「日本のジェンダーを平等に」女子サッカー界の“ガラスの天井”を破り続けるWEリーグ初代チェア・岡島喜久子さんの思い

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2022年11月05日 11:10  週刊女性PRIME

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WEリーグ初代チェア 岡島喜久子さん 撮影/伊藤和幸

 昨年9月、日本で初めての女子プロサッカーリーグ「WEリーグ」が誕生した。その初代チェアは元サッカー選手の岡島喜久子さん。女性がサッカーをやることは“キワモノ”扱いされていた'80年ごろから、サッカーを愛し貢献し続けてきた。国際大会に出られず悔しい思いをした日から今日に至るまで──。

2021年9月、WEリーグ開幕

 2021年9月22日午前10時、ドーム型サッカー競技場、ノエビアスタジアム神戸で歴代の女子サッカー選手たちが願い続けた日本初の女子サッカープロリーグ、WEリーグ(ウィーリーグ)開幕第1試合が行われた。

 照明が落とされた美しい天然芝のグラウンドに、WEリーグオリジナルのアンセム(賛歌)が響き渡る。作曲したTUBEのギタリスト、春畑道哉さんによる生演奏だ。エレキギターの旋律が競技場の空気をキリッと引き締める。

 その歴史的瞬間を見つめながら、あふれそうになる涙を堪(こら)えていた1人の女性がいた。

「音楽の力はすごい。開幕までにアンセムは何度も聴いていたのに、聴くたびに感動して涙が出ちゃう。あの生演奏は心が震えました。こうしてアンセムのことを話しているだけでも泣きそうです(笑)」

 そう話すのは、岡島喜久子さん(64)、WEリーグ(公益社団法人 日本女子プロサッカーリーグ)の初代チェアだ。

「日本の女子スポーツの新しいページが本日開きます。ウーマン・エンパワーメントという名前で、日本のジェンダー平等を前に進める覚悟のリーグです。世界一の女子サッカーと、世界一の女性コミュニティーの実現に向けて。そして、多様な生き方と夢が生まれる社会を目指して。みんなが主人公となるために、WEリーグがステージとなります」

 そう高らかに開幕を宣言した岡島さんの胸には、アンセムの旋律に引き出された積年の思いが渦巻いていた。

「中学生のころからサッカーをしてきましたが、当時の練習場所はほとんどが河川敷。土のグラウンドでドロドロになって練習しました。そのまま電車に乗って家に帰ることもあったし、バスタオルを3人で広げて目隠しを作り、その中で着替えたことも。試合をするにも対戦チームもいないような時代でした」

 岡島さんがサッカーに出合って50年近くになる。当時、女子選手は珍しかった。

「1980年代くらいまでは、取材を受けてもアスリートとしてではなく完全に『キワモノ』扱いだったんです。記事に書かれる言葉は『ボイン』や『オシリ』──。

 胸トラップは腕で胸をかばってもいいなんてルールもあって、ばかにされていると感じていました。あれから何十年もかかって、女子サッカーはようやくプロスポーツになった。素晴らしいスタジアムで、観客の声援を聞きながらプロとしてサッカーできる環境が整った。本当に感慨深いです」

母に一度捨てられた

 岡島さんは、日本橋の呉服問屋で育った。主な取引先は呉服店を起源とする老舗の百貨店、三越。日本橋三越本店のすぐ近くにあった間口の広い3階建ての住居兼仕事場は、岡島さんにとって格好の遊び場だった。

 1階は卸問屋、2階の手前には全国の産地から買い付けてきた反物が保管されていた。大島紬(つむぎ)や結城紬、ウールなど、高価な反物が積み上げられている様子は、子どものころから見慣れた風景だ。サッカーを始めたばかりのころは、積み上げた反物の間をぬって、裸足(はだし)でドリブル練習もした。

 同居していたのは祖父母に叔父叔母、そして母。父はおらず、母も仕事をしていたが、住み込みの従業員やお手伝いさんなど大勢の大人に囲まれ、寂しさを感じることはほとんどなかった。

「私ね、1歳半のとき、母に一度捨てられたんですよ」

 岡島さんは笑顔でカラリとそう言った。

 見合い結婚をした母は、義理の母から理不尽ないじめを受けていた。夫は頭脳明晰(めいせき)な自衛官。人柄も申し分なかったが、儒教精神の強い夫は自分の母を立てる。出産後も姑(しゅうとめ)のいじめはエスカレートするばかりだった。

 このまま我慢し続けて生きるのか、それともすべてを投げ出して自由になるか──。

 ある日、母は思い立った。「実家は商売を営んでいるのだから、自分にも仕事はある。実家に戻ってもお金の心配はいらないだろう」

 そう考えて、家を出た。

「ただいま」

 身一つで帰ってきた娘を見て、実家の両親は目を丸くして驚いた。

「娘はどうした?」

 祖父はたずねた。娘とは、1歳半の岡島さんのことだ。

「置いてきちゃった。だって、連れ子がいたら再婚しづらいじゃない」

 悪びれた風もなく話す母に、祖父は一喝した。

「とんでもない!子どもは連れてきなさい!」

 はたと目が覚めた母は、その足で嫁ぎ先に戻り、岡島さんを連れて戻ってきたという。

「母が私を連れに戻ってこなければ、人生はまた別のものになっていたかもしれない。不思議ですよね。父と母は憎み合ったわけではないので、私も含め、その後も年に一度くらいは会っていました。母は結局再婚もしていません。普段は祖父が父がわり。あれこれ制限されることなくのびのび育てられたと思います」

男子サッカー部に入部

 家は日本橋のど真ん中。家の前に小学校があり、地域に開放されていた校庭で日が暮れるまで遊んだ。幼いころから運動神経抜群で活動的。のぼり棒、うんてい、ジャングルジムはお手のもの。ドッジボールも男の子より強かった。

 サッカーに出合ったのは中学2年、ある晴れた日の昼休み。校舎2階の教室でお弁当を食べ、ふと窓から外を見ると、校庭で男の子たちがボールを蹴って走り回っている。衝撃が走った。

「何あれ、面白そう!」

 まだサッカーというスポーツも知らなかったものの、あそこにいるメンバーは小学校のときによく一緒にドッジボールをしていた男の子たち。

「きっと私にもできる!」

 それまで卓球部に所属していたが、体育祭ではリレーの選手。卓球よりもあのスポーツのほうが足の速さを生かせると瞬時にピンときた。

 職員室に飛び込み、サッカー部の顧問の先生を探して頼み込んだ。

「私をマネージャーとして入部させてください。ついでに、練習もさせてください!」

 男子ばかりのサッカー部に女子が1人で入部。もともとマネージャーだった女子も巻き込んで、一緒に練習に参加できることに。

「ママ、私サッカーやることにしたよ」

 家に帰って事後報告すると、特に反対されるでもない。母は女子でも入部させてくれる学校に驚いていたようだった。

 しかし、しばらくして、中学校の男子サッカー部の公式戦では、女子は試合には出られないことを知る。普通なら落ち込むところだか、岡島さんは諦めない。

「それなら、女子でも試合ができる方法を探せばいい!」

 雑誌『サッカーマガジン』の読者投稿ページを隅々まで探し、「チームメイト募集」の欄に女子チーム、FCジンナンを発見。すぐに入団した。できたばかりの日本初女子サッカークラブチームだ。

 平日は学校のサッカー部でマネージャー業務と練習に並行して取り組み、土日はFCジンナンで練習するサッカー漬けの日々が始まった。

「高校生から社会人まで、とにかくサッカーが好きな女性が集まっていた。私は最年少でしたが、すぐに試合に出られるようになりました。ただ、チームの数が少なく、試合相手が見つからないんです」

 都内では、高校の女子サッカー部が3つだけ。神奈川県の数チームとも練習試合をしたが、それだけでは飽き足らず、岡島さんは自ら関西の高校にも試合を申し込み、東西対抗リーグも実現させた。

私がコーチになる!

 FCジンナンの活動は充実していたが、コーチが定着しない。誰かの知り合いにコーチを頼み、短期間だけ見てもらうことの繰り返しだった。

「コーチがいないなら、私がコーチの勉強をしよう」

 思い立ったらじっとしていられない。D級ライセンス(アマチュアへの指導者)講習を受けることを思いついた。

 そのとき、岡島さんは16歳。受講の条件には、18歳以上と明記されていた。普通ならそこで諦めるところだが、岡島さんは諦めない。とにかくダメもとで聞いてみる。

「行ってみたら、女性で初めての受講者だからと受講できることになりました。ただ、ライセンスは18歳になるまであげられないよって。私は指導法が知りたかったので、それでよかったんです。

 条件に当てはまらなくても行って話せばなんとかなる。私にはこれまで、そんな成功体験の積み重ねがたくさんある。壁があっても諦めない。壁を壊すまではしないけど、壁の下をくぐったり、遠回りして壁を避けて向こう側に行ったりするのは得意なの」

 その講習で岡島さんは、大きな収穫を手にした。一緒に講習を受けていた9歳年上の折井孝男さんをFCジンナンのコーチにスカウトしたのだ。当時の岡島さんを折井さんはよく覚えている。

「岡島さんは、女性初、最年少の指導者講習の受講生。まじめで前向きで、頑張り屋でした。どこか日本人らしくないタイプで、あまり物おじしない。頼まれるとなんでも引き受けるようなところもあった。指導者講習のときには、僕も報告書を手伝ってもらいました」

 折井さんはその後、FCジンナンの指導者を長く続けることになった。1977年には、FCジンナンを初の国際大会「第2回AFC女子選手権(現在の女子アジアカップ)」に連れていった。その後、サッカー日本女子代表の2代目監督にも就任している。

女子日本代表チームを作る!

「第2回AFC女子選手権」には、もちろん岡島さんも選手として出場した。高校3年生の夏休みのことだ。

 初めての海外試合。開催場所は台湾の台北だった。

「当時、女子は日本サッカー協会に登録できませんでした。私たちは日本代表選手ではなく、FCジンナンというひとつのチームとしての参加。だから胸に国旗はつけられなかった。悔しかったですね。帰国したら絶対に女子代表チームを作るぞと心に決めました」

 とはいえ、岡島さんにとって、海外の大きなスタジアムで観客に迎えられ、天然芝のピッチでプレーするのは夢のような時間だ。海外の選手と会うのももちろん初めて。チームメートが部屋で過ごす間も、海外の選手たちにどんどん話しかけた。

「いつもどんなところで練習してるの?」

「どんな練習方法?」

「普段の仕事は何?」

 中高で習った英語を駆使して質問すると相手も真剣に答えてくれる。2週間弱の滞在期間中に、いつの間にか英語でコミュニケーションが取れるようになっていた。

「とにかく知りたいことがいっぱいあった。私は練習環境にも満足していなかったし、何より、海外の代表選手と話せることが楽しかった」

 帰国後はサッカーをしながら受験勉強に力を入れた。

「大学生になったら、女子サッカー連盟を作るためにサッカー協会でバイトしてリサーチしよう!」

 FCジンナンで短期間教えてくれたコーチの影響で、早稲田大学を目指した。受験勉強は順調で合格の自信があったが、受験当日、予期せぬ出来事が起こった。

「試験初日、ラッシュの電車に初めて乗ったら、生まれて初めて痴漢にあったんです。しかもその日は生理初日で体調も最悪。動転して頭もぼーっとして、自信があった英語がまったくできませんでした。あの痴漢、本当に許せない」

 早稲田大学は不合格。併願していた中央大学に入学し、並行して予備校にも通いながら翌年、早稲田大学に入学を果たす。

「今の年齢になると1年ぐらい大したことはありませんが、当時の1年は長い。私にとって大きな挫折でした。でも、ずっと考えていても仕方がない。はい次、って切り替えるんです。覚えてても何もいいことないでしょ」

 大学時代、アルバイトした日本サッカー協会は時給300円、交通費は出なかった。

「サッカーに関わることならなんでもやりました。郵便物の準備だって楽しかった」

 目の前の雑務をこなしながら、女子サッカー連盟を立ち上げるために必要な人脈や情報を集めていた。会う大人たちに、「女子サッカー連盟を作りたい」と言って回った。

 早稲田に入り直して2年目の1979年、念願の日本女子サッカー連盟設立が決まった。岡島さんは、設立に貢献したことが認められ、大学生の現役選手として唯一理事にも選出された。選手として活動しながら、大会運営にも全力を注ぐようになっていた。

 FCジンナンのチームメートだった酒井裕子さんは、岡島さんは常に「自分が貢献できることはすべてする」という姿勢でサッカーに取り組んでいたという。

「試合中にゴールキーパーがケガをしたとき、控えのキーパーがいなかったんです。そのとき、きっこ(岡島)さんが『私やります!』ってすぐに手を上げて、キーパーグローブをつけて颯爽(さっそう)と出ていった。フィールドプレーヤーなのに。カッコよかったなあ」

 とりわけ印象的だったのは1982年、『静岡県清水で行われた全国大会』でのことだ。

 試合の結果は敗戦。決勝に進めなかった。しかしそのとき、切り替えの早さにも驚かされたと酒井さんは言う。

「きっこさんはロッカールームで自分のロッカーを開けて『ワーッ』と号泣しました。だけどすぐに切り替えてロッカーを閉めたんです。『はい終わり。おしまい、次!』って。ピンチのときに自ら手を上げて全力を出し切ったからこそ、きっこさんは『はい次』って言えるんだと思いました。泣いていたのはほんの数秒。後にも先にも、泣いていたのを見たのはあのときだけです」

振り向いたら道ができていた

 大学卒業後の就職先には外資系金融機関を選んだ。土日は休めるため、サッカーの練習も確実に参加できる。入社後は金融の仕事が自分に向いていることにも気がついた。

「仕事が面白くなって向上心が出てきて、社内でニューヨークでの1年研修があることを知り、手を上げました」

 その研修には毎年男性社員が1名選ばれていたが、その年の内定者は英語があまりできなかった。岡島さんは、学生時代にアメリカへの1年間の交換留学の経験があり、英語に自信があった。上司は岡島さんを選んだ。それ以降、毎年その研修を受けるのは女性社員となったという。

「女性社員のほうが語学力が高い人が多かったんですよね。私はいつも結果的に女性初とか最年少とか、初めてのことに手を出すので、道を切り開いているといわれますが、振り向いたらいつのまにか道ができている(笑)。ニューヨークでの研修は大変だったけど、必死で夜中まで勉強したぶん、実力もついたと思います」

 岡島さんはその後、幾度か転職もしながら、38年間を金融機関で過ごした。

「当時、金融機関で女性の営業職は本当に少なかった。でもそれは逆に私にとってメリットでした。少ないからこそお客様が会って話を聞いて、覚えてくださる。営業は結果の数字がすべて。性別は関係ないと何度も感じました。さらに、女性のお客様にニーズも高かった。離婚後、元の夫の担当の男性にお金のことを相談したくないでしょう?」

 結婚後は夫の出身地であるアメリカのボルチモアに移住。

 仕事もしながら、40歳までいくつものチームに所属してサッカーを続けた。出産後には地元の子どもチームのコーチも始めた。

 岡島さんの息子、ケントさん(25)は、岡島さんからよく言われた言葉としてこんなことを挙げてくれた。

「他の人と比べて僕はできないって言う前に、努力をしなきゃ何もできるわけないじゃない?ってよく言われました。

 その言葉は僕にとって、スポーツ、学業、仕事をするうえで、すごく役に立ちました」

引退生活を変えた1本の電話

 日本に暮らす岡島さんの母が90歳を迎えるころ、認知症が進行し、施設に入所することになった。岡島さんは日本に戻る必要が増し、毎年少しずつ仕事を抑えるようになり、2019年に引退。引退後、世界中をコロナが襲った。

「引退したら、夫と2人でゴルフや旅行を楽しもうと思っていたのに、外出できなくなりました。仕方がないから、家でお菓子作りや料理を楽しんだり、マスクを作ったりして過ごしていたんです」

 そんなある日、突然電話が鳴った。日本サッカー協会の今井純子理事(女子委員会副委員長)だった。

「日本に女子サッカーのプロリーグができます。そこで、ぜひ代表になってほしいのです。代表を務められるのは、岡島さんしかいない」

 今井さんは何年も女子委員長を務め、誰よりも女子サッカーを知っている人物だ。

 岡島さんはサッカー関係者にも人脈が広く、ビジネス経験も豊富だった。新しく女子サッカーのプロリーグを立ち上げるためには、持続可能な組織となるよう、代表者の経営的なセンスも欠かせない。

 そして何より、岡島さんは選手経験者であり、女子サッカーの歴史を切り開いてきた。誰よりもサッカーを愛している自負もある。

 代表理事が具体的に何をするのかもわからないが、断る理由は見つからなかった。

「やります」

 40代で前十字靭帯(じんたい)を負傷し、プレーすることを諦めたサッカー。これから日本でプロサッカー選手を目指す女性たちのため、自分ができることに力を尽くしたい。

 家族の誰にも事前に相談しなかった。大きな決断に、家族は皆共感してくれた。娘のクリスティさん(28)は、その決断を1人の女性としても応援してきた。

「母の決断はクールだと思いました。WEリーグはジェンダー平等など、女性活躍のミッションを謳(うた)っています。私の価値観にもとても近く、強く共感します。何事にも自信を持って前に進む母を心からリスペクトしています」

 1人のアスリートとして、1人のサッカーファンとして常に情熱を持ち続け、日本女子サッカーの道を切り開いてきた岡島さん。高く立ちはだかる壁にも怯(ひる)むことなくチャレンジし続けた非の打ちどころのない完璧な女性に見えるが、チームメートとして長年その近くにいた前出の酒井さんは、岡島さんの素顔をこう語る。

「きっこさんの強さは、自己過信や自己満足ではなく、人一倍努力したからこその心(しん)の強さです。それを見せないところがカッコいい。そして、とってもチャーミング。年齢や立場も関係なく、ケラケラ笑って気さくに話してくださいます。ジンナンではきっこさんがボケで私がツッコミでした(笑)」

 三菱重工浦和レディースの安藤梢選手(40)も、酒井さんに近い印象を抱いている。

「初めは私も緊張していましたが、とてもフレンドリーに話しかけてくださいました。選手たちも、最初は『チェア』でしたが、だんだん『きっこさん』って呼ぶようになって。試合を見にきてくださったときも、『私、タオル並んで買ったのよ!』って見せてくださいました。リーグのトップの方なのに、優しくて気さくな先輩としてなんでも話せる雰囲気をお持ちなんです」

 WEリーグ開幕から1年を過ぎ、2022年9月、岡島さんは初代チェアを卒業。Jリーグ唯一の女性社長であるV・ファーレン長崎の高田春奈さんに引き継がれた。

「日本のジェンダーギャップ指数は、146か国中116位(2022年現在)。社会にも企業にもガラスの天井といわれる障害がたくさん存在しています。

 そのガラスの天井を打ち破るためにも、その象徴としてWEリーグの優勝トロフィーはガラスの板を実際にシュートで打ち破った破片で制作されています。ぜひ女子サッカーで日本の社会を変えていってほしい」

 その思いは、安藤選手をはじめ、選手、スタッフがしっかりと受け取っている。

「これまでは、プレーヤーとして、プレーだけで見せていこうと思っていましたが、WEリーグが創設されたことで、社会の中で女性が活躍していく姿を自分たちが見せていきたいという意識に変わりました。

 トレーニングに取り組める時間が増え、フィジカルコーチがつくなど環境がとても良くなりましたし、来年のワールドカップもとても楽しみです」(安藤選手)

 初代チェアを引退し、岡島さんはこれからどのようにサッカーに関わっていくのだろうか。

「私は、これまでもこれからも、ずっとサッカーファンです。できることがあればなんでもやります。みなさんも一緒に応援してくださいね!」

 そのチャーミングな笑顔の奥に、サッカーに初めて出合ったころの中学生の岡島さんが見えたような気がした。

取材・文/太田美由紀(おおた・みゆき)●大阪府生まれ。フリーライター、編集者。育児、教育、福祉、医療など「生きる」を軸に多数の雑誌、書籍に関わる。2017年保育士免許取得。Web版フォーブス ジャパンにて教育コラムを連載中。著書に『新しい時代の共生のカタチ 地域の寄り合い所 また明日』(風鳴舎)など。

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  • それは実力次第なので、下駄を履かせて注目度を上げているならスポンサーの金が尽きたらすぐ萎むし、世界レベルの実力なら注目される。
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