コーチとの確執で一軍昇格を拒否。92年前半戦、阪神・野田浩司の気持ちはくすぶり続けていた

0

2022年10月01日 11:01  webスポルティーバ

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

webスポルティーバ

写真

1992年の猛虎伝〜阪神タイガース"史上最驚"の2位
証言者:野田浩司(前編)

 チームが首位に迫った1992年5月の終わり頃。阪神入団5年目の野田浩司は、もどかしさと焦りを感じていた。有力視された2年連続の開幕投手を担うことができず、成績不振で5月15日に登録抹消となった。二軍降格はプロ入り初だったが、先発陣の軸になるはずの右腕に何があったのか。30年前の状況を野田に聞く。




予兆は前年の5試合連続完投勝利

「その年はキャンプのあとに右ヒジが痛くなって、オープン戦は2試合しか投げてないんです。自分でも開幕投手は堅いと思っていたけど、4月になってもまだ痛みがあって、ローテーションに入れなかった。それでも一軍に帯同しながら治療して、ある程度投げられるようになったのでリリーフで何度か投げて、打たれてファームに行ったんですね」

 シーズン初勝利は4月28日のヤクルト戦。先発で挙げているが、それ以外は序盤でKOされ、リリーフでも負けがついての降格。前年は8勝14敗ながら、リーグ4位の212回2/3を投げた野田としては不本意でしかなかった。反面、経験ある仲田幸司のほか、中込伸、湯舟敏郎、葛西稔、猪俣隆といった若い投手が先発で台頭し、それが野田の焦りにつながっていた。

「マイク(仲田)さんがめっちゃよくて、ピッチャー陣がすごく頑張ってましたからね。じつは前年の9月、若手中心で5試合連続完投勝利というのをしているんですよ。チームは最下位なんだけど、そこから92年のローテーションができあがったような。しかもレベルの高い競い合いになっていて。そのなかで自分ひとり出遅れてしまった......という感じがありました」

 91年9月22日の横浜大洋(現・横浜DeNA)戦の中込に始まり、湯舟、野田、猪俣、葛西の順番で挙げた5試合連続完投勝利。まして、この5人は86年から90年までのドラフト1位である。編成と育成の方針が実を結んだ形と言えるだろうが、5人のうちもっともフル回転してきたのが、前年までの背番号1から18に変わった野田だった。

 熊本・多良木高時代からプロに注目されていた野田は、社会人の九州産業交通を経て、87年のドラフトで1位指名されて入団。スリークォーターから繰り出す快速球とフォークを武器に、1年目から42試合に登板して17試合に先発。3勝13敗ながら規定投球回に到達し、翌89年も43試合。90年も先発あり、リリーフありで37試合に投げ、11勝5セーブを挙げた。

「3年目は開幕から抑えを任されたんだけど、結果が悪すぎてクビになって、夏から先発に回って。その頃からなんとなく、自分でいい感じが芽生えてきたんですけど、それはピッチングコーチの大石(清)さんに鍛えられたからだと思います。とくに中込なんかはかわいがられて、相当に面倒を見てもらっていたけど、僕もかわいがってもらいました」

チヤホヤされるけど勘違いするな

 大石コーチは現役時代に広島、阪急(現・オリックス)で活躍。広島では60年から3年連続20勝を挙げたエースで、阪急ではリリーフとして67年からのリーグ3連覇に貢献した。引退後は阪急、近鉄、広島、日本ハムで投手コーチを歴任し、88年から阪神で指導。当初は二軍担当だったが、90年、野田が3年目を迎えた時に一軍投手コーチに就任した。

「大石さんは練習もめちゃくちゃ熱心で、今では考えられないぐらいボールを投げました。たとえば、遠征先でも朝起きたら、まずネットピッチング。ホテルに練習できる場所を設けてあって、眠い目をこすりながら投げるわけです。先発して次の日でも、内容が気に入らなかったら『投げろ』と。それぐらい、厳しい人でしたけど、実際それで身についていきましたから」

 なにもかも教えられたとおりにやらなければいけないということはなかった。自分でやってみて、微妙に違うと思えば、コーチと対話する。また違うことをやってみて、対話するという繰り返し。その指導方針の基本線は変わらなかったが、微調整をしながら球数を投げていくうちに「自分のなかでピッチングってこういうことなんやな」とわかってくるようになったと野田は言う。

「3年目まではほとんどわかってなくて、だから抑えもすぐクビになったんだなと(笑)。それが4年目は開幕投手をさせてもらって、1年間ローテーションで回って、200イニング以上投げて。そこから、自分としてはだいぶ自信がついてきましたよね。成績が出ても大石さんの教えは続きましたし、グラウンド外でも厳しい方でした」

 遠征先では大石コーチによる「門限チェック」があった。コーチ自身は常にホテルの食堂で夕食を済ますため、外出した選手が門限までに帰ってこなければすぐにバレる。コーチも食堂でビールを飲むことはあり、同席すれば面白い話をしてくれる。だが、生活面での指導は熱心だった。

「一度、門限を破ってホテルに帰ったら、部屋に紙が入っていました。<帰ってきたら部屋に来い>って書いてあって(笑)。その時は『プロで金を稼ぐためにはそういうことじゃダメだぞ』って言われましたし、よく言われたのは『タイガースのタテジマを着ているから人気とマスコミとファンがすごくて、いろんなところでチヤホヤされるけど勘違いするな』ってことです。

 大石さんは広島、阪急でプレーした方だから、僕らに言えたんだと思います。『タテジマを着ているから騒がれるだけで、まだおまえらなんか何者でもないヒヨッコやぞ』と。実際、自分でも勘違いしていたところはあったと思います。だから、それは後々、ありがたかったんですけど、その時はまだ素直に聞けてない部分もありましたね」

投手コーチとの軋轢

 先発として、ある程度コンスタントにやっていけるという自信がつくと、同時に数字もついてくるようになった。なおかつ、ローテーションの軸としての意識も高まる。まだ23歳と若いながらも、プライドのようなものが出てきた。ところが、そのことで大石コーチと衝突することになる。

「4年目のある試合をきっかけに、大石さんとの関係がおかしくなって......。試合後に投球内容のことでガツンと言われて、自分が言い返したような感じになって、ぶつかってしまったんです。1回、ぶつかるとギクシャクしちゃうから、そこからずっと折り合いが悪くなって。おそらく、監督だった中村勝広さんも全部知っていたと思います」

 ギクシャクしたまま、92年を迎えていた。開幕から不振の野田に対し、大石コーチの言葉は厳しかった。5月3日の広島戦に先発し、2回1/3でKOされた試合後など「困ったらフォーク。もうその考え方を捨ててもらわないと困る。マウンドであんな姿を晒したのでは、守ってもらっている野手に申し訳がない」と叱責している。

 その後、初めて二軍に落ちて屈辱を味わった反面、大石コーチと顔を合わせずにすむ日々が続くことになった。一軍戦力に加われないもどかしさと焦りを感じつつ、ファームでしっかり充電して、精神の安定を取り戻すことも必要と考えたという。

「ファームではヒジの治療に始まって、徐々に調子を上げていったんですが、首脳陣の方にだいぶお世話になりました。投げられるようになってからは育成コーチの上田次朗さん、バッテリーコーチの加藤安雄さん。とくに加藤さんは僕のいい時を知っていて、めっちゃ元気がいい人なんです。いつも受けてもらって、気持ちを盛り上げてくれました」

 ファームの試合で登板するようになると、中村監督から「早く戻って来い」との通達があった。だが野田は、「まだいいです」と返答した。6月上旬、チームが初めて単独首位に立った頃だったからか、昇格を拒否しても何も咎められなかった。ただ、大石コーチはマスコミを介して野田に言った。

「いつまでもミサイルが飛んで来ないところでホッとして過ごしているのがいいのか、それとも戦いのなかで、必死で相手に向かっていく日々を求めていくのか。状態はよくなったんだから、あとは気持ちの問題だぞ」

 6月も終わる頃になるとチームの状態が暗転する。始まりは28日の中日戦、守護神の田村勤が抑えに失敗し、23試合目で初黒星を喫したことだった。翌日、野田のもとに一通の手紙が届いた。差出人を見れば<中村勝広>とあった。

後編につづく

(=敬称略)

    ランキングスポーツ

    前日のランキングへ

    ニュース設定