東京にも存在した鹿児島・トカラ列島の「宝島」 出身者が集まった“東京宝島村”の軌跡

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2022年08月20日 08:00  AERA dot.

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写真宝島原産の種からカボチャが群馬県で300〜400個収穫できるほど増えた。前列右が杉田ハルコさん、その隣が亀井ヨシノさん、左側が亀井秀夫さん/群馬県太田市(写真:土屋久さん提供)
宝島原産の種からカボチャが群馬県で300〜400個収穫できるほど増えた。前列右が杉田ハルコさん、その隣が亀井ヨシノさん、左側が亀井秀夫さん/群馬県太田市(写真:土屋久さん提供)
 東京に「宝島村」があった。トカラ列島の宝島から集まってきた人たちの集まりだ。同列島が米軍占領下から日本に復帰して70年。村の軌跡と島のいまを追う。AERA 2022年8月15−22日合併号の記事から紹介する。


【写真】日本復帰を控えた宝島(鹿児島県十島村)の様子
*  *  *


「お友だちがね、奄美大島に移住するんだって」


 東京都文京区小石川に住む杉田ハルコさん(84)は夕食時、孫の真奈さん(27)にそう聞いた。故郷の宝島(鹿児島県十島村)から、当時はまだ「外国」だった南隣の奄美大島(同県)に密航船で渡った70年前のことを思い出した。


 敗戦直後の鹿児島県が北緯30度線で分断され、これ以南のトカラ列島、奄美群島などが米軍占領下に置かれたのは1946年1月。その6年後の52年2月、宝島を含めたトカラ列島が日本へ返還された。9人きょうだいで下から2番目のハルコさんは53年に中学校を卒業。その夏、定時制高校に通うため長兄の大久保清さん(故人)を頼って奄美大島に渡った。「国境警備船」がいたため、深夜に改造漁船で3〜4時間かけて「脱出」した。奄美大島が日本に復帰したのは同年12月のことだった。


■「一族のせいで過疎化」


 清さんは同島を拠点に会社を経営する一方、東京で弟たちやハルコさんと後に結婚することになる杉田稔さん(87)らと、小さな製本会社を立ち上げる相談をしていた。55年に清光社を設立し、翌年にハルコさんと上京。高度経済成長の波に乗って業績を拡大し、宝島出身者をどんどん雇い入れた。昭和30、40年代だけで100人を超えた。


「うちの一族のせいで宝島が過疎化したと冗談を言われるけど、申し訳ない思いもあります」


 とハルコさんは言う。週刊朝日やAERAの製本も手掛けていた。


 当時の同社の息づかいは、季刊「しま」(日本離島センター)の「島の精神文化誌」(5回連載)に詳しい。月の休みは2日間で、徹夜も当たり前。暮れの30日に仕事が終わって31日と正月三が日が休みだった。1月2日は宝島以外の関係者も集まる「宝友会」が毎年開かれた。


「島では現金収入がない暮らしをしてきたから、お金を使うのが楽しかった。一番大きな買い物が家。みんなこの周辺に家を買った。子どもができて孫ができて」


 ハルコさんは言う。そうしてできた「宝島村」と呼ばれた人たちの集団は、昭和50年代には300人ほどに膨らんだ。



 ハルコさんの母アイヅルさんと姉ソエさん(ともに故人)も、63年に東京に出てきた。アイヅルさんは「宝島村一家」の母のような存在となった。あちこちにあった会社の寮では、4畳半一間に家族4人が住むことが多かった。アイヅルさんも工場の上の寮に住み、みんなの子どもの面倒をみたり独身者に食事を作ったりした。


「宝島村一家」に限らず、会社関係者ら多くの人が出入りした。アイヅルさんを受け継いだハルコさんも面倒見がよく、今年も300枚の年賀状を送っている。


 ハルコさんの11人の孫の一人で、佐賀県で放送記者をしている千恵さん(25)は大学4年間を小石川の家で過ごした。


「おばあちゃんのうちのキッチンルームには、いつも知らない人が座っていた」


 昨夏にかけて「島の精神文化誌」を連載した順天堂大学講師の土屋久さんは、こう話す。


「『東京宝島村』は宝島の方々の、協働・団結・勤勉といったエートスの結晶です。そうした心の習慣が時代と合致し、皆さんの繁栄につながっていったのだと考えます」


■沖縄戦の映像を見て涙


 いま、社長は清さんの次男になり、会社も「セイコーバインダリー」と名前が変わって平成の半ばに埼玉県新座市に移転した。従業員を宝島から雇うこともなくなった。


 それでも、宝島出身の関係者はしばしば会って昔話に花を咲かせる。この6月にもほぼ女性ばかりの数人が集まり、「Lara物資」が話題になった。米国の民間団体が終戦直後、日本に食料や衣料を提供したのだ。


「缶詰とか、ハイカラな洋服や赤ん坊用もあった」


「七面鳥なんか初めて食べた」


 ハルコさんも米軍統治下のトカラ列島について、「私は小中学生でしたから、楽しい思い出しか残っていません」と振り返る。中学2年時には「密航船」で鹿児島市に修学旅行に行った。


 ただ、毎朝のように見るNHK連続テレビ小説「ちむどんどん」で、沖縄戦の映像が出てくると涙が止まらない。米軍が宝島に上陸することはなかったが、戦争末期には4、5家族がまとまって山中の洞のそばに小屋を建てて住んだ。空襲警報が鳴るとすぐに洞の中へ。たまに集落に戻ると、家の壁に機銃掃射の跡があり、庭には爆弾が落ちた大きな穴があった。従兄は沖縄戦で戦死した。



 一方で、ハルコさんは「宝島のいま」を知るために親戚の平田和代さん(67)とよく電話で話をする。先日かけたら和代さんがちょうど13頭の牛の世話から戻ったところで、山海留学生として今春に東京から来た中学1年生とこれから夕飯だという。山海留学生は今年、これまで最高の42人(小学2年生〜中学3年生)で、十島村の七つの島に滞在している。宝島は9人だ。91年から始まった同留学制度を利用したのは、昨年までのべ465人に上る。


■変わらない島の暮らし


 和代さんは中学校を卒業後、島を出た。故郷に戻ったのは20年ほど前だ。


「島の暮らしは変わりません。落ち着くけれど、仕事はありません。自分は民宿もしていますが、船が来るのは週2回だけ。島の暮らしにあこがれてくる若い人もいるけれど、離れていく人もいます」


 村の人口対策室によると、4年前に移住してきた16世帯のうち、昨春まで定住したのは11世帯。7割は「健闘」だろう。


「Uターン」を検討中の人もいる。6月にハルコさんの家でのおしゃべり会に集まったメンバー、亀井ヨシノさん(72)もその一人だ。中学校を出て上京したのが65年。清光社とは別の会社で働き、秀夫さん(69)と結婚後は夫の故郷の群馬県に住んでいる。


「冬の冷たいカラっ風にはまだ慣れないし『海なし県』でしょ」


■若い世代にはまぶしい


 2年前に退職した秀夫さんは旅好きで、海のそばで暮らすことにあこがれがある。最近、宝島のヨシノさんの親戚たちと月に数回、電話で話している。


「2013年に宝島の知り合いからもらった宝島カボチャの種3粒を群馬の畑にまいた。収穫は10月で、300〜400個はとれます。でも、島ではもうなくなっちゃったみたい。この種を絶やしてはいけない」


 ただ、子や孫たちは群馬県周辺にいる。


「行ったり来たりができれば、理想的かな。村の空き家をシェアハウスにできれば」


 十島村の村山勝洋総務課長(53)は、東京で開かれる「関東トカラ会」に何度か顔を出したことがある。


「出身者の方々と親しく話ができます。村の財政は厳しいですが、新しい人に来てもらうほか、村の出身者の方々が故郷に帰りやすいように知恵を絞りたい」


 冒頭でハルコさんと孫の真奈さんが会話をしていた夕食の席に話を戻そう。真奈さんの友人は村おこしの仕事をするという。ハルコさんも5月に奄美大島に久しぶりに帰って高校の同窓会に出たら、「奄美で暮らしたい」とやってくる若い人が増えたとも聞いた。


 70年前に自分たちが後にした故郷は、平成・令和の新しい世代に、まぶしく見えているのかもしれない。(ジャーナリスト・菅沼栄一郎)


※AERA 2022年8月15−22日合併号


このニュースに関するつぶやき

  • 菅沼栄一郎はこう言う文章書かせたらやっぱり上手いと思う。だけど、バナナ突っ込んじゃダメ、ゼッタイ。
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