立体イラスト kucci 性情報にネットで簡単にアクセスできる時代、性についての正しい知識を子どもたちに伝える重要性が増している。だが、多くの学校では積極的な性教育を行えていない。障壁となっているのは、学校指導要領の「はどめ規定」だ。「妊娠の経過は取り扱わないものとする」など、学びに制限がかけられている。「はどめ規定」はどのような背景から生まれたのだろうか。AERA 2023年1月30日号の記事を紹介する。
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2005年3月4日、参院予算委員会。自民党の山谷えり子議員が、小学校低学年向けの教材を手に、質問に立った。性行為を図解で示したページについての認識を問われた小泉純一郎首相(当時)は、こう答えた。
「初めて見たが、ちょっとひどい。問題だ。こんな教育は私は子どものころに受けたことはない。性教育は我々の年代では教えてもらったことはないが、知らないうちに自然に一通りのことは覚える。ここまで教える必要があるのか。教育のあり方を考えてほしい」
周囲の議員らからは、下ネタを聞いた時と同じような抑えた笑い声が上がった──。
この時の政治家たちの性教育に対する認識の低さに唖然(あぜん)とするが、1942年生まれの小泉元首相は子どもだったころに学校で性教育を受けていない世代だ。その反応は、致し方ない面もあるにはあった。
■男性は除外されていた
日本で性教育が始まったのは、終戦後だ。47年、文部省(現・文部科学省)が出していた通達にある名称は「純潔教育」。性教育に詳しい浅井春夫立教大学名誉教授(児童福祉論)によると、
「対象は女性のみで、男性は学びの場から除外されていました。女性にだけ純潔を求める道徳教育だった」
性行動の危険性を強調する「性の恐怖教育」や、いわゆる「寝た子を起こすな」論に基づく内容で、性行動は恥ずかしいもの、抑制すべきものとする教育がブレることなく、60年代末まで続いたという。
変化があったのは70年代に入ってから。米国から始まった女性の権利拡大を目指すウーマンリブ運動が日本にも波及。72年、性教育研究を行う日本性教育協会が設立され、学校教育の現場も活発化し始める。呼称が「純潔教育」から「性教育」へと変わったのも、このころだ。
80年代にはエイズ(後天性免疫不全症候群)が世界的に流行したこともあり、感染防止の観点から性教育が急速に必要とされるようになる。それを受けて86年、文部省は、初めて先生向けに約100ページからなる「性に関する指導」手引書を作成した。
手引書では「性に関する生徒の実態」に触れ、男女ともに性的成熟が早まり、性行動の経験者が増えていると指摘。生徒との意識の食い違いから「自信を失いがちな」先生に対し、「科学的な知識を生徒に与えるとともに(中略)正しい異性観を持ち、望ましい行動をとれるようにする」と、指導上の心構えが書かれている。全国の中学、高校に配られたほか、170円で市販もされた。
盛り上がり始める性教育。その流れは、92年の「性教育元年」につながっていく。
■右派の政治家や団体
学習指導要領改訂により、小学5年生の理科の教科書に初めて性器が図式化され、小学5、6年生の保健の教科書にも「性」に関する記述が載ったのだ。教える内容についてのしばりは特になく、奈良県の中学校で保健体育の教諭を務めた女性(62)は、
「いよいよ本格的な性教育が始まるぞ、と。ブームが押し寄せてきたのを感じた」
と振り返る。当時勤務していた中学校の生徒に向けて、妊娠とはなにか、望まない妊娠を避けるためにどうすればいいか、などをビデオや自作のスライドなどを用いて教えたという。
だが、それは同時に性教育バッシングの始まりでもあった。伝統的な家父長制を重んじる右派の政治家や団体から批判を受けたのだ。編著に『時代と子どものニーズに応える性教育──統一協会の「新純潔教育」総批判』がある立教大学の浅井名誉教授は、
「旧統一教会(世界平和統一家庭連合)も発火点のひとつだった」
と指摘する。
旧統一教会には、伝統的な家族観を重視し、結婚するまでは男女の純潔を守らせる教義がある。その名もまさに「純潔教育」だ。92年ごろに教団が作成した「新純潔宣言」と題した信者向けの冊子の冒頭には、
「私たちは、現在すすめられようとしている『性教育』─性解放思想に基づく性器・性交・避妊教育─には反対します」と太字で書かれている。
17年まで教団の家庭教育局副局長を務めた櫻井正上氏は、こう証言する。
「自分の性は将来のたった一人の相手への贈り物で、深く愛し合うために守るものだと教えられてきた。過激な性情報は、青少年の健全育成に弊害をもたらすという危機感があった」
浅井名誉教授によると、教団は大学教員や研究者などに金銭を払って近づき、教団の主張を新聞やテレビなどで語らせる手法でじわじわとバッシングの輪を広げてきたという。
「統一教会の罠だと感じました。彼らにかき回された」(浅井名誉教授)
元文部科学事務次官の前川喜平さんも、
「旧統一教会は、個別の政治家を通して、政策に影響を与えてきたと言えるでしょう」
と話す。例えば、自民党の下村博文議員は21年の衆院選前に旧統一教会の関連団体「世界平和連合」から推薦状を得ており、15年に教団の名称変更の申請を認めた時の文科相でもあった。
そして、98年。学習指導要領改訂で、中学校の保健体育では「妊娠の経過は取り扱わないものとする」という「はどめ規定」が加わった。前川さんは、
「自民党からの圧力によって、『はどめ規定』が加わったことは間違いありません。その際、旧統一教会から自民党への働きかけがあった可能性は十分あると思います」
と指摘する。「はどめ規定」によって、性教育バッシングは勢いを増し、冒頭の小泉元首相の答弁へとつながっていく。
■先進国は包括的性教育
紆余曲折を経ながらも、「はどめ規定」が足かせとなり、なかなか前進しない日本の性教育。一方で、先進国ではユネスコ(国連教育科学文化機関)などが作成した「包括的性教育」が主流になりつつある。
「自分と自分以外の人も大切にする」という人権の尊重をベースとした性教育で、「人間関係」「価値観、人権、文化、セクシュアリティ」「ジェンダーの理解」など8項目からなる。より細かく、各年齢で学ぶ具体的な目標も示されて、例えば「妊娠、避妊」では9〜12歳でコンドームの使い方を学ぶという。
今回の取材でよく耳にした言葉がある。
「性教育は人権教育だ」
国内外のこうした流れを見ても、国が「はどめ規定」を撤廃すべきなのは明らかだろう。(編集部・古田真梨子)
※AERA 2023年1月30日号