「死を見つめようとしたわけではなかった」 写真家・藤原新也さんが語る「旅と表現」の背骨

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2022年12月10日 09:31  弁護士ドットコム

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1969年、日本を飛び出し、ヨーロッパ・中近東を経てインドを放浪。以来、関心の赴くほうへとさまざまな土地を旅し、自身の目に映る世界を写真と文章で表現してきた写真家、作家の藤原新也さん。


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1972年に発表したデビュー作『インド放浪』は旅のバイブルとして、そして1983年に刊行した『東京漂流』はコマーシャリズムへと傾倒する日本への文明批評として読み継がれているように、対象の本質をあらわにするその写真と言葉の力強さは、多くの人をとらえている。



写真家、作家としてだけでなく、画家、書家としても作品を発表し続ける藤原さんの半世紀にわたる旅と表現を俯瞰する――。そんな展覧会「祈り・藤原新也」が現在、世田谷美術館(東京都世田谷区)で開催されている。



これまで藤原さんがどのように旅をしてきたのか。世界に向けた藤原さんの、その肯定的な視線が印象に残る会場で、旅や写真を撮ることに対する考えやスタンスを聞いた。(取材・文/塚田恭子)



●対象に応じて文体も、自分も変わっていく

――半世紀にわたる旅を俯瞰する大規模な展覧会は、5年ほど前に打診されたそうですね。



僕は過去を振り返る人間じゃないので、回顧展には興味がなかった。だから最初はあまり気乗りしなかったんだけど、数年前にインドのガンジス川でボートを漕ぐ老人越しに撮影し、夜明け前の河岸の風景を見ていたとき、ふと、「祈り」という言葉が出てきて。



「祈り」という視点でこれまでの写真を振り返ると、新鮮に見えて、そこからようやく写真選びも興が乗ってきたという感じでした。言葉の力はやはり強くて、「回顧」という意識で見るか、「祈り」という意識で見るかによって、写真が違って見えるんです。



――写真を見ることは、撮ったときを思い出すことでもあるのかなと思うのですが。



それはあるよね。一つひとつの写真には出会いがあり、それに付随する物語があって、写真を見ていると、そのときのことがまざまざと蘇ってくる。人間、死ねばすべて終わりだけれど、それぞれの写真は一つの達成ではあるわけです。そうやって物語に入り込むことができたのは、何ものにも代えがたい体験だったと思う。





――インドでは、やはり死と向き合った写真が印象に残ります。



ただ自分には、死に近づこうとか、死を見つめようとか、そういう気持ちはまったくなかった。ガンジスの川べりに行ったら、火があって、燃えていて、近づいていくと、たまたま目の前に現れたのが、死体を焼いている光景。それは初めて見るものだったから、あっ、となって、カメラを向けた。



――死を撮ろうと考えたわけではなかった。



何かをこう撮ろう、ああ撮ろうという気持ちはなくて、目の前に現れたものに応じて、自分がどんどん変わっていく。僕の写真の撮り方はずっとそうです。主は対象(被写体)であって、自分じゃない。多くの写真家は自分の文体やフォーマットを世界に当てはめようとするけれど、僕の場合、行く場所や対象に応じて、文体も、自分も変わっていくから。



●写真家になろうと思っていたわけではない

――それでもどの写真を見ても、これは藤原さんの写真だと見る側が気づく何かがあります。



主は対象だけれど、写真には取り除きようのない自分=藤原新也が通底しているということでしょう。単純に、それは僕の生理だと思う。ただ、そういう背骨がなければ、これだけ膨大な写真は、写真集にまとめるにしろ、展示するにしろ、バラバラになってしまう。自分の背骨や核になるもの、そういうものがある人もいれば、ない人もいるわけで、たまたま僕にはあったということでしょう。



――作品の言葉の力の強さに触れて、藤原さんがどんな読書体験をされてきたのか、気になる人もいると思うのですが。



早熟だったのか、高校2年までは、ヘルマン・ヘッセやアンドレ・ジッドとか、洋物をだいぶ読んでいたけれど、成人して以降は、本なんて読んでいられるか、みたいになっていましたね。



ものを書く人間がこういうことを言うのはどうかと思われるかもしれないけど、18歳で東京に出て来てからいろいろな仕事をして、目の前で起きていることのほうが小説よりも全然おもしろかったから、読書という行儀のよいことよりも、現実に目が行くわけです。



――そんな中で手にしたのが、カメラというデバイスでした。



目の前で起きていることのほうがフィクションよりずっとおもしろいという状況でカメラを持ったことが、自分にピタッとはまったんだろうね。写真家になろうと思っていたわけでもなく、ただ、このデバイスが僕の性格に合っていた。



当時、カメラも持っていなかったのに、『アサヒグラフ』(朝日新聞)の編集部に乗り込んで、「写真を撮ってきます」と言ったわけで、まあずいぶん、いい加減なものでした(笑)。





●異なる文明と文明のあいだを軽業師のように分け入っていく

インド、チベット、香港、台湾、韓国。そしてトルコのイスタンブールを起点にユーラシア大陸を東に進んで高野山へと至る東洋街道。1970年代の旅を経て、それまでアジアを見てきたその視線を、日本やアメリカへと向けた藤原さん。



その後、発表したのが、『東京漂流』『乳の海』で、モーターホーム(車中泊できる車両)でアメリカを移動した、7カ月にわたる旅を描いた『アメリカ』だった。



――長いアジアの旅から戻った80年代の日本は、藤原さんにどう映ったのでしょうか。



日本で育ったわけだから、発つときは日本人だけど、インドと日本では文化、習俗、人間の生き方がまるで違うから。その土地にいれば、意識も変わらざるを得ないし、世界に対する自分のスタンスもがらりと変わる。



そうやって変わり尽くしたところで帰国したときは日本人じゃなくなっているので、日本のへんてこりんさがいろいろ見えるわけです。そこで書いたのが『東京漂流』で、「墓につばをかけるのか。それとも花を盛るのか。」じゃないけど、どこか唾をかけたようなところがあった。



それはインドを中心とした価値観から見るとおかしいと思うことがあったからで、パラダイム(その時代の規範となる物の見方)がまったく違うんです。そもそも日本には昔も今もパラダイムがなくて、そのことに対して物申したのが『東京漂流』だった。



――その後、モーターホームで旅したアメリカの写真はまるでフィクションのようで、アジアとの違いを感じました。



子どもをおんぶした韓国の母子の密着した世界から、真っ青な空のカリフォルニアへ。まったく逆の文明世界に飛び込む人は意外と少ないんです。いろいろなところに行くのは誰でもできることだけれど、僕は異なる文明と文明のあいだを軽業師のように分け入っていく。



カルカッタのぐちゃぐちゃとした世界、子守歌の聴こえてきそうな韓国、書き割りのようなカリフォルニア。野次馬根性もあるので、そういう相対する世界への関心が、文明論的な旅につながっているんでしょう。



●対象に入り込むことで見えてくる世界がある

――野次馬的に入り込んでいくあたりは、ハロウィンの撮影にも通じるのでしょうか。



村の祭りは主催者の意向に沿っておこなわれるけど、ハロウィンは主催者不在の、自然発生的なお祭りでしょう。そこがおもしろいし、僕はいい祭りだと思うけど、大人は"子どもが空騒ぎして何か壊すと困る"みたいな単純な見方をしているよね。



――ご自身も防護服という仮装姿で、渋谷で撮影されています。



旅も同じだけど、インドでもアメリカでも、そこの世界に自分も入り込むのが僕のやり方だから。旅人というより、半分足を突っ込んで、そこの国の人間になる。そうすることで見えてくるものがあると思っている。その点はハロウィンも、モーターホームで旅したアメリカも一緒です。



――2014年の香港の雨傘運動は現地で取材をして、一日、撮った写真をその日の夜にネット配信しました。



自分の年齢からみれば、雨傘運動をしているのは子どもたちで、一生懸命やっている彼らを後押ししたいな、と。街の真ん中に畑や図書館をつくるとか、彼らの運動は日本の学生運動と違ってウィットや遊び心があるんだよね。フォトジェニックなシーンをたくさんつくっているし。そこが日本の安保闘争との違いです。



取材に行ったとき、目立つ格好をしていたからか、中心で運動しているナンバー2が僕に寄ってきて、「一緒に写真を撮ってほしい」と言ったんです。こいつと写ったら、当局にマークされるだろうと思いつつ、まあ一緒に撮って。案の定、彼はすぐSNSに写真を上げたので、翌日はもうみんな僕のことを知っていて、「あ、Shinya Fujiwaraだ」と(笑)。今度、香港に入れるかどうかわからないけど、そういう意味では彼らに加担していましたね。



●若い人の生命力を鼓舞したい



――展覧会の最後の空間は、北九州の門司港が舞台です。明治生まれのお父さまは豪傑だったのですね。



10代で香川から尾道に出た親父は、プロ級の腕だった賭け玉突きで儲けていたようです。ある日、そこの女給さんと駆け落ちして、彼女を自転車の荷台に乗せて、山中を走って広島に向った。そこで任侠の世界に入り、「10代後半で子分を30人もらった」と言っていました。



相手方に行って賭場荒らしすることを「はぐる」と言うらしいけど、「父ちゃんははぐりを2回やって、子分をもらったんや」と言うので、1人で乗り込んで怖くなかったのかと聞いたら、「死ぬ覚悟で行けば、怖くない」と。それで親分に認められたそうです。



――知らない土地に単身、飛び込んでいくところは、お父さまの血を継いでいるように見えます。



そこから足を洗って、親父が満州にわたったのは24歳、ちょうど自分がインドに行ったのと同じ年でね。そういう意味では妙な符号があるのかな。



――フィルムで撮影し、原稿を手書きしていた70年代から、撮った写真をその日のうちにネットに上げたり、ポッドキャストを配信したり、この半世紀で表現の方法が広がりました。



インドからアメリカへ、違う文明に行くのと同じで、デバイスや表現媒体の変化もすべて飛び越えてゆく。フィルムかデジタルかと、二者択一のようにいうけど、それぞれにはそれぞれのよさがあるし、紙からウェブへというのも大した違いではないと思います。絵を描くときも鉛筆、油絵具、パステルなどいろいろな道具があるわけで、筆の種類が増えただけで、それをあれこれ議論していること自体、どうなのかな、と。



――半世紀余り、写真を撮り続けてきた藤原さんの気持ちは、今、どこに向いているのでしょうか。



みんなの生命力が落ちているので、そこを鼓舞したい。今回の写真展も、写真を見ながら会場を歩いているうちに元気になるような、これを見て、美術館を出るときにプラス思考になっていなかったらおかしいだろうという気持ちで、展示構成しています。



環境問題、経済の停滞、コロナ。コロナは世界中で起きているけれど、日本の場合、東日本大震災と放射能の問題がボディブローのように効いていて、マイナス思考になる条件が重なっている。でも、この停滞した空気の中でマイナス思考のままでいたら、死んだかのごとく生きているようなものでしょう。



日本人はよその国をあまり見ていないけど、日本の若い人たちの生活状況は世界的にも相当よくない。小学生のころから崩壊の現場を生きてきて、今も低賃金で非正規という状況に置かれている彼らは、自分の国の若者を育てず、平気で使い捨てている政治の犠牲になっている。



写真を通じて生命の輝きを伝えることで、若い人に生命力を吹き込み、彼らを盛り立てたいです。



●「祈り・藤原新也」

https://www.setagayaartmuseum.or.jp/exhibition/special/detail.php?id=sp00211



【プロフィール】 ふじわら・しんや/1944年福岡県門司市(現・北九州市門司区)生まれ。東京藝術大学入学後、アジア各地を旅する。1972年に『インド放浪』を発表し、注目を集める。『逍遙游記』で木村伊兵衛写真賞、『全東洋街道』で毎日芸術賞を受賞するなど著書多数。文章だけでなく、絵画や書などあらゆるメディアで表現活動をおこなっている。2011年から会員制ウェブマガジン「Cat Walk」(http://www.fujiwarashinya.com/)、ポッドキャストで「新東京漂流」(https://spinear.com/shows/shin-tokyo-hyoryu/)を配信している。「祈り・藤原新也」は、2022年1月29日まで世田谷美術館で開催。


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