上弦の鬼の半天狗(左)と玉壺(画像はufotable公式ツイッターより)【※ネタバレ注意】以下の内容には、今後放映予定のアニメ、既刊のコミックスのネタバレが含まれます。2月3日から、全国の映画館で「『鬼滅の刃』上弦集結、そして刀鍛冶の里へ」の上映が始まった。鬼の実力者集団「上弦の鬼」の全貌がいよいよ明らかになり、4月から始まるアニメ新シリーズ「刀鍛冶の里編」への期待が高まる。刀鍛冶の里に登場する鬼の玉壺と半天狗は、炭治郎たちが戦ってきたこれまでの鬼とは描かれ方が異なる。今回の映画の見どころである「上弦パワハラ会議」をふり返りつつ、他の「上弦の鬼」にはない、玉壺と半天狗にだけ見られる“特殊な性質”を考察する。
【写真】「上弦の鬼」のなかで最も悲しい過去を持つ鬼はこちら* * *
■上弦パワハラ会議とは
鬼の総領・鬼舞辻無惨は、鳴女(なきめ)と呼ばれる異能の鬼に命じて、実力者「上弦の鬼」たちを無限城に呼び出した。ここに呼ばれたのは、上弦の壱(=1)黒死牟、上弦の弐(=2)童磨、上弦の参(=3)猗窩座、上弦の肆(=4)半天狗、上弦の伍(=5)玉壺だった。無惨からは、音柱・宇髄天元と炭治郎たちとの戦闘によって「113年ぶり」に上弦の鬼が殺されたことが告げられた。
鬼殺隊の長である産屋敷耀哉の殺害と、鬼化の重要な鍵になる植物「青い彼岸花」の探索がうまくいかないことに、無惨は激しい怒りといらだちを見せた。これが、読者から通称「上弦パワハラ会議」と呼ばれる場面である。
■上位3体の鬼と、玉壺・半天狗とのちがい
以前に描かれた「下弦パワハラ会議」は、すでに鬼殺隊に敗北していた累、唯一無惨に許された魘夢を除いて、全員が無惨に惨殺されるというすさまじい事態を引き起こした。
今回の「上弦パワハラ会議」で、無惨の“八つ当たり”を受けたのは玉壺だった。しかし、圧倒的な暴力を受けながらも玉壺はそれを喜び、恍惚の表情を浮かべながら「いい…とてもいい…」「でもそこがいい…」と繰り返すのだった。美しくも身勝手な無惨と、無惨の残酷さにいたぶられる玉壺との対比によって、いびつな「悪への陶酔」が表現されている。同時に、無惨への恐れを口にしながら土下座する半天狗の態度は、あまりにも卑屈で異様だった。
無惨を前にしても緊張感なく話し続ける童磨、無言のままの猗窩座、言葉少なく無惨の話を聞く黒死牟らの様子と比べると、無惨の言動に逐一翻弄される玉壺と半天狗は、見ている者に彼らが「小物」であることを印象づけた。
■上弦の鬼の中で「異質」なのは誰か?
上弦の鬼たちを比較すると、そのキャラクターデザイン、精神面の描写という点において、半天狗と玉壺は異質である。童磨と猗窩座は外見の一部には鬼としての特徴は備えており、黒死牟も人間時代と比べると顔の“ある器官”に大きな変化が見られるが、無限城に姿をあらわした段階では、体つきは人間時代のままである。
しかし、階段の手すりごしに身をひそめ、小柄な老人のような風体の半天狗と、陶器製のような壺から半身をヌルリとあらわす玉壺には、肉体的な意味での「強さ」はうかがえない。いかにも鬼、妖怪、怪物的な姿ではあるが、戦闘力よりも、不気味さのインパクトの方が強い。
しかし、この2体の鬼は「目」と「口」に特徴を秘めている。そして、この「目」と「口」こそが、彼らの性格と性質を表現している部分なのだ。
■玉壺と半天狗の「目」と「口」
玉壺は、「芸術家気取り」という不思議な鬼で、自分が作った壺をすばらしい芸術品、傑作だと信じている。しかし、そんな玉壺には、目のある場所に目がなく、その目は額と口元に置かれている。天才だと自称する口は、本来、目が置かれる部分にあるのだ。玉壺の天才発言と、芸術への審美眼がチグハグなものであることは、一見すると奇抜な、彼のキャラクタービジュアルによって表現されている。玉壺は自分の作った「作品」を正面から見ることができているのか。口から出る、自画自賛の言葉がむなしく響く。
その一方で、半天狗は目が不自由なふりをしており、その外見から周囲にもそのように思われているのだが、実は彼の目は見えている。そもそも彼の姿は、ツノ以外、人間の頃からさほど変化していない。半天狗は、人間だった頃から、見えるはずの目を開こうとせず、現実から目を背けながら生きてきた。鬼化後も自分を「小さく弱き者」と名乗り、社会の被害者であると、自分の利益のためだけに、その口でうそを重ねてきた。
■玉壺と半天狗に立ち向かう2人の「柱」
玉壺も半天狗も、事実をねじ曲げる“虚構”を口から出し続けるタイプの性質を持つ。彼らの瞳には、世の中の真実も、自らの真の姿すら映らない。
刀鍛冶の里で、そんな彼らに立ち向かう鬼殺隊の「柱」は、霞柱・時透無一郎(かすみばしら/ときとう・むいちろう)と、恋柱・甘露寺蜜璃(こいばしら/かんろじ・みつり)である。無一郎は玉壺と対峙し、蜜璃は半天狗との戦いがメインになるが、これら「鬼と柱の組み合わせ」には重大な意味が隠されている。
刀鍛冶の里で詳細が明らかになるが、無一郎と蜜璃には、この物語の中で「真の自分」の生き方と向き合う機会がおとずれる。かつて自分の肉体的特性を恥じて、自分にうそをついて生きようとした蜜璃は、あるがままに生きることによって、自分の強さと弱さを見つめ直す。過去の記憶を失っている無一郎は、なぜ自分が強くなろうとしたのかという本心にあらためて気づくことになる。
彼らは刀鍛冶の戦いの中で「真の自分」を再び取り戻す。そして「他者のために自分の強さをささげる」という本来の決意を改めて思い出す。
■玉壺・半天狗との戦い
刀鍛冶の里のキーワードは、キャラクターたちの「過去」である。鬼滅という物語には、何人かの「天才」が描かれているが、彼らはその類まれなる才能がゆえに、過酷な運命を背負わされている。そして、時代に名を残すほどの天才と、その影にたたずむ無名の者たちの運命が重なりあって、物語をつむぎ出す。
自分を過大に評価し、周囲の目を気にしてばかりの玉壺は、「真の天才」である時透無一郎と、刀鍛冶の技を思い知ることになる。虚偽の弱さで他人を利用し続けてきた半天狗は、強い自分を肯定することで「真の強さ」を獲得した甘露寺蜜璃と対峙することになる。無一郎と蜜璃以外に、刀鍛冶の里で参戦するのは、過去の自分と真摯に向き合おうとする、炭治郎、禰豆子、そして玄弥だ。
玉壺・半天狗という「鬼らしい鬼」の姿に込められた意味を確認しながら、上映とアニメ新シリーズを楽しみたい。
◎植朗子(うえ・あきこ)
1977年生まれ。現在、神戸大学国際文化学研究推進センター研究員。専門は伝承文学、神話学、比較民俗学。著書に『「ドイツ伝説集」のコスモロジー ―配列・エレメント・モティーフ―』、共著に『「神話」を近現代に問う』、『はじまりが見える世界の神話』がある。AERAdot.の連載をまとめた「鬼滅夜話」(扶桑社)が好評発売中。