【今週はこれを読め! エンタメ編】ただひとつの真実が胸に迫るミステリー 芦沢央『夜の道標』

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2022年08月17日 12:31  BOOK STAND

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『夜の道標 (単行本)』芦沢 央 中央公論新社
塾の経営者である男性が殺害された。容疑者と目されているのは、元教え子の男。その男を追う刑事たちがいる。その男を匿う女がいる。その男に食べ物を分け与えられて、命をつないでいる小学生もいる。そして、その小学生の身を案じる同級生も...。物語の視点人物は次々と入れ替わり、果たして何が起きているのかと読者の興味を強く引きつける。

 しかし、読み進むにつれて、ストーリーを追うだけで十分という類いの本ではないことがわかるはずだ。読者はここで書かれている登場人物たちの抱える苦悩に圧倒されるに違いない。

 事件が発生したのは、1996年秋の横浜。自らが営む学習塾で戸川勝弘が亡くなっているのが発見された。被疑者は建設現場作業員の阿久津弦。12歳から17歳まで戸川の塾に通っていた、いわゆる教え子だった。しかし、事件直後から阿久津の足取りはつかめなくなっていた。もう何年も顔を合わせていなかったらしいふたりが、なぜ今になってこのような事件に発展する再会をしたのかもわからない。知的あるいは情緒に障害のあったり不登校傾向のあったりした子どもが、戸川の熱心な指導によって落ち着きと意欲を持って物事に取り組むことができるようになったと語る保護者は多かった。誰も悪く言う者のいない人格者は、なぜ殺されなければならなかったのか。事件から2年が経過し人員も縮小された状態で、それでも地道に捜査を続ける平良正太郎と同僚の大矢啓吾は、さまざまな角度からのアプローチを続けている。

 一方、小学生の仲村桜介は、同級生の橋本波留が交通事故に遭ったのは自分が直前に声をかけたせいだと自責の念に駆られていた。桜介と波留は同じバスケットボールのクラブチームに入っている。以前は桜介よりもバスケのうまい小学生は学校にいなかったけれど、6年生の4月に転校してきた波留の実力は段違いだった。故障の波留を欠いた試合で、チームは大敗を喫する。しかし、波留は試合に出られないことを何とも思っていない様子だった。決して他者を自分の心に踏み込ませない波留が、ただひとり胸の内を明かした相手とは...。

 さまざまな読み方が可能な重層的な作品だと思うが、個人的には親子の物語としての側面が胸に迫った。本書には何組もの親子、あるいは疑似的な親子とでも言うべき関係が存在する。子は親の所有物ではないということを頭ではわかっているつもりだけれど、我が子たちに対して自分の思い通りに行動するよう押しつけてはいなかったかと、読者である自分も改めて問われた気がする。子どもは、特に小さい子ほど、親の言うことは絶対だと思ってしまう。親だって間違うことがある、これは人間だからしかたない。間違えたときに、きちんとそれを認めて正せるかが大事なのだ。

 でも、正しさとは何だろう。例えば、犯人が戸川先生を殺害したことは決して許されない。けれどもし事件が起きていなければ、犯人が匿われることも新たな出会いもなく、別のひとつの命が消えてしまっていたかもしれない。さらに、歴史的な背景が深く関わっていることも、より問題を難しくしている。読み終えてからずっと考えているが、いまだ明確な答えを出せていない。

 誰もが幸せになる資格がある。親なら誰しも子どもの幸せを願っている。信じれば夢は叶う。...こういった前向きな言葉が、すべて真実だと言い切れるならばどんなにいいだろう。だが実際には、当てはまる場合もあればそうでないケースもある。本書においても、救いを見出せた登場人物とそうでない者がいる。全員が幸せになってめでたしめでたし、といった展開はフィクションといえども期待できない。それでも、自分の罪や過ちと向き合って受け止める強さを持つことができれば、それは傷つけた相手への償いの第一歩ともなり得るのではないか。

 昨今、特殊設定だったり多重解決だったりSF風味だったりと、凝った趣向のミステリーも多い(それらも大大大好物だが)。そんな中、ただひとつの真実が胸に迫るこの作品の持つ、圧倒的な存在感を突きつけられた思いがする。ミステリーということでネタばらしを避けようとすると、詳しく書けない部分も多いのだが、ずしんとくる小説を読みたい方はすぐさま読み始めていただければと思う。10年間の作家生活の集大成として芦沢央という作家が世に問うた『夜の道標』を手に取ることは、自分自身の心を見つめる読書体験ともなるに違いない。

(松井ゆかり)


『夜の道標 (単行本)』
著者:芦沢 央
出版社:中央公論新社
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