集者の仕事も過渡期だったというわけですね。


笹生:樹村みのり先生の現場で困ったのが、手塚番をやっていた編集長の雑誌の仕事です。部下に手塚番のやり方を教えるせいで、樹村先生の仕事場に編集者が歯ブラシなどの洗面セットを持って泊まりにくるんです。


――樹村先生は、他社の仕事を掛け持ちしていなかったわけですよね?


笹生:はい。自社の原稿しかやっていないのに、編集者が泊まりがけでやってくるのです。でも、待っている間、編集者はすることがないし、樹村先生も監視されているようで落ち着きませんから、原稿に集中できなくなってしまいます(笑)。


取材中、あまりの美しさに感嘆した見開き。背景は、笹生の仕事場の近所の風景を参考にしたのかなと思いきや、すべて想像で描いたそうだ。スクリーントーンの使用は最小限で、背景の模様や、人物の服の網目模様などはすべて手描きである
修羅場では怪談をして眠気を覚ます

――修羅場のときは眠気覚ましのために怪談をしていたそうですね。


笹生:はい。怪談はシュラバの眠気覚ましの定番で、いろいろな先生のもとで聞かされました。私は霊感が強くないのですが、「何かない?」と振られたときは必死に人から聞いた話を思い出して披露することもありましたよ。


――少女漫画のジャンルでホラーが長年続いているのを不思議に思っていたのですが、先生の話を聞くと、職場で怪談を話しているからなのでは、と思いました。


笹生:それはわかりませんが(笑)、何人かの漫画家さんが、シュラバで広まっていた怪談をヒントにしたエピソードを描いていましたね。雑誌に載った漫画を見て、ああ、あの話だなとわかりましたから。そうそう、ずっと寝ていないせいで、脳がバグってしまったかもしれないことが……


――なんと。それは気になりますね。具体的に教えてください。


笹生:みんな笑い出すと止まらなくなるんです。徹夜徹夜で、ずっと寝ないで仕事をしている最中に、ふと何かで笑うと、全員いつまでも笑いが止まらないという……ある意味怖いですよね。


――修羅場のキツさがわかるエピソードですね。


笹生:修羅場で無理をすると脳がバグるうえに、酷い絵になることを実感したので、アシスタントを使う側になったときは「眠気が来たら寝て!」と言っていました。だから、うちでは怪奇現象に遭遇したアシスタントはいなかったと思いますよ(笑)。


白い靄のような模様は、ホワイト(白のポスターカラー)を小さくちぎったスポンジに染み込ませて、トントンと原稿に押し付けてつくる
新田たつおとの出会いから結婚まで

――修羅場を繰り返していた漫画家のみなさんは、多忙な中でどうやって相手と知り合い、またどんな職種の人と交際する人が多かったのでしょうか。


笹生:漫画家やアシスタントどうしの、職場結婚が多かったですね。編集者と結婚することもありました。同じ出版社の少年誌と少女雑誌の漫画家同士で、合コンしていたグループもあったと聞いたことがあります。


――笹生先生の旦那様は、『静かなるドン』の新田たつお先生です。出会いについてお話しいただけませんか。


笹生:そのへんの話は『すこし昔の恋のお話』にも描きましたが(笑)、私はもともと、新田たつおの『怪人アッカーマン』などのマニアックではちゃめちゃなSFギャグ漫画が好きでした。そしてお互い同じ雑誌で連載をしていた時に、私の担当編集さんが「新田たつおが笹生那実に会いたいってよ」と言うので、じゃあサインをもらおうと、自宅まで会いに行きました。


――漫画家同士で、しかも笹生先生がファンだったとなれば、話が盛り上がりそうですね。


笹生:いえ、私はその後に外せない仕事があったので、あまりゆっくりせずに帰ったんです。ところが、彼はケーキを用意して、入念に準備をして待っていたらしいんですね。それから少し後、雑誌『スコラ』のコラムを立ち読みしたら、新田たつおが「少女漫画家が遊びに来たが15分ですぐ帰った」と怒りの言葉(?)を書いていたんです。実際は、30分くらいはいた気がするんですが(笑)。


――なんと、立ち読みした雑誌で知ったんですか。


笹生:どうやら、彼は長く話がしたかったみたいで。私から、「スコラを読みましたよ」と電話をかけたら、向こうも機嫌が直っていたので、改めてゆっくり喋りましょうという話になったのです。大阪出身のせいなのかどうか、めちゃくちゃ喋る人で。勢いに圧倒されてしまいました。


――新田先生、そのときはどんな会話をされたんですか。


笹生:……自分のお父さんが破天荒な人だった話とか、あとは新人の頃に手塚治虫先生と会った話。先生が呼びかけて、新人漫画家たちを集めて大広間ですき焼きを食べたとか。あろうことか遅刻した彼は、先生の真前の席に座って食事したんですって。そこしか空いてなかった、と……


――お会いして2回目なのに、いきなり濃密な話の連続です(笑)。そして、『すこし昔の恋のお話』に描かれているように、結婚までは早かったそうですね。


笹生:完全に勢いです(笑)。私は、こんなにおしゃべりな人には初めて会ったし、お互い会ったことのないタイプということで新鮮だったのかも。なにより、ふたりとも結婚相手を探したい時期で、タイミングが合ったということです。結婚前は彼の、ギャグとシリアス混じりの学園漫画も手伝いました。少女漫画のアシスタントをするよりは楽でした。


――確かに、少女漫画のように、薔薇を描くことはほとんどなさそうです。


笹生:彼が雇ったアシスタントよりも早く仕事ができたんです。花やレースは苦手だけれど、昔の少年漫画風の背景なら描けました。また、結婚後は自分の作品も頑張って描いていたんですが、しばらくしてから私は漫画家を引退しました。


――それはどうしてでしょうか。


笹生:旦那は筆が早くて、あっという間に描いてしまうんです。私がネーム(※)に詰まって時間がかかっている横で、旦那はネームもせずに、いきなり下描きから始めてしまうんです。しかも、夫の方が早くできるのに人気もある。そうした光景を目の当たりにすると、同業者としてはたまりませんよね。ネームも絵も遅い私は、子育てとの両立は無理があると自覚し、一度は完全に漫画から離れたつもりでした。まさか、また描く日が来るとは思いもしませんでした。


脚注(※)漫画の下書きを始める前に、フキダシや構造などを決める漫画の設計図のようなもの。これをもとに、漫画家は下描きに入る。


『静かなるドン』ヒットの陰に笹生のアドバイスあり

――結婚してから、新田先生の『静かなるドン』が始まりました。長期連載になり、単行本は108巻を数える大ヒットになりました。


笹生:夫は『静かなるドン』の連載が始まったころは、どういう方向で描けばいいのかと悩んでいました。「平凡パンチ」で連載していた『こちら凡人組』の続きを描こうとしていたのに許可がおりなかったそうで、予定がくるったのかもしれません。でも、私は『静かなるドン』の2話を読んで、面白いと思ったんですよね。冴えないサラリーマンがヤクザの親分に変身するなんて、スーパーマンのような痛快さがあると言ったんです。


 そしたら、「スーパーマンパターンで行こう!」と方向が定まったみたいで、筆がのり始めたんですよ。また、彼はギャグ漫画家でしたから、話のテンポが早すぎることもありました。ここは話を盛り上げて、丁寧に描写すべきシーンだといった感じに、少女漫画家の視点からアドバイスをしたこともあります。


――笹生先生が少女漫画を描いてきたからこそ、できるアドバイスです。ご自身の創作やアシスタントで培った経験が、違った形で役に立ったといえますね。一方で、先生も『薔薇はシュラバで生まれる』がヒットし、再び漫画家として本格的に活動をされています。


笹生:これは描いておきたいと思う作品は、まだあります。『すこし昔の恋のお話』に収録した『ぶらんこの季節』は、だいぶ前に続きを描こうとして、諦めたことを残念に思っています。昔のようにちゃんと漫画として描き切る自信はないのですが、せめて同人誌で、絵物語時々漫画みたいな形ででも、“成仏”させたいですね(笑)。他にも、同人誌のために描きかけている原稿があるので、それも成仏させたいと考えています。


――それは楽しみです。先生、同人誌なら〆切もありませんし、編集者もいません。思う存分描いてください!


笹生:いえ、困るのは〆切がないことなんです(笑)。〆切がないと延々と考えてしまい、なかなか前に進まないんですよ。漫画家はとことん話を考えて絵を描き込んでしまうので、ある程度の覚悟を決められるのが〆切なのです。自分で設定すればいいと言われるかもしれませんが、それだとつい破ってしまうので…… これからの課題ですね。


――漫画家にとって〆切はとても大切であり、守ることもいかに難しいのか、よくわかりました。ありがとうございました。


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  • 「薔薇」はハッテン場でうまれる………
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