インスタントラーメンは芸術と言えるのか? 美学者に聞く「美味しい」という感覚の正体

1

2022年10月22日 12:11  リアルサウンド

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

リアルサウンド

写真

 食欲の秋。「美味しい」ものを食べると、幸せな気持ちになる。しかし、「美味しいとは何か」について考えた経験はあるだろうか。美学、心の哲学を専門とする九州大学大学院講師の源河亨(げんか とおる)氏の新刊『「美味しい」とは何か 食からひもとく美学入門』(中央公論新社)は、知覚に関するさまざまな文献から「美味しい」の正体を探る、知識欲と食欲の両方を刺激する一冊だ。


参考:古代中国の性生活は想像以上に激しい? 早大教授が語る、驚きと発見の日常史


 人はどうやって「美味しい」「まずい」という評価をくだすのか。レビューサイトの情報は信用すべきなのか。食も絵画や音楽と同じように芸術と呼べるのではないか。食に対する疑問がするすると胃に落ちてゆく。「美味しいと感じるのは味覚だけではない」と語る源河氏に、本作について聴いた。(吉村智樹)


■インスタントラーメンは芸術なのか?


――源河さんの新刊『「美味しい」とは何か 食からひもとく美学入門』を読んで、もっとも衝撃を受けたのは、「小腹が空いて食べるインスタントラーメンなど、日常的に口にする機会が多い料理も芸術であると主張したい」(第6章 芸術としての料理)というくだりでした。インスタントラーメンが、なぜ「芸術である」と言えるのでしょうか。見た目が地味で、栄養も少ないのですが。


源河亨(以下、源河):インスタントラーメンが芸術だというのは、きれいだ、美しいという意味ではありません。芸術というと、美しい絵画、有名なアーティストがつくった音楽、そういうものを思い浮かべてしまいますよね。けれども一方で、美しくない芸術作品なんていっぱいある。


 では、なぜ「インスタントラーメンが芸術なのか」というと、過去を振り返ってみると、芸術には既成の枠を壊そうとしてきた歴史があるんです。現代美術だって一千年前の人に見せたら、きっと「こんなものは芸術じゃない」と言うでしょう。インスタントラーメンがあんなに手軽に調理できるのも、カップラーメンがお湯を注ぐだけでできあがるのも、前例を覆そうとしてきた歴史があるからです。


――確かにインスタントラーメンには、現在の味になるまでに、きっと幾多の試行錯誤があったでしょうね。


源河:芸術を理解するうえで、「積み重ねた文化」を知ることはとても大事です。絵画、音楽、彫刻など、芸術作品は古代からすでに存在しています。それらを踏まえたうえで、「ちょっと変えよう」「新しいジャンルをつくろう」とチャレンジしてきた文化があるわけです。何気なく口にしたインスタントラーメンも、美味しくなるために積み重ねられた文化がある。「芸術ってどういうものなのか」を理解していくと、「インスタントラーメンも芸術に入ってくるんじゃないの」となるのです。


――なるほど。この本は、料理も芸術的と言えるほど美しく調理できる、という内容ではなく、料理を介して芸術や美学に対する考え方を提示しているのですね。


源河:インスタントラーメンが芸術である、というより、芸術とは何かを考えるきっかけとして、インスタントラーメンがある、そう捉えていただくのがいいと思います。私はグルメではないし、食にお金をかけることはほとんどありません。この本で扱っている食べ物は、ラーメン、カレーなど、わかりやすいものばかり。食通が書いた本だと思った人にはガッカリされるだろうけれど、食にこだわりがあったわけではないのです。


■美学が哲学の世界で味覚が「低級だ」と軽視される理由


――「ラーメンは芸術か?」という話にもつながりますが、食べ物はよほど高級料理ではない限り、美学や哲学の研究対象には、あまりならないのだそうですね。


源河:食べ物を「美味しい」「まずい」なんて言うのは「動物的だ」「低級感覚だ」とね。匂いを嗅ぐ行為がさらに動物的ですから。音楽や絵画を批評するのは高度な思考の働きによるものだけれど、味覚は単なる本能であり、「味の好みは人それぞれ」で済まされてしまう。それゆえに軽視される傾向があります。


――食べ物だって音楽や絵画と同じように、「感じる」という点では同じだと思うのですが。


源河:そうなんです。私は日頃、知覚に関する研究をしています。知覚研究や知覚心理学の世界では、「五感」(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五つ)はバラバラに働いているのではなく、感覚の相互協力、情報交換によって得られるものなのだと、当たり前に語られているのです。それなのに美学や哲学の世界では、味覚は感覚として低いものとみなされているのが現状です。


――源河さんは、食べ物を「美味しい」と感じることも、高度な反応だとお考えなのですね。


源河:そうです。たとえば食事のとき、隣にタバコ吸っている人や香水の匂いがきつい人が来ると、なんだか味も変わっちゃったように感じるじゃないですか。それは五感の働きによる作用だと私は考えます。「食べ物は果たして味覚だけで味わえるのか」「美味しいとは味覚だけを指すのではなく、芸術を鑑賞するのと同じように五感の相互協力によって生まれるものではないのか」。それを理論的に裏付けたかったのが、この本を書いた動機ですね。


■コロナ禍がもたらした「美味しいとは何か」という疑問


――「美味しいとは何か」「美味しさは味覚だけは判断できないのではないか」とお考えになったきっかけはなんだったのでしょう。


源河:コロナです。コロナ禍で家から出なくなった2020年あたりから、「美味しいとは何か」を考えるようになりました。緊急事態宣言などで外出ができない時期、自炊をするようになったんです。自分で料理をすると、味だけではなく見た目も気にするし、きれいにできたときなどは嬉しくなる。我ながら「複雑な評価をするものだな」と感じました。


 その時ふと、「自分はいったい何と比較して、うまくいったと感じたのだろう」と疑問をいだいたんです。人が「美味しい」「美味しくない」と判断するとき、知覚には何が起こっているのか。そこに興味を持ちました。


――言われてみれば、不思議ですよね。自分でつくって自分で食べるものなのに、「美味しくなった」と感じるなんて。知覚に変化が起きたのでしょうか。


源河:そうだと思います。私は料理をつくったり、食べたりする行為は「音楽に近い」と思ったんです。自炊をするとき、インターネットでいろいろなレシピを検索して参考にしたり、料理をつくる動画を観て真似たりする。他人が作成したレシピに従って自分も同じようなものを調理する。その行為に対し、「これは譜面に従って曲を弾いてみる行為に似ているな」と感じたんです。そして毎日料理をつくるプロセスがあるなかで、まるで演奏が上達したかのように「昨日よりもうまくなった」と感じる日がある。「これはいったいどういう作用なんだろう」と。


――自炊をした経験が、新しい感覚を開いたのでしょうか。


源河:料理をした体験を経て、これまで気に留めていなかったことに、注意が向くようになるんですよね。楽器が演奏できるようになり、楽器に関する知識が増えだすと、曲の聴こえ方がまるで変わってくるって経験、多くの人にあると思うんです。きのうまでは気がつかなかったのに、「この曲には、ここに細かい音がいろいろ入っていたんだ」って。料理も同じ。自分でつくるようになると、これまではわからなかった調理法や調味料の存在に気がつくようになる。


――コロナの時期が源河さんにもたらした影響は大きかったんですね。


源河:自分で料理をつくるうちに、「知識が料理に与える影響」「美味しくするために、人はどこに注意を向けているのか」などを考えるようになりました。料理も音楽と同じように、注意の向け方を変えると脳内の組織が影響され、味に対する知覚も変化するんだなって、身をもって知った。そのように、自分で料理をしていない頃は考えもしなかったことが、いっぱい気になってきたのです。


――つまり「美味しい」とは、単なる味覚の反応ではなく、五感の働きであり、さらに知識や経験によって変わってくるということですか。


源河:そうですね。人は食べ物を口に入れた瞬間、すぐに「美味しい」「まずい」と判断している気がしてしまう。けれども、実は「美味しい」「まずい」と判断できるのは、知識であったり、これまで食べてきた経験が蓄積された結果であったり、そういった積み重ねがあるおかげではないかと。それがあるから素早い判断がくだせるようになったのではないかと考えます。


――「美味しい」とは何か、その考察を深めるためには、自分で調理する経験がとても大事なのですね。


源河:絵画だったら構図、音楽だったら「このハーモニーを構成する音は何か」など、訓練すれば知覚の鋭さはどんどん変わっていきます。味覚に関しても、当然それはあるはずなんです。


■料理は味覚だけで評価すべきという「純粋主義」は是か非か


――「美味しい」の背景には、複雑な要素がからんでいるのですね。とはいえ一方では、料理を味わう際は一切の知識や情報を遮断し、味覚だけで評価すべきという「純粋主義」があります。これについては、どのようにお考えですか。


源河:知識を無視し、「何の偏見もなく食べるのが正しいんだ」って言う人、けっこうな数がいるんです。けれども、ちゃんと考えていないんじゃないかな。知識によって判断が歪められる場合ばっかりを強調して、「純粋なのがいいんだ」って言いたいだけなんじゃないでしょうか。


 そもそも、知識を完全に無視して味わうなんて、不可能ですよ。たとえば今、私の目の前には椅子があります。「あれは椅子だ」と知っているから、そこに座ることが可能になる。椅子についての知識を取っぱらい、「なんだあれは」みたいな認識に戻るって、もうできないですよ。


 だから、知識を無視して味わうなんて、ありえないんじゃないかな。仮にできたとしても、食べる楽しみが減っていると思うんですよね。「ここのラーメンにはこういう工夫があって面白い」とか、知識があったほうが楽しめるはず。それをあえて遮断する行為の、どこにいい点があるのか、わかんない。突き詰めて考えれば、純粋主義って、ぜんぜん魅力的じゃない。私たちの食事を豊かにしてくれるものではないでしょう。


――「美味しい」と感じるためには、知識があったほうがよいのですね。


源河:一概によいとは言えないけれど、多くはそうでしょう。音楽ならば、「この曲はこういう伝統やジャンルの流れを汲んでいる」「ここの編曲に工夫がある」などがわかっていたら、よりいっそう楽しめるじゃないですか。曲が生まれた背景について思いめぐらせるのも音楽の楽しみです。それと同じで、食事に関しても、「これはどこの国から来た料理」「調理にこういうアイデアがある」と発見する楽しみって、やっぱり知識があったほうが増えますよね。


 それに、知識がなければ、「値段が高いから美味しいと感じなきゃいけない」というふうになっちゃう。自分自身を守るためにも、あったほうがいい。


■「飲食店レビューサイト」の功罪


――「美味しい」を事前に判断する材料として「レビューサイト」があります。外食の際はいまや欠かせない存在となっていますが、源河さんはお使いになりますか。


源河:使いますよ。やっぱ失敗したくないですから。初めて訪れる店なら、値段などを多少は調べます。あるいは、「今日はとんこつの気分じゃないから、とんこつラーメンは行かないでおこう」と、そういう判断をするための材料として読みます。


――知識を得るのは重要だと思うのですが、レビューサイトの評価が絶大なものになってしまう危険性も感じてしまいます。


源河:弊害もありますね。先ほどの「一概には言えない」は、その危険性に対してです。「こういうダシが使われて〜」みたいな文章読んじゃうと、そこにばかり注意を向けようとしちゃう。ダシが目立って感じられてしまう。人間の注意力には容量があり、限界があるので、別の魅力が見えなくなっちゃう。ある一側面は際立ってくるけれど、別の側面が覆い隠されてしまう場合も、もちろんある。レビューサイトの文章に促され、味わい方が固定される危険性はあるでしょうね。


 結局、知識を得るために「どう読むか」だと思うんです。レビューサイトで高評価だったのに「ぜんぜん美味しくなかった」とか、悪い経験ばかりをすると、「人の話は聞くべきじゃない」と考えてしまう。悪いケースばかりを挙げ、「味覚は人それぞれ」「知識は邪魔だ」と、極端に偏った主張に走ってしまう人が多いんですよ。


 知識って、きっぱり「よい」「悪い」と言えるもんじゃない。外食する目的などに応じて「よかったり悪かったりする」ものなんです。読む側が、「何を求めているか」「ゴールはなんなのか」を整理していかないといけない。それが「考える」ということなので。


 美学とか哲学っていうのは、大雑把に捉えられがちな観念、偏りがちな主張を、ちゃんと切り分けていって根拠を明らかにし、「私たちの生活のあり方」を考えていこうって学問なので。「美味しいとは何か」をひもとくことで、読者が美学を勉強するきっかけとなってくれればいいなと思います。


このニュースに関するつぶやき

  • 個人的には「飲む芸術作品」としては、ドイツのEiswein (アイスヴァイン)と台湾の凍頂烏龍茶は、それこそ「飲む芸術作品」だと思う。日本では茶道の濃茶かな?
    • イイネ!2
    • コメント 1件

つぶやき一覧へ(1件)

前日のランキングへ

ニュース設定