限定公開( 6 )
「アイドルマスター シンデレラガールズ」「ウマ娘 プリティーダービー」「アイカツ!フォトonステージ!!」など数々の人気アニメやゲームに楽曲提供をしていた作曲家の田中秀和容疑者が、10月25日に強制わいせつ未遂容疑で逮捕された。
報道を受けて、多くのアニメ・ゲームファンに動揺が走った。過去、不祥事を起こしたアーティストの作品は、配信停止や販売中止となる例が多いからである。特に田中容疑者の作品は、個人のアーティスト向けというよりは、アニメ作品のオープニングやエンディング、挿入歌など、作品の裏方として活躍していた。それゆえに、もし関係する作品が一斉に配信・販売が停止となれば、ことは田中容疑者1人の問題ではなく、数十作品にも及ぶ。
実際、12月7日に解禁されたアイドルマスター シンデレラガールズのサブスク配信では、田中容疑者の楽曲が除外されている。
その一方で昨今では、作者本人の罪と作品は切り分けるべきではないかとする考え方も強くなってきている。つまり、作品には罪はないのではないか、ということだ。
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そもそも海外では、不祥事を起こしたアーティストの楽曲が販売中止になるといった例はあまり聞かない。ただ本人の行動ではなく、楽曲が差別的であったり、個人を攻撃しているなどの理由から、いわゆる「業界を干される」という例はあるようだ。
日本においては、逮捕の段階でなぜかレーベルが謝罪し、配信停止や販売自粛となる例が多い。逮捕は裁判前でまだ罪状が確定していない状態であるため、犯罪者という扱いはしない。そのため、「容疑者」や「被疑者」と呼ばれる。状況によっては起訴が取り下げられるなどして、無罪となることもあり得る。
つまりまだ疑わしいという段階で、本人の親代わりでも何でもないレーベルが本人に代わって謝罪したのち、作品を世の中から封印するという行為にどういう意味や根拠があるのか、多くの人が考え始めたということなのだろう。いやもちろん、裁判にて罪状が確定したあとであっても同様である。
今回は、この問題を考えてみたい。
●作品を非公開とする意味とは
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こうした議論のきっかけは、2019年3月の電気グルーヴ ピエール瀧氏の麻薬取締法違反による逮捕ではなかったかと思う。逮捕が3月12日、翌日13日には早くもソニー・ミュージックレーベルズが、発売していた電気グルーヴの全ての音源、映像の出荷停止と在庫回収、サブスクリプションサービスへの配信停止を発表した。ピエール瀧氏は音楽家としてだけでなく、俳優や声優としても活躍しており、NHKドラマや映画「アナと雪の女王」オラフ役の声優交代など、多くの影響があった。
3月15日には早くも、ファンからレーベルの楽曲・映像封印に対して撤回を求める署名運動が展開された。27日間の活動で、79の国と地域から、6万4606人の賛同を集めたという。この結果は、多くのメディアに取り上げられた。不祥事と作品の封印の関係は、ここから「社会問題」となった。
アーティストの不祥事にはさまざまなパターンがあるところだが、作品の封印というプロセスに関わるパラメータとしては、その不祥事は被害者があるパターンなのか、あるいは薬物利用のように単独で被害者がないパターンなのかも考える必要がある。
薬物利用などの場合には直接的な被害者はないと考えられるわけだが、普通に生活している中では違法薬物を入手することは難しいので、その背景には反社会勢力とのつながりがあるのではないかという懸念がある。まさに「コンプライアンス案件」である。
作品の公開を続ければ利益が上がってくるわけで、反社との関係性が疑問視されるアーティストから利益を上げるのは、企業としていかがなものか、という話になる。多くのアーティストを抱えるレーベルとしては、こうしたリスクを排除したいと考えるだろう。また、不祥事に対して厳しく対処することで、他のアーティストに対する一種の「注意喚起」、口の悪い言い方をすれば「みせしめ」の意味もあるだろう。
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一方被害者がある場合、そのアーティストの作品が目や耳に入るたび、思い出してはつらい思いをするという可能性が高い。そうした被害者の心は誰が守るのか、あるいはどういう手法によって守ることができるのかは、難しい問題だ。解決策として、その作品を封印するという手段はある。
こうした魂の救済の問題は、簡単には解決できない。社会制度としては、加害者が服役などの罰を受けることで罪を償う、加えて損害賠償によって慰謝を行なうということで、終わりってことにならないか、という事になっている。贖罪(しょくざい)が終われば責任も終わりとするわけだが、もちろんそれでも救われない例は山ほどある。だがどこかで終わりという線を引かなければ、双方が先に進めないという事情もある。終わりのない問題を、一定の大なたをふるって強制終了させるというのも、社会制度の役割というわけである。
逮捕の時点でもう封印というのは、社会制度としてはいささか性急すぎるとは思う。ただ被害者がいる場合の一時的な対応であるならば、一定の理解は示さざるを得ない。
加えて、アーティストが関わっていたメディア露出との関係も勘案する必要があるだろう。例えば楽曲や配信であるなら、それを聴かない・見ないという選択はできる。だがテレビ番組出演や挿入歌のような放送による露出もある場合、見るつもりがなくても見てしまうという可能性がある。被害者や関係者にそこまで予見して行動せよというのは、酷な話であろう。
よって、配信は視聴をコントロールできるものの、テレビなど視聴者がコントロール出来ないメディアへの露出がある場合は、露出の自粛はある程度の妥当性がある措置のように思える。
●封印のリスク
コンテンツが封印されることにより、社会のリスクが増大するということも、議論の射程に入れておくべきであろう。
これまで音楽を楽しみに聴いていたファンは、手元にCDやDVDといった買い取りのメディアで保有している、あるいはダウンロードで購入していたなら、まだ聴く事ができる。ところがストリーミングでしか聴いていなかったファンは、配信停止、加えてCD等も販売中止となれば、聴く手段がなくなってしまう。
これまでそのアーティストに興味がなかった層も、逮捕の報を聴けば、どんな音楽をやっていたのか聴きたくなるのが人情というものである。だが作品が封印されてしまえば、聴けるチャンスはない。よって違法にアップロードされたものに手を出したり、流通在庫の音楽CDやDVDを不当な価格で転売する者も出てくる。
廃盤は、普通は需要がないために起こるわけで、価格も一定のところに収束するものだが、需要がある中での廃盤は、いわゆる転売ヤーの格好の養分となる。これは健全な市場とはいえない。
日本の社会は、コトが起こったときの責任を強く追及する傾向がある。その一方で、こうした事件が多く起こることで怒りの矛先がどんどん変わるため、忘れやすい傾向もある。現状のレーベルの対応はこのあたりをよく理解しているのか、いつのまにかしれっと配信を復活させるという手法が取られている。ある意味そのあたりが、最適解ということだろう。
きちんと論理構成して、アーティストの不祥事と作品は別の話だよね、と線引きしてしまうことは、ケースバイケースで判断しているのが現状だ。一方で将来どのような不祥事が起こるのかは予想できないわけで、汎用的なルールを作るのは難しいように思える。なぜならば、この問題は「禊(みそ)ぎ」や「ケジメ」といったことを好む人が求めていることであり、それは要するに気持ちの問題だからである。
こうした気持ちの問題に真剣に向き合って、多くの人にそれぞれ考えがあるというのは、ある意味日本は優しい国であるともいえるのかもしれない。その一方で、舞台がビジネスであっても、禊ぎやケジメのような呪に縛られる、合理性に欠けた社会であるという見方もできる。
もっとも抜本的な解決策は、そもそも問題を起こすんじゃねえよという話である。商業アーティスト、タレント、芸人など、自分の身に何かあったらめちゃくちゃ多くの人に迷惑が掛かる職業になったら、身辺行動には十分に注意すべきである。またその教育や注意喚起は誰が行なうのか、防止する仕組みはあるのか、といったところにも課題がある。レーベルもアーティストに代わって謝罪するなら、そうした責任も負うものと見なされる。
大物になれば回りに意見できる人も少なくなるのかもしれないが、アーティストであれば犯罪が許されるというわけではないし、犯罪が見逃されるわけでもない。今も現役の大物アーティストがどのように身辺を注意しているのか、そうしたお手本が共有されることも重要だろう。
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