
豪快かつ美しいスイングで、プロ野球歴代3位となる567本塁打、1678打点、同4位の2566安打をマーク。本塁打王3回、打点王2回を獲得するなど、昭和の時代のプロ野球を彩った大打者・門田博光氏が74歳で亡くなった。
その門田氏と、南海時代には敵として対戦し、オリックス時代にはチームメイトとして共闘した星野伸之氏(元オリックスなど)に、門田氏とのエピソードを聞いた。
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――星野さんは、阪急(現オリックス)時代、南海に所属していた門田さんとどのくらい対戦しましたか?
星野伸之(以下:星野) 南海戦はよく登板させてもらっていたので、対戦する機会は多かったですね。当時はどのバッターに対してもそうでしたが、門田さんに対してもほとんどカーブを投げていました。「カーブは意外と通用した」と言ったら失礼かもしれませんが、通用しそうな球がそれしかありませんでした。
――他の球種では勝負しなかったんですか?
星野 僕の球が速ければ、真っ直ぐでたくさん勝負したかったという思いはあります。特に昭和の頃の試合は、「わかっていても、真っ直ぐ勝負」みたいな風潮もありましたから。
村田兆治さん(元ロッテ)との話になってしまうのですが、門田さんがオリックスに在籍されている時、僕と村田さんが投げ合った試合(オリックス対ロッテ)があったんです。門田さんが村田さんからホームランを打ってくれて、1−0で勝ち投手になったのですが、自分の勝利よりも試合後の村田さんのコメントが印象に残っていて......。
――どんなコメントだったんでしょうか。
門田 村田さんは門田さんとの対戦を「あそこは逃げるわけにはいかなかった」と振り返っていたんです。それで村田さんは真っ直ぐで勝負に出て、門田さんが見事に打ち返した。村田さんといえば"伝家の宝刀"のフォークボールがあるじゃないですか。でも、それを投げずに真っ直ぐで向かっていったんです。
そのコメントを聞いていて「うらやましいな」と思いました。その試合は緊迫した展開でしたが、「試合とは別に、2人の世界で勝負していたんだな」と。僕はバッターとそういう勝負をあまりしていなかったので......。真っ直ぐが145kmくらい出るのであれば違ったかもしれませんけどね。
――星野さんはカーブで緩急をつけ、真っ直ぐを速く感じさせるコンビネーションが武器だったと思いますが、門田さんにそのような攻め方はしなかったんですか? 以前、石毛宏典(元西武など)さんとその話をした際、星野さんのカーブの後に投げてくる真っ直ぐは「速く感じた」と話していました。
星野 対戦した選手の中には、そう言っていただく方も多いのですが、門田さんのあの豪快なフルスイングを見ていると、「少しでも間違えたら一発がある」と思わざるを得ないんです。あのスイングであれば、少し詰まっていてもスタンドまで運ばれる恐怖感があった。外に投げても、内に投げても打たれるイメージが湧いてしまうので、少しでも抑えられる可能性が高そうなカーブばかり投げていました。
あと、門田さんが打つと、チーム全体が乗ってくるイメージがすごくありました。だから、門田さんの前にはランナーを出さないようにしよう、といったことばっかり考えていましたね。
――門田さんのスイングはそれほどに脅威だったんですね。
星野 常にフルスイングで、スイングがめちゃくちゃ速かったです。南海時代はもちろん、門田さんがオリックスに移籍した時は40歳を超えていたのに、豪快なスイングは健在でした。「ヒットの延長がホームラン」と話すバッターは多いですが、門田さんは「ヒットはホームランの打ち損じや」と言っていましたね。それぐらいの意識でなければ、あれだけホームランを打つことは難しいんだと思いました。
――ちなみに、星野さんが門田さんにホームランを打たれたことは?
星野 たぶん打たれていないはずです。門田さんにはカーブばかり投げていましたし、ほとんどボール球だったと思うので。たまに真っ直ぐを投げる時も、ストライクゾーンを外していましたから。
プロ入り4年目から僕はフォークも覚えたので、カーブ、フォーク、カーブ、フォークという感じでした(笑)。ヒットはいいとして、とにかくホームランだけは打たれないように気をつけていました。
――1989、90年はオリックスのチームメイトになりましたが、その時に、門田さんとの対戦でカーブばかり投げていたことに対して何か言われましたか?
星野 それはありませんでしたが、たぶん門田さんは、意地でも真っ直ぐのタイミングで待っていたはずです。心の中で「真っ直ぐを投げてこいよ」と思っていたんじゃないかと。ただ、僕の場合は真っすぐが120km台だったので、門田さんも面と向かっては言えなかったのかもしれません。「球が遅いんだから、緩急をつけなきゃ抑えられないよな」と納得してくれていたのかもしれませんね。
――門田さんは身長170cmとプロ野球選手としては小柄でしたが、マウンドから見る姿はいかがでしたか?
星野 大きく見えましたね。背は高くないですが恰幅がよく、スイングが描く弧が大きいというか、バットが長く感じました。威圧感がありましたし、「これぞ4番バッター」という体型とスイングだったと思います。
――同じチームの時に話す機会はありましたか?
星野 野手と投手なのであまり接点はなかったのですが、食事会場でたまたまテーブルが一緒だった時が一度だけありました。その時、門田さんは「練習ではダウンスイングをするんだけど、試合でピッチャーのボールを打つ時は、歩幅が広くなるからレベルスイングになる」といった、バッティングの話をされていた記憶があります。「なるほど」と思いながら聞いていました。
――引退後に門田さんとお話される機会や交流などはありましたか?
星野 僕は基本的にオリックスと阪神を視察することが多いのですが、ここ何年かは挨拶する機会もありませんでした。門田さんがそこに来られる機会がなかったのか、たまたますれ違って会えなかったのかはわかりません。僕がコーチ業に携わっている時に、もしかしたら球場などに足を運んでいたのかもしれませんが、野手の側にいたのかもしれませんし......。
そもそも一緒のチームでプレーしたのは2シーズンだけで、その後にダイエー(現ソフトバンク)に復帰されましたからね。やっぱり最後は、自分がプロ野球選手として育ったところでプレーしたいんだな、とすごく感じました。
1989年に南海がダイエーに買収され、本拠地が福岡に移転することになった時も、「お子さんが進学するまでは家族と一緒にいたい」といった理由で(南海と同じ)関西が本拠地のオリックスに移籍したと聞いていました。それほど、南海に愛着があったんだなと。
――門田さんの人柄、振る舞いはいかがでしたか?
星野 その時代を代表するバッターでしたし、風格を感じました。一方で、一緒に行動を共にすることが多かったトレーナーを"カブトムシくん"というあだ名で呼んだりもしていましたね。そのトレーナーの方には悪いのですが、"カブトムシくん"と言われているのを見ると、不思議とそんな感じがしてくるんです(笑)。
見た目などを含めて、人を観察するのがうまい方なんだろうなと思っていました。野球をしている時の目つきや雰囲気は近寄りがたかったのですが、「門田さんにもそういう一面があるんだな」と親しみを感じた瞬間でしたね。
【プロフィール】
星野伸之(ほしの・のぶゆき)
1983年、旭川工業高校からドラフト5位で阪急ブレーブスに入団。1987年にリーグ1位の6完封を記録して11勝を挙げる活躍。以降1997年まで11年連続で2桁勝利を挙げ、1995年、96年のリーグ制覇にエースとして大きく貢献。2000年にFA権を行使して阪神タイガースに移籍。通算勝利数は176勝、2000三振を奪っている。2002年に現役を引退し、2006年から09年まで阪神の二軍投手コーチを務め、2010年から17年までオリックスで投手コーチを務めた。2018年からは野球解説者などで活躍している。