宗教2世が自ら「人生のハンドル」を握るためにーー信仰と自由意志を考える

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2022年10月27日 07:11  リアルサウンド

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「神様」のいる家で育ちました 〜宗教2世な私たち〜

 宗教2世の問題が今、社会でクローズアップされている。現代社会は、これまで宗教2世とはどういう悩みを抱えているのか、ほとんど関心を払ってこなかった。筆者もその1人だ。


 信教の自由は基本的人権に定められている。成人した人間が何を信仰するかは自由である。しかし、子どもの信教の自由をどのように捉えればいいだろうか。家族が信仰しているものを自動的に享受することになりがちな子どもたちは、自由に信教を選んでいるとは言えるだろうか。


 2世たちは社会と家族と信教の狭間で、様々な葛藤を抱えて生きることを余儀なくされている。声を挙げてもなかなか広がらなかった2世の声が、今ようやく広く届きつつある。


 そんなタイミングで刊行された菊池真理子の『神様のいる家で育ちました』は、そんな2世の心の内をリアルに描いた作品だ。この作品が問いかけるのは、2世問題と信教の自由にとどまらない。もっと広く深く、人間の自由意志とは何なのかを投げかけている。


■親への愛情があるからこそ苦しい


 本書は、自身も2世である菊池氏の体験の他、様々な宗教2世の親子関係を一話完結のオムニバス形式で描いている。


 親子関係については、全てが不幸なものばかりではない。関係を絶たざるをえなかった親子もあれば、最終的には理解しあえる間柄になった親子も登場する。


 どのエピソードの主人公も、心ついた時から親とともに宗教活動に従事し何もおかしいと感じていなかった時代があり、学校に代表される「外の社会」に接した時、自身の家庭が一般的ではないことに気が付くという体験が描かれる。


 「もちろん、それに幸せを見出し信仰を継承する人もいるけれど、なかには成長するにつれ、意思と関係なく宗教に入れられて、こんな生活してるの自分だけ?・・・」(P5)


と苦しみを感じるようになる。本書で描かれるエピソードはどれも、幼少期の親子関係は悪くないし、親からの愛情もたっぷりと受けている。


 しかし、社会の中で色々な体験を経て成長し、自立する段階になってもなお、信仰にかんして自由を認めない親と衝突することになる。小さい頃にはたっぷりと愛情を注がれていた故に、家族としての愛情が深い分、親は親、自分は自分と簡単には割り切れない。好きだからこそ苦しくなるという側面もあるし、当然子どもの頃から教えられている信仰が頭の中にあり続けるために、天罰を恐れる気持ちがなくなるわけではない。


 本書は、ひとくちに宗教2世といってもその葛藤も親子関係も一律ではないことを教えてくれる。そして親だけでなく、子どもの頃から信じてきたもの、当たり前だと思っていたものに、敵意や差別意識を向けてくる一般社会もまた、彼ら・彼女らを苦しめてきたことがよくわかる内容だ。


■親から自由になるのは宗教2世じゃなくても難しい


 本書は宗教2世をめぐる物語だが、これらの物語を通して見えてくるものは、決して2世だけの問題ではない普遍的なものだ。


 親子関係というものは、宗教を抜きにして大きな問題となることがある。親の教えに縛られて、不自由だったと感じたことのある人は多いだろう。子どもの頃、世界のほぼ全ては親を通して教えられる。小さな子どもにとっては、「世界=親」との関係と言えるような時期すらあるだろう。そういう時期に植え付けられた思想は深層意識となって、人間の思考や行動を縛ることは普通に起こることだ。


 その意味では、宗教を挟まずとも、誰にとっても親から自由になるのはとても難しいことだ。


 だが、2世の人々の苦しみや葛藤を安易に普遍化するのも理解を浅くするだろう。宗教という、心の内面に深く踏み込むものが介在するからこそ、彼ら・彼女らの葛藤は一般的な親子関係がもたらすものよりも複雑なものとなっていることを、本書はわかりやすく教えてくれる。


 両親の結婚を「真のお父様」が決めた家庭に生まれた女性は、自由恋愛を認められずに苦しむ。しかし、実家を離れ一人暮らしをして自分の生き方を模索する中で、自分のあり方を確立していく。


「宗教がなかったら出会わなかった両親、生まれなかった私。だけど宗教を離れても生きていける。神の子ではないただの私を、世界はちゃんと受け入れてくれたから」(P60)


 こうした結論までたどり着く過程には、はかりしれない葛藤と苦しみがあったことが綴られる。宗教によっては、一般的に常識と言えることが教義で制限されていることがある。親に宗教絡みの学校に行かされ、学歴の問題で宗教から離れたくてもどうにもならない状況に追い込まれてしまう。


「何もさせてくれなかった、何もできないようにさせられた。あなたたちのせいじゃない。何も持ってないよ、誰も助けてくれないよ、もう生きていく方法がないよ」(P93)


 自由な意思で社会の中で試行錯誤しながら、人は生きる力を身に付けていくものだが、2世の中には、親からの強い縛りのせいで社会の中で生きていく力を奪われる子どもがいるのだ。そして、2世にとって難しいのは、自分に立ちはだかるものが、親のエゴなのか、信仰なのか、あやふやになりがちな点だろう。


「何が宗教の教えで、どれが母の考えで、どこからが私? だんだんわからなくなっていく」(P105)


■自由意思はどこにあるのか


 だが、宗教に限らず、自分の考えをゼロから築き上げた人間などいないだろう。自分の意思や考えは100%オリジナルではなく、必ず誰もが何かの影響を受けている。親や学校、国家、社会情勢の中で日々、様々なものに翻弄されて人は「自分の考え」を変えていく。


 そう考えると、人間の自由意志とはどこに存在するのか、本当は誰にもわからないものではないだろうか。


 カルト宗教で不幸になった人もいれば、幸せになった人もいる。一般社会に生きる私たちは、基本的にカルトで幸せになれるとは考えない。しかし、それは多くの人がそのように教えられてきたからではないか。そう考えると、私たち自身、一般社会の常識的な考えから自由になっているとは言えないかもしれない。


 自由かどうかは、本質的に測ることができない。結局のところ、第4話の主人公が最後に気づく、「人生のハンドルを自分で握る」(P78)実感を持てるかどうかにかかっているのではないか。


 「人生のハンドル」という言葉は、大変に示唆的だ。経済的な理由で人生のハンドルを握っている実感を持てない人だっているだろう。エリートとして育てられて名門進学校に行くことを余儀なくされた子どもも、人生のハンドルを握れているとは思えないかもしれない。この世界には、人生のハンドルを握れずに苦しんでいる人は、実は大勢いるのではないか。


 親子関係は自転車乗りの練習に例えられるかもしれない。小さい頃には補助輪をつけたり、親が後ろから支えてあげながら自転車に乗る練習をする。しかし、どれだけ危なっかしくてもハンドル自体は本人に握らせないと、練習にならない。そうして、ある時期がきたら補助輪も親の支えも必要なく、自分で自転車をこぎ出すことができるようになっていく。親だろうと誰だろうと、ハンドルを奪ってはいけないのだ。


  本書に描かれた2世の人々は、人生のハンドルを親に奪われていたのだ。そんな2世の人々の葛藤は、誰もが直面し得るものであり、人間の自由と意思、そして幸福についての本質的な問題を問いかけている。


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