井原正巳が振り返る日本代表の12年間。「日本サッカーの激動の時代に代表に絡めたことは大きな財産」

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2022年09月27日 10:51  webスポルティーバ

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日本代表「私のベストゲーム」(13)
井原正巳編(後編)

 日本代表の歴史を振り返ると、今でこそ出場するのが当たり前になったワールドカップも、かつては夢の世界だった時代が長く続いた。

 世界を目指すどころか、アジアですら頂は遥か彼方。事実、1990年イタリア大会のアジア予選では、最終予選にすら進めず、一次予選敗退に終わっている。

 井原正巳が初めて日本代表に選ばれたのは、そんな頃の話だ。

「大学生の時に代表に初めて選んでいただいて、自分が代表に入っていながら、当時イタリアのワールドカップに本当に行けると思って予選を戦っていたのかと言えば、日本でのサッカーの注目度であったり、盛り上がりも含めて考えると、行けなくて当たり前じゃないですけど、まだ遠い存在だったのかなとは思います。

 自分自身も本気でワールドカップを目指していたのかというと......、ちょっとクエスチョンのところもありますし、それは夢の舞台なんだろうなというくらいの、そういう遠い存在ではありました」

 井原が、ようやくワールドカップ出場を現実的なものとして考えられるようになったのは、1994年アメリカ大会のこと。すなわち、"ドーハの悲劇"で知られる予選からだ。

「オフトジャパンになって、日本代表がダイナスティカップ(現E-1選手権)やアジアカップで結果を出すことができて、ワールドカップへの出場権を獲得するための自信につながりました。ちょうどJリーグが1993年に開幕して、そこでの盛り上がりも代表チームの強化につながったと思います。

 夢だったものが手の届きそうな目標に変わってきて、ドーハ(アジア最終予選)の時には(ワールドカップへ)行けるんじゃないかなという、そういう思いにはなっていました。実力的にも手応えをつかんで臨んでいたのが、アメリカ大会の予選だったと思います。その時は、ようやく日本代表がアジアのなかでもトップレベルの位置まで来たなという実感がありました」

 結局、アメリカ大会は最後の最後で予選突破を逃す悲劇的な結末に終わるのだが、もはやワールドカップは自分たちの手の届くところにある。そして、次こそは絶対につかみとらなければいけない。それを改めて認識させられたのが、この時だった。

「もちろん運不運もあったと思いますけど、残念ながらドーハで結果を出すことができず、最終予選を勝ち抜くことの厳しさを教えられたのが次のフランス大会につながったのかなとは思います。この悔しさを晴らせるのは、次のワールドカップ予選しかないと思っていましたから」

 そして迎えた、1998年フランス大会。日本代表はここで初めてのワールドカップ出場を果たすことになる。わずか2大会前には最終予選にすら進めなかった弱小国だったことを考えれば、奇跡的と表現していいほどの急成長と言っていいだろう。

「日本代表にまだまだ力がなかった時代から、ようやく自信を持ってアジアでも勝てるというところまで到達していく。そしてJリーグの盛り上がりも受けながら、フランス大会で初めてワールドカップに出場できた。そんな日本サッカーの激動の時代に代表に絡めたということは、自分にとっては大きな財産ですし、いろんな時代を知っているということが自分にとってはすごく大きいのかなと思っています」

 結果的に井原にとっての、そして日本代表にとっての初めてのワールドカップは、3連敗でグループリーグ敗退に終わった。

 だが、今にして思えば、当時の日本代表はあらゆる点であまりにも経験不足だった。井原は当時を振り返り、そんなことを感じている。

「我々選手の経験不足はもちろんですが、スタッフや協会の方々にとっても初めてのことだったので、ワールドカップで勝つためには何が必要か、というところでの経験が足りなかった。今の日本代表は7大会連続で出場を決めて、上位に行くために必要なことが整理されている段階だとは思いますけど、当時はそういうことがまったくわからなかった。ある程度しょうがないことだったとは思うし、その経験があったから今があるのかなとは思いますけど......。

 当時はワールドカップというもの自体が初めての経験で、事前に海外でのテストマッチもできずに直前キャンプで初めて2試合だけやって本番に臨みました。試行錯誤しながら本番に向かうという状況だったと思います。その過程では、ワールドカップ直前に(本大会の登録)メンバーを選ぶということがあり、日本中からいろんな意見が出るような状況にもなってしまいましたし。

 やはり全体的に準備不足と言いますか、もっと違う準備の仕方があっただろうとは思います。何がいいのかわからないまま、とにかくワールドカップに突入していったという感じではありましたね(苦笑)」

 初めてのワールドカップ出場から24年。今にして思うと、何より準備不足だったと感じるのはメンタル的な部分。すなわち、「我々はワールドカップに出場することに少し満足していたのかもしれない」ということだ。

「勝つためにワールドカップに行ったのではなくて、ワールドカップにまず出るために頑張ってきて、出ることができて、それで満足していたのかなというところは、今となっては反省点としてあります」




 日本代表が挑む7回目のワールドカップは今年11月、因縁の地、カタール・ドーハで開幕する。

 ワールドカップ史上初の冬開催、そしてコロナ禍対応の規定変更など、異例づくめの今大会は、だからこそ、注目すべきポイントも数多いと井原は語る。

「登録人数も交代人数も今回は増えることが決まりましたし、総力戦的な要素がすごく増すのかなと思います。そのなかで各監督がどういうプランで試合に臨むかというところは、こちらも楽しみなところではありますね」

 もちろん、異例ならでは不安要素もある。

「それはどこの国も同じかもしれないですけど、事前キャンプができないような日程のなかで、ぶっつけ本番に近い状態で大会を迎えなければいけない。そこでどう調整し、どうピークに持っていくのかというところも、勝つためにはすごく大事になってくるのかなと思います。

 日本代表でも、南野(拓実)、守田(英正)、吉田(麻也)などがチームを移りましたが、そういう選手が(所属クラブで)どれだけ力を発揮して自分のポジションをつかんでやれるかというのも、ワールドカップの時のコンディションやゲーム勘などに響いてくると思います。そのあたりを監督がどう判断してチームを作っていくかというところは、すごく興味深いところではあります」

 そう語る井原自身、現在は柏レイソルでコーチを務めている。過去には北京五輪代表コーチ、アビスパ福岡監督を務めるなど、豊富なキャリアを有する現役指導者だ。

 それゆえ、ワールドカップとの向き合い方も、自然と"指導者目線"になってくる。

「毎回毎回、選手選考であったり、大会に臨むにあたっての準備であったり、いろんな流れがありますけど、それぞれの大会を見ていて、ワールドカップで結果を出すということは本当に難しいことなんだなと、4年ごとにその思いを改めて感じさせてもらっています。自分の指導者としての視野を広げるためにも、すごく勉強になりますね。

 もう(現役を引退した)自分は指導者として関わらせてもらうしかワールドカップに行く方法はないので、いつかはワールドカップに関われるような、そういう指導者になりたいと思ってやっています」

 ただ――。そうつないで、井原が苦笑まじりに続ける。

「代表監督というのは本当に大変だなという思いが、毎回強くなってきていますね。なまじっかな精神力では務まらないんじゃないかな、と。代表監督の重圧というのは本当にすごいんだろうなと、改めて感じています」

 そこではもちろん、ともに日本代表の一員としてドーハの悲劇を味わった、森保一監督への敬意を欠かさない。

「森保監督は(年齢が)一個下なんですけど、オフトジャパンの時の戦友で一緒に戦っていますし、いつも変わらない姿勢というか、すごいプレッシャーがあるなかでもまったく動じないメンタルの強さを持っている。同じチームで戦った元メンバーとして、何とかワールドカップでベスト16の壁を破って、ベスト8に進んでもらいたいなと思っています」

 そして日本代表指揮官をよく知る井原は、こんな言葉で来たるワールドカップへの期待を語った。

「森保監督は、対戦相手がドイツだろうが、スペインだろうが、真っ向勝負じゃないですけど、守備的に戦うとかではなく、今までの日本の戦い方を今までどおりにやっていくんじゃないのかなと思っています。

 もちろん力関係的には守備の時間が長くなるということもあるとは思いますけど、日本の選手も、今はほとんどが海外で活躍している選手ですし、十分に戦えるはず。本当に楽しみにしています」

(おわり)

井原正巳(いはら・まさみ)
1967年9月18日生まれ。筑波大卒業後、JSL(日本サッカーリーグ)の日産(現横浜F・マリノス)入り。以降、日本を代表するDFとして名を馳せる。大学在学中に初招集された日本代表でも長年活躍。国際Aマッチ122試合に出場(5得点)。1998年フランスW杯に出場した。現役晩年にはジュビロ磐田、浦和レッズでプレー。引退後は解説者などを務めたあと、2009年に柏レイソルのヘッドコーチに就任。その後、同クラブの監督代行、アビスパ福岡の監督などを経て、2019年より再び柏のヘッドコーチを務めている。

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