80年代の松田聖子と中森明菜はライバルだったのか 名伯楽・音楽プロデューサーが語る真相と素顔

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2022年12月04日 09:11  リアルサウンド

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 テレビがアイドルを作り、お茶の間に歌謡曲が流れない日はなかった80年代。


 華やかなショービジネスの裏側では、一流の作家陣がトップアイドルに曲を提供し、またそれを支える音楽プロデューサーの存在があった。40年以上に渡りビクターやソニーで、数々のアーティストを育ててきた川原伸司もまた、名伯楽と呼ぶに相応しい音楽プロデューサーのひとりだ。


■異能のアーティストを真摯にサポートする手腕とは
 ただ、川原が他と違っていたのは、レコード会社のしがらみにとらわれず、業界の孤児ともいえる異能のアーティストや作家陣たちと交流を深め、真摯にサポートしてきたことだ。


 ビートルズをはじめとした本物の音楽に触れることで見識を深め、自ら作曲も手掛けるという多才ぶりを発揮してきた川原。大瀧詠一や井上陽水の共同制作者となり、松本隆、筒美京平などの著名作家には常にアイデアやヒントを提供してきた。


 2022年8月に出版された川原の著書「ジョージ・マーティンになりたくて」(シンコーミュージック)では、そんな音楽的な素養はもちろん、アーティストをサポートする人心掌握の部分でも手腕を発揮した、その仕事術が赤裸々に語られている。


■明菜さんは聖子さんの大ファン
 興味深いのは、当書には80年代を代表する日本の2大アイドルとのかかわりも事細かに記されていること。松田聖子と中森明菜。お互い、ライバル関係にあったとされる2人……ではあったが、


 「そのほうがメディア受けするからであって、実際にはライバルという関係ではなかったですよ。明菜さんは聖子さんの大ファンでしたしね」と川原。


 「松田聖子さんは、ミーイズム系アイドルの先駆けです。もちろん良い意味でね。それまでのアイドルは家族のため、あるいは友達が応募したついでに……などが主な動機だったでしょ。でも聖子さんは、自分自身アイドルが本当に好きでやっている。地元・久留米から上京してきて、ファンタジアの住人になりたい、という夢がはっきりとしていましたから」。


 川原が松田聖子とかかわるのは、1985年に彼女が神田正輝と結婚し、1年間の休養から復帰するという非常にセンシティブな局面。加えてその時期、これまでコンビを組んできた作詞家の松本隆は多忙を極め、聖子の曲はもうやりたくないと制作を拒否していた。


 「松本隆さんと聖子さんのコンビで連続オリコン1位を獲得してきましたけど、仕事としてのストレスが大きすぎるので松本さんもちょっと距離を置きたかったという理由もあるでしょう。そこで松本と仲の良い川原になんとかしてもらうと、僕に声がかかったわけです。とはいえ、僕は当時ビクター、聖子さんはソニー。レコード会社は違うんです(笑)」


 それでも川原は音楽業界のことを想い、松本隆の説得にかかる。


 「松田聖子さんは大変な才能の持ち主で音楽業界の財産。助けてほしいと言われたら、もちろん僕ができることはお手伝いしたい。そんな気持ちだったから松本隆さんも話に乗ってくれたんじゃないかな。大変な作業になるだろうけど、2人で一緒に火中の栗を拾おうよってね」


 トラブルを回避するために、川原はプロデュース権を取得することにも奔走。船頭が多く指揮が混迷しがちなビッグ・アイドルの作品を作るにあたって、「何よりも松本隆にすべてを決めさせてほしい」という取り決めをした川原は、やはりやり手だ。


  そんな経緯もあって1986年6月に発売された復帰作「SUPREME」は、松田聖子の作品の中で最も売れたアルバムとなった。


  ちなみに、そのアルバムの最後を飾る曲「瑠璃色の地球」は川原(別名:平井夏美)の作曲によるもの。シングルカットこそされなかったが、「赤いスイートピー」「SWEET MEMORIES」に次いで、リピート再生数が松田聖子史上第3位となっている名曲だ。
■川原と明菜とは音楽観が合うと思うから、いい曲があったらと
  一方、中森明菜とのかかわりは、松田聖子とはまったく異なっており、アーティストと音楽プロデューサーの関係だった。


  中森明菜が自殺未遂事件を起こし、事務所の研音を辞めたのが1989年のこと。当時所属していたワーナーとしても、制作・販促含めて中森明菜と一緒にやっていくのがもはや難しい状態にあった。そんな中、再びレコード会社の垣根を越えて、「川原と明菜とは音楽観が合うと思うから、いい曲があったら教えてね」と当時のマネージャーから声がかかる。


 「ワーナーは当時、洋楽中心だったので、生身のアーティストを扱うという点では、ノウハウが少なかったんだと思います。明菜さんも孤独癖の強い人だし、上手に話を進められる人がいなかったんじゃないかな」


  1991年にリリースされた「二人静」は、作詞・松本隆、作曲はC-C-Bの関口誠人。当初は関口のソロアルバムの中の一曲だったが、川原が「この曲って、中森明菜にすごく合うよね」と松本隆に持ちかけ、明菜の新曲にどうかとプレゼンしたことから、ワーナー最後のシングルとなった。


■アーティストは誰もが1人でプレッシャーを抱えているもの
  そんな縁もあり、翌年に明菜は、新しく設立されたMCAビクターに移籍。川原は音楽プロデューサーに就任する。


「アーティストって誰もが1人でプレッシャーを抱えているんです。特に明菜さんは、セルフプロデュースという意識が強かった方で、1人でじっと耐えているタイプ。特に3カ月に一度新曲を出していく当時のテレビのサイクルは、キツかったんだろうと思います。明菜さんのパフォーマンスは素晴らしかったけど、決してテレビ向きな方ではなかったんじゃないかな」


  当時の明菜はニューヨーク在中だったため、川原は打ち合わせのために頻繁にニューヨークへ。彼女のやりたいことをいち早く汲み取り、アイデアをたくさん出すように努めた。当時TMネットワークで売り出し中の小室哲哉をはじめ、これまでにはなかった作家陣を起用。中森明菜のフルカバーアルバムとして話題となった「歌姫」も、川原のプロデュースだ。


 「彼女と仕事するときは、アイデアの賛同を得られたらすぐに作業に移すようにしていました。『歌姫』も、雑談をしている中で、『古今東西の名曲を歌ってアルバムを作る。そういう歌姫になればいい』と進言すると『歌姫っていいですね』と気に入ってくれたんです。すぐさまそれをアルバムタイトルに決め、作・編曲家の千住明くんと連絡をとりあって、制作したんです」


  こうして話を聞いていると、川原がなぜアーティストたちに好かれ、共同制作者として頼られたのかが見えてくる。


  豊かな音楽知識やレコーディングのノウハウを活かし、レコード会社という垣根や利害関係を超えて音楽業界全体のために身を粉にしたこと。そして何より、トラブルには積極的に巻き込まれていくという腹が決まっているので、行動が迅速で、迷いがない。


 「そう。僕はもめごとに対して自分から首を突っ込んじゃうタイプ(笑)。でも、それが良かったのでしょう。アーティストが大きくなるほどトラブルは多いし、意見もできなくなりがちだけど、本当は彼らもまわりからのヒントを欲しているんですよね。明菜さんも、僕が音楽プロデューサーになってから色々と考えなくてよくなった、とインタビューで語っていたみたい。僕のほうがたくさんのアイデアを出すからね」。


■音楽プロデューサーの極意は、売ることばかりではなくいかに後世に残していくか
 そんな立ちまわりをしているうちに、いつのまにか業界では、「癖のあるアーティストは、川原にお願いしろ」という風潮ができていった。


 そんなワイルドサイドを歩いてきた川原に改めて聞いてみた。音楽プロデュースの極意とは何だろう。
 
 「やはり、アーティストや作家の考えていることを、先回りして積極的にアイデアを出していくこと。あとはね、売ることにとらわれ過ぎず、その音楽をいかに後世に残していくかを考えていくのも大事です。これは、はっぴいえんどのメンバーたちと付き合うことで、一層強く思うようになりました。僕には、愛社精神ってものがなかったですから(笑)」


■『瑠璃色の地球』を作曲したとき、松本隆さんは『もっと難しくして!』と
  レコードを売るための方策は練りに練ったが、それはより多く制作予算を取るためであり、作品が広く世の中に伝わってほしいという気持ちから。面白いことをやって、音楽業界全体が変わっていけばいい、そう思いながら突き進んできた。そういう意味では、川原自身も、業界の異端のような存在だった。


 「まわりがみんな過激な人でしたからね。松本隆さんも過激な人で、わかりやすい曲作りをしない。『松田聖子はどんな歌を歌ってもポピュラーにすることができる特別な声の持ち主。だから、実験をするんだ』と。僕が『瑠璃色の地球』を作曲したときも、『もっと難しくして!』と松本隆さんはしきりに言っていました」


  だからこそ、あの頃の名曲は時代を超えて受け継がれていく。最近は、若い世代の間でも歌謡曲や当時の音楽が人気になっているようだ。


 「この間、ラジオパーソナリティの若い方に、『「少年時代」って井上陽水さんの曲だったんですね?』って驚かれて。子供の頃から自然と耳にしていたので、歌い手を知らなかったみたい。そんな歌い人知らずの曲が理想的だと思うし、それを目指しているんですけどね、レコード制作者としては」
 
 そして、もうひとつ。音楽プロデューサーとしての責務についても語ってくれた。


 「最近思うのは、音楽プロデューサーには責任が伴うってこと。安易にデビューさせて、ダメになった人はたくさんいます。この人は本当にやっていけるのかという見極めをする責任がある。屍の山の上にプロデューサーがいるなんて、今では考えられない考え方がまかり通っていた時代もありました。僕はそれが絶対に嫌で、デビューさせたバンドはアフターサービスやフォローを最後までしていましたから。その姿勢は変えていないんです」


 もちろん、レコードの売上げがレコード会社の収入の主軸だったあの頃と今では、状況はまったく異なるだろう。今や流行歌はレコード会社ではなく、You Tubeから生まれることが多くなった。


 「ストリーミングが主流となった今、むしろアーティストとしては面白い時代じゃないかな。レコード会社が発掘したアーティストって今はほとんどいないでしょう。再生数次第ではレコード会社の言うことを聞かなくてもやりたいことができるし、レコード会社のA&Rが彼らの後を追いかけるという逆転現象が起きているわけですから」


■セルフプロデュースって限界がある
 「でもね」と最後に付け加える。


 「不安をビジネスにするわけじゃないけど、セルフプロデュースって限界があるんですよ。自己完結しちゃうのでそこで満足しがちだし、売れないときに何がいけなかったのか冷静な判断が難しい。スタッフのせいにしたりする人もいます。それは悪循環ですよね」


 ビートルズにはジョージ・マーティン、ローリング・ストーンズはドン・ウォズが音楽プロデューサーをしていたし、近年ではコールドプレイにはブライアン・イーノがついた。川原は、そんな偉人たちの延長上に自分の仕事があることを自覚している。「こんな時代だからこそ、音楽プロデューサーの必要性が、アーティスト側も身に染みてわかってきているんじゃないかな」と自ら分析する。


 「ただ、昔みたいに上の立場からの目線じゃなくて、アーティストと共に寄り添っていくかたちのプロデューサーですよね。友達感覚で、同じ価値観を共有して一緒に作っていくというやり方もあるんじゃないかな。それを僕は、ずっとやってきたつもりだから」


文=米田圭一郎


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