徳川家康の浜松城への移転は実はすごい決断だった!武田家滅亡の原因にもなった地政学

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2023年01月30日 07:00  AERA dot.

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浜松城の天守曲輪(写真/千田嘉博)
 徳川家康といえば、これまで織田信長、豊臣秀吉と比べて地味で堅実な人物というイメージだった。しかし、2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」では、度重なる絶体絶命のピンチを知恵や周囲との連携で乗り切る姿を示すことで、従来の家康のイメージを刷新してくれるようだ。家康自身だけでなく、ゆかりの各地の城もまた、近年、発掘調査が進み、従来の説の見直しが迫られている。


【浜松城本丸北東隅部の石垣や浜松城復興天守の写真はこちら】 国内外の城に精通し、テレビ・ラジオや講演で大人気の城郭考古学者・千田嘉博先生の最新刊『歴史を読み解く城歩き』から、岡崎城から浜松城に居城を移転したことを通してわかる家康の先見の明について、一部抜粋・改編してお届けする。


*  *  *


【浜松城】家康の挑戦し続ける意志


 静岡県浜松市の浜松城は徳川家康の城として人気である。1560(永禄3)年の桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、家康は今川氏から独立して三河愛知県東部)の平定を進めた。そして、織田信長と同盟を結んで領国西側の安全を確保。東に広がる今川領へ領地を広げる方針を固めた。1568(永禄11)年、信長は足利義昭を将軍にするため上洛を果たし、家康は遠江(静岡県西部)への進攻を開始した。


 翌1569年、家康は岡崎城(愛知県岡崎市)を嫡男信康に譲り、遠江に居城を移す決断をした。当初、家康は見付城(静岡県磐田市)を選んだが、信長のアドバイスに従って、武田信玄との戦いに備えて天竜川を防衛線にできる引間を適地と城の場所を改めた。そして、家康はこの城を浜松城と名付けた。いまにつづく浜松市の直接の起源は、家康にあった。


 家康が岡崎城から浜松城へ居城を移転したことはよく知られている。しかし、この家康の選択はもっと評価されるべきだと思う。若き日の家康が従った今川義元は、西へ領国を広げても本拠の静岡市今川館は動かさなかった。家康がその後戦った武田信玄は、どれだけ領国が大きくなっても本拠の躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市)は不変だった。つまり、当時は成功しても本拠は動かないのが常識だった。



 現在でも、業務が拡大したり、営業環境が変わったりしても、昔の仕組みをつづけている会社や組織に、誰もが心当たりがあると思う。昔のやり方で成果を出した成功体験があるから、会社も組織もますます変われなくなる。成功して、なお高みを目指して変わる挑戦はそれほど難しい。しかし人や会社・組織をとりまく環境は刻々と変化する。昨日の正解が、明日の正解であるとは限らない。


 電話もインターネットも、鉄道も自動車もなかった家康の時代、すばやく情報をつかみ、軍勢を効率的に移動させるには、本拠の移転が最適解だった。もともとの本拠にこだわると、大きくなった領国境に軍勢を送るだけで、百キロ超もの移動が求められた。それにかかる時間も費用も莫大で、勝てば勝つほどその負担は増えて、限界を超えると大名の領国経営は破綻した。


 家康がそうした武田家の失敗例を目撃したのは、はるかのちのことだった。だから浜松移転を選択した家康の先見性が光る。浜松は家康の挑戦しつづける意志を受け継ぐ街である。


■地下から真実が浮かび上がる


 浜松城は、明治に廃城になると、天守曲輪など城の中心部は昭和初期まで民間によって共同管理され、天守台には「鉄城閣」と呼ぶ鉄塔の展望台が置かれた。御殿が立ち並んでいた二の丸は1948(昭和23)年から元城小学校になった。1950年に城の中心部の公有地化が図られ、城の北側に浜松市動物園が開園、52年に本丸南東部から二の丸南側一帯は市役所となった。そして本丸南側には警察署や税務署が立ち並ぶようになった。



 1958年に市民の寄付を得て復興天守を建設したが、この頃までに浜松城は、再建された天守曲輪(本丸より上位の曲輪)以外、ほとんど姿を消していた。近代になって全国的に城跡は公共用地として開発されたが、浜松城のように本丸まで消滅したのは珍しい。


 こうして、いったんはほとんどを失った浜松城だったが、いまふたたびよみがえろうとしている。浜松市では天守曲輪の発掘を計画的に進め、地下に戦国期から江戸時代にかけた本物の石垣や堀が残り、絵図でも確認できなかった櫓が近世初頭に立っていたことなど、画期的成果を上げてきた。さらに2017年に元城小学校が移転したのを受けて、2020年には、大規模な発掘を二の丸で実施した。


 この調査では埋没していた本丸の堀や石垣を発見するとともに、二の丸御殿の礎石を検出して、二代将軍徳川秀忠が生まれたという「御誕生場」の位置も特定した(異説あり)。つまり小学校跡地の地下に、浜松城の重要遺構が良好に残っていることを城郭考古学で証明したのである。地表からは見えず、なくなったと誰もが思っていた浜松城が、次々と発掘によって現れてきた。遺構を保存し、調査成果にもとづいて浜松城の本丸・二の丸の堀や石垣、御殿がよみがえれば、浜松城が国史跡になるのも間違いない。


 さて未来の浜松城をどうしていくかは、まさに浜松市民の選択にかかっている。浜松城を整備、復元していくことは、まちの歴史の原点を取り戻すことだと思う。議論が進み、未来に誇れる選択がされるのを期待したい。


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