「銀座」の都電をデパートの屋上から撮影してみた59年前 昭和が賑わう東京随一の街並み

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2022年10月08日 07:00  AERA dot.

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銀座三越屋上から撮影した数寄屋橋方面の銀座風景。眼下の晴海通りは地下鉄日比谷線延伸工事で、板張り道路と化していた。画面左側には戦後の銀座名物だった森永製菓の地球儀広告塔が佇立する。(撮影/諸河久:1963年9月14日)
1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は「三越百貨店・銀座支店」屋上から撮影した銀座の都電を「デパートの屋上から失礼します」と題して紹介しよう。


【写真】同じ場所の20年後! 1983年に銀座はどう変わった? 当時の貴重なカットはこちら
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 筆者は1963年に赤坂に校舎があった日大三高に進学している。この年は翌1964年に開催される「東京オリンピック」に向けた緊急工事が進捗しており、都心部はすべて工事現場の様相を呈していた。


 秋季の学内文化祭で「オリンピックで変貌する東京」というテーマ展示の撮影班に指名された。撮影で校務外出という授業免除の許可証を貰い、登校日にも拘わらず愛機・アサヒペンタックスを携行して、都心のロケ地に向った。その時に三越百貨店・銀座支店(以下銀座三越)の屋上から俯瞰撮影した都電が、今日では貴重な記録となった。


■デパートの屋上から失礼します


 冒頭の写真は銀座三越屋上から北西方の数寄屋橋方面を写した一コマだ。眼下の晴海通りを走る11系統築地行きの都電に敬意を表して「デパートの屋上から失礼します」という心境でシャッターを切っている。


 都電築地線の敷設された晴海通りは、1962年9月に着工した営団地下鉄(現・東京メトロ)日比谷線延伸工事の真っただ中だった。延伸工区の東銀座〜日比谷間はオープンカット工法が用いられたため、地表部は「板っぱり道路」と揶揄された木材で覆われていた。雨の日は滑るし、木板の隙間にハイヒールの踵をとられるなど、通行人からの苦情が絶えなかったようだ。地下で掘削された残土を搬出する櫓(やぐら)も林立し、絶え間ないダンプカーの出入りで晴海通りは騒然としていた。


 当日は曇天だったので遠景がやや不鮮明だが、東海道新幹線の架橋工事が始まった頃で、国鉄在来線の高架橋には山手線を走るカナリヤ色の国電が写っていた。




■燦然と輝く地球儀広告塔


 画面の右手前が銀座を代表するランドマークの和光本館で、1932年に竣工したレジェンドとして、2009年に近代化産業遺産に認定されている。晴海通りを隔てた筋向いに目を転じると、9階建ての不二越ビルの屋上には「銀座の地球儀」と呼ばれた森永製菓の地球儀広告塔が設置されていた。


 拙著『都電の消えた街 下町編』(1983年大正出版刊)の共著者だった林順信さんによると、地球儀広告塔は1953年4月に竣工し、直径11m、高さ12mで、使用したネオン管の長さの合計は3000mに及んだそうだ。夜の帳がおりると七色の星が瞬き、燦然と輝く地球儀のネオン塔は敗戦で打ちひしがれた人々に夢と希望を与え、戦後の新たな銀座名物として全国に喧伝された。


 旧景撮影から20年を経た今昔対比のため、銀座三越に申請した撮影が許可された日の朝刊に偶然にも「地球儀ネオン解体」のニュースが報じられ、絶好のタイミングで撮影したのが次のカットだ。足場で囲まれた球形の鉄骨の上には解体作業員の姿も見えている。前出の林さんはこの写真を見て「戦後の銀座はこれで一区切り終わったんだ」と感慨を述べられていた。


■6両の都電が行き交う銀座通り


「毎度ご来店ありがとうございます」と笑顔のエレベーター嬢に運んでもらった銀座三越屋上からは、手軽に銀座の街の景観が楽しめた。転落防止手摺の間隔が粗く、隙間から容易に一眼レフカメラのレンズを突き出すことができたのも幸いだった。



 屋上の南西方に移動して、銀座七丁目方面を写したのが次の写真だ。銀座通りに敷設された本通線には6両の都電が写っており、銀座通りの路面交通の充実ぶりを実感できるだろう。手前から4系統五反田駅前行き、40系統神明町車庫前行き、22系統新橋行き、22系統南千住行き、22系統新橋行き、22系統南千住行きが行き交っていた。新橋から京橋まで、銀座通りを頻繁に走る1・4・22・40系統の都電にチョイ乗りすれば、都電による「銀ブラ」を存分に楽しめた佳き時代だった。



 画面右側には高層化前の銀座の街並みが写っている。手前から鳩居堂、日本堂、大黒屋、オリンピックと二階建て商家が並び、ビル化工事中のワシントン靴店の先に銀座スエヒロ、文明堂と続いていた。いっぽう、画面左側に視点を移すと、建て替え前の銀座ライオンビアホールの屋根裏が劇場の舞台裏のように覗いていた。


■望遠レンズの屋上撮影


 母校の文化祭に展示した銀座三越屋上からの地下鉄工事シーンが話題になった頃、日大の大先輩であられた吉川文夫氏(1932〜2007)が「鉄道ファン29号(1963年11月号)」誌上に「撮影地ガイド デパートに上がろう―屋上から電車をうつす―」を寄稿された。趣味活動の会合で旧知の吉川氏から寄稿エピソードを伺うと、「諸河君は高性能の望遠レンズを常用しているのだから、デパート屋上からの都電撮影にも応用して欲しいなぁ」という提言をいただいた。


 吉川提言に応えるべく、望遠撮影には絶好の冬晴れ日に「タクマ―200mm F3.5」望遠レンズを装填したアサヒペンタックスを携行し、半年ぶりで銀座三越屋上に上った。



 最後の二枚が200mm望遠レンズで捉えた作品。板っぱりの晴海通りを走る都電と、オーソドックスな敷石の銀座通りを行く都電を撮影している。200mmレンズは肉眼と大いに異なる視点で都電を描写してくれた。



■撮影:1963年9月14日


◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。著書に「都電の消えた街」(大正出版)、「モノクロームの軽便鉄道」(イカロス出版)など。2022年6月に「EF58 最後に輝いた記録」をフォト・パブリッシングから上梓した。


※AERAオンライン限定記事


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