「山の神になりたくて毎日練習していた」神野大地が明かす箱根駅伝秘話。きっかけは原晋監督からの「お前、すごいぞ」

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2022年08月15日 17:11  webスポルティーバ

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2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。

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パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
〜HAKONE to PARIS〜
第5回・神野大地(青山学院大―コニカミノルタ―プロランナー)前編




 青学大時代、神野大地は「3代目山の神」となり、初優勝に貢献。選手として成長し、充実した4年間を過ごした。実業団に入りマラソンを始め、プロになってからは苦しい時間を過ごしたが、昨年12月の防府読売マラソンで2位になったのをキッカケに、長いトンネルを脱した。

「山の神」で終わるわけにはいかない。

 箱根で育った神野だが、その強い思いがMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)、そしてパリ五輪へと自身を駆り立てている。

「駒澤大に行きたかったんです」

 神野といえば明るく、いかにも青学大卒らしい選手だが、高1時は駒澤大が憧れだった。

「高校に入った時は女子よりも遅くて、5000 mは15分26秒でした。当時、14分台が県ではトップレベルなんですけど、高1の終わりに14分49秒で県4位になって、関東の大学に行くのが目標になりました。その時、宇賀地(強・現コニカミノルタコーチ)さんに憧れていたので、駒澤大に行って大八木監督の指導を受けたいと思ったんです」

 駒澤大に進学した場合、また違う陸上人生があったかもしれないが、運命的ともいえる原晋監督との出会いは高2の夏の菅平合宿だった。青学大も合宿をしており、クロカンコースを走っていた時、原監督の目に留まり、わざわざ宿舎まで会いに来てくれた。青学大の当時の推薦枠の設定タイムは5000m14分40秒以内で、神野は14分49秒だった。それでも原監督から、「今の君の走りなら夏を越えたら40秒をきれる。青学に入って一緒にやろう」と言われた。

 秋の記録会で14分26秒までタイムを伸ばすと他大学からも声がかかるようになった。一時は悩んだが、原監督は何の実績もない自分に最初に声をかけてくれており、シード権をとれるかどうかのレベルにあった青学大ならば4年間で1度は箱根駅伝を走れるかもしれない。そう考え、最終的に青学大への進学を決めた。

 大学1年の時は、久保田和真、小椋裕介(現ヤクルト)ら同期の速い選手に触発され、がむしゃらに走った。徐々に走力がつき、高島平の20キロレースでは60分23秒で走り、チームで7番目の成績を残した。主力選手が3、4人出ていなかったが、1年目にして箱根駅伝のメンバー入りが見えてきた。その直後、シンスプリントの疲労骨折が判明し、16名のメンバー入りから漏れた。

「同期の強いメンバーが箱根を走ったんですが、そこで自分の力のなさを感じましたし、ここで部内の選考を勝ち抜いて箱根を走るというのはすごく大変なことだなと改めて思いました」

「攻めの走り」を評価された

 2年生になり、神野は「人生の転機」となる瞬間を迎えた。

 4月、日体大記録会があり、関東インカレで1万mを走る予定の上級生の3人以外は、全員が5000mに出場することになった。神野は何の実績もなく、「発言できる存在じゃなかった」のでチームの流れに任せるしかないと思っていた。ところが神野が「1万mに出たいんです」と言った言葉をひとつ上の藤川拓也と川崎友輝が聞いており、ふたりから「ダメでもいいから監督に1万mに出たいと言ってみろ」と言われた。おそるおそる原監督に話をするとOKをもらった。神野の1万mの持ちタイムは30分16秒だったが、その記録会で29分01秒をマーク、チームのなかで一番いいタイムを出し、関東インカレの1万mへの出場を決めた。

「関カレは、すごい選手ばかりで前半から速いペースだったんです。そのなかで無名の神野大地が果敢に攻めるみたいな感じで。最後、タレてしまったんですけど、原監督からは『ああいう攻めの走りが大事だ』と高い評価を得て、それからチームの主力になれたんです」

 この時の攻めの走りが神野の卒業後の進路にもつながった。

「関カレの走りを見ていたコニカミノルタのスタッフから夏合宿に来ないかと誘われたんです。コニカミノルタは憧れの宇賀地さんが行ったチームで、自分のなかでは夢のような特別なチームでした。夏合宿に参加させてもらい、練習を100%やりきり、そこで、ほぼコニカミノルタに行くことが決まりました。高校の時の原監督との出会いといい、1万mをたまたま見ていたコニカミノルタの方とのつながりといい、奇跡的というか、ドラマみたいなことが起きて驚きましたし、僕の陸上人生の大きなターニングポイントになりました」

 大学2年は、自らの進む先が見えただけではない。競技者としての意識も大きく変わった転機になった。

「部員が多いと、練習でアピールしてもなかなかチームの代表にはなれないんです。その力を発揮すべき場所で発揮しないと評価されない。その意味では、記録会で結果を出したのが大きかったですね。それから自分の目指す目標がどんどん高くなって、箱根の2区を走っても区間賞獲れなかった悔しさを感じました。上には上がいるというのを感じて、そういう人たちに勝ちたいという気持ちになり、自分が頑張る源みたいになっていったんです」

「3代目山の神」となりフォロワーが10倍に

 神野は、結果を出し、部内でのポジションを確立していったが、あくまでも大学レベル、チーム内のこと。神野の名前を全国区にし、その後につながる人生最大のポイントになったのは、5区を駆け、「3代目山の神」となった大学3年時の箱根駅伝だ。

 5区を走るきっかけになったのは、思わぬ結果からだった。

 山の練習時、神野の感覚としてはかなり遅く、このスピードでは2度と坂を走ることはないと思った。だが、ゴールすると原監督から「お前、すごいぞ」と言われた。神野は練習の段階でチームの誰よりも圧倒的に速かった。

「練習の時、これでいいの?って感じだったので、本気で走れば、もっと速く走ることができると思っていました。1、2年の時は山の神になりたいとかまったく思っていなかったんですが、『5区を任せる』と言われてからは、本番まで1か月半、毎日、山の神になりたいと思って練習をしていました。選手のなかには、そのために走ったんじゃないと山の神と言われることに違和感を抱く人もいるけど、僕は山の神になりたくて走ったので、そう呼ばれるのを待っていたという感じでしたね」

 5区での区間新の走り、青学大の箱根駅伝初優勝の影響力は、すごかった。それまで3000人だったツイッターのフォロワー数が箱根以降、3万人になった。外に出れば声をかけられることが増え、大学ではみなに知られる存在になった。

「僕は、注目されるのが嫌いじゃなかったです。陸上ってなかなか注目されるスポーツじゃないですし、しかも陸上選手はチャラチャラせずに真面目に走れみたいな感じで育ってきた。箱根ですごく注目されたのは新しい感覚でしたし、そういう刺激がうれしかったです」

 箱根駅伝は、自信、タイトル、人気など有形無形のいろんなものを神野に与えてくれた。4年時も5区を走り、箱根駅伝で2連覇を達成した。3回、箱根を走ったなかで一番印象に残っているのは初優勝を果たし、山の神になり、金栗杯も受賞した3年時だが、思い出深いのは4年時の箱根だという。

「あいつは山だけだ」と言われた

「4年の時は、箱根に向かうまでいろんなことがあって、苦難を乗り越えての優勝だったので、特別な思いがありました」

 4年時、神野は故障に苦しみ、戦列に復帰した直後、全日本大学駅伝ではアンカーを任された。トップの東洋大とは25秒差、大方の見方は神野が最後逆転して、青学大が優勝するだろうというものだった。だが、神野は失速し、逆に30秒もの差を広げられて東洋大に敗れた。

「この時は、かなり追い込まれて、陸上を辞めようかなとさえ思いました。SNSとかでも、『神野のせいで負けた』『ケガしていたのになぜ走らせたんだ』『あいつは山だけだ』とか、いろんなことを言われて、かなりしんどかったです。箱根も一時は諦めようと思ったんですが、最後に出ないと後悔すると思い、1か月半、必死で練習をしました。4年時の箱根は、落ちるところまで落ちて、それを乗り越えて、最後に優勝できたので一番喜びが大きかったですね」 

 神野は、大学を卒業後、1年半後に福岡国際マラソンを走ることになる。箱根を走ったことが、その後の競技人生にどのような影響を与えたのだろうか。

「よく箱根駅伝がマラソンをダメにするとか言われるけど、僕からすれば箱根がなかったら日本のマラソンはこんなに盛り上がっていなかったと思うんです。僕は、社会人2年目でマラソンに挑戦したけど、今は1年目や学生の時から挑戦する選手もいます。それは、箱根のために30キロ走とかを年間通してやっているからです。箱根がなければ大学で30キロ走なんて、絶対にやらないですからね。その距離の練習をしていたおかげで、社会人になってマラソンをやりたいと思った時、スムーズに移行できた。僕のマラソンのベースを作ってくれたのは、箱根なんです」

後編へ続く>>「山の神止まり」とは言わせない。神野大地が目指すマラソン日本代表への道

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