「不惑」の40歳で二冠獲得 門田博光さん死去 記者に語り続けてくれた打撃理論

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2023年01月26日 13:00  AERA dot.

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門田博光さん
 プロ野球、南海ホークスなどの主砲として活躍した門田博光さんが亡くなった。享年74。豪快なスイングでライトスタンドに叩き込むホームランでファンを魅了した。通算567本塁打は歴代3位だ。駆け出しだったころの筆者の取材にも、長時間打撃理論を語り続けてくれた、心底野球好きの人だった。


【写真】41号本塁打を放った時の門田博光さんはこちら 南海時代、門田さんとともにプレーした江本孟紀さん(75)は、


「江夏(豊)から電話がきて、門田がどうも亡くなったらしいと聞いてびっくりした。僕と同じ学年で、もっとプロ野球に貢献できる男だったのですがね」


 と門田さんの死を悼んだ。


 江本さんがエースで、野村克也さん(故人)が正捕手兼任監督で4番打者、野村さんの前の3番を打つのが門田さん、という1970年代前半の南海は強かった。


 野村さんがフロントとのごたごたもあって77年に監督を解任され、南海を去ってからは、まさに看板選手として古豪のチームを門田さんが支えた。


 最も注目されたのは、選手としては晩年の1988年だ。44本塁打、125打点で、ホームラン王と打点王の2冠を獲得し、MVPにも選出された。チームが5位と低迷したにもかかわらず異例のこと。実に40歳の年で、「中年の星」として、大きなニュースになった。


 この同じ年のシーズンオフ、パ・リーグは大きな変革期を迎えた。南海はダイエーに、阪急ブレーブスはオリックスに「身売り」し、経営権を手放した。ダイエーは本拠地を福岡に移転することを公表した。


 しかし、門田さんは慣れ親しんだ関西でのプレー継続を希望。関西に本拠地を持つオリックスへの移籍など、その去就が注目された。


 私は当時、まだ駆け出しの記者で、週刊朝日のデスクから、


「なんでもいいから、門田さんを直撃して、ひとことでも聞いてこい。聞けるまで帰るな」


 と命じられた。


 真冬の寒い中、奈良にある門田さん宅に日参し、インターホンを押し、張り込んだが、まったく姿を確認できない。



 締め切り直前には夜遅くまで待ち続け、不審者に間違われもしたが、やはり門田さんに会うことはできなかった。名刺をポストに入れ、とぼとぼと深夜の電車で帰った。


 当時は携帯電話などない時代だ。帰る途中、週刊朝日の編集部から電話があり、


「門田いう人から会社に電話があったで。すぐに連絡ほしいと」


 と告げられた。慌てて公衆電話を探し、伝言にあった電話番号にかけると、門田さん本人がすぐに受話器をとってくれた。


「なんか、遅くまで待ってくれて悪いね。今は話せないんや。いろいろ事情があってな」


 やっと門田さんの声が聞けた。ダイレクトな肉声なので、編集部に「言い訳」ができるなと、ほっとした。


「夜遅くまで張り込んだりして申し訳ないです。ありがとうございます」


 と礼を言い、


「じゃあなぁ」


 と門田さんが電話を終える直前、私はどうしてもひとつ聞きたいことを思い出した。


 この年9月8日、大阪球場での近鉄戦で、門田さんは40歳の選手としては当時の世界記録となる35号ホームランを打ったが、私はその試合を生で見ていた。


 そのホームランは門田さんの力強さ、豪快さより、うまくバットをボールに乗せ、力と技を合わせてスタンドまで運んだような一撃だった。それについて聞きたかった。


 私がその話をすると、


「年取ったら、力にテクニック、技ですよ。若い人のパワーには勝てないから、テクニックね。そして……」


 そこから門田さんのバッティング論が始まった。打席での構える位置、ピッチャーのクセや配球の読みなどを、延々と語ってくれた。途中何度も電話ボックス内の自販機でテレホンカードを買い、追加しながら話を聞いた。


「バッティングの話ならいつでも電話してよ。こんな話はいい記事にならないかもしれないが、何時間でも話すから」


 私のような駆け出し記者に、門田さんは最後まで丁寧に話をしてくれた。


 その後、オリックスに移籍して活躍し、さらにダイエーに移って現役を終えた。引退後には何度か長時間、話を聞く機会があった。そして、門田さんは本当に野球が大好きで、24時間、野球のことばかり考えている人だとわかった。



 野村さんが南海の監督時代を振り返って、門田さんと江本さん、江夏さんの3人を「南海3悪人」と称していた。それについて門田さんは、


「僕は野球ばっかりで、野村さんとか他の選手とも飲みに行くこともないし、わが道を行くというタイプ。野村さんから何か指示があっても、納得しないと、『なんですかね』という顔をしていたからね。野村さんからすると扱いにくい選手だったのかな」


 と、ビールを片手に笑っていた。


 江本さんにも「南海3悪人」の話を聞いてみた。


「僕も3悪人の1人ですが、あれは野村さん一流の『こういうわがままそうな選手でも俺は操ってきた』という自慢にするたとえですよ。悪人は僕1人じゃないですか(笑)。確かに門田さんも偏屈、変わり者と言われてはいました。南海時代は毎晩、選手たちは酒盛りでしたが、今振り返っても、一回も門田さんと飲みに行った記憶はないですね」


 そして、門田さんの打撃について、こう話した。


「今のホームランバッターは筋肉マンタイプが多いじゃないですか。門田さんは、太っていて独特の体の柔らかさとスイングの速さがホームランにつながっていった。野村さんが監督とキャッチャー、4番バッターの兼任ができたのも、門田さんというもう一人の主砲がいたからです。マウンドで投げていてもそのうち門田さんが打ってくれ、点が入るだろうと本当に任せられるそういうバッターでした」


 江本さんも、ここ数年は、コロナ禍もあって疎遠になっていたという。


 門田さんほどの実績があれば、コーチや監督もできたろうし、実際にいくつか依頼もあったようだが、持病の糖尿病や足が悪いこともあり、就任することはなかった。


 10年ほど前に、奈良で偶然、門田さんに会ったことがある。


 現役時代とはうってかわり、すっかりやせて小さくなってしまった印象だった。立ち話だったが、


「ビールばっかり飲んで、体を壊してしまった。飲み始めたら止まらない。あれっとテーブルをみたら、楽に10缶くらいあけてしまっていることもある。酒には気を付けないと」


 と語っていた。


 門田さんが指導者となれば、どんなチームができていたろうか。まだ74歳の死が残念でならない。合掌。


(AERA dot.編集部 今西憲之)


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