
清水直行インタビュー 前編
2006年 第1回WBCの裏話
2006年に行なわれた第1回 WBCで、初代王者に輝いた日本。しかし頂点に至るまでには、アメリカ戦での"世紀の大誤審"、韓国戦の連敗など苦難が多かった。
同大会のメンバーで、2試合を投げて1セーブを挙げた清水直行氏(元ロッテなど)に、"奇跡"と言われた準決勝進出、3度目の韓国戦での福留孝介氏の先制弾、イチロー氏との会話など、当時のエピソードを聞いた。
【初戦はスタンドもガラガラ。「本当に世界大会なのか?」】
――今ではWBCもだいぶ認知されていますが、第1回大会の時はいかがでしたか? 当時は初開催ということもあってか、1次ラウンドの舞台となった東京ドームも空席が目立っていました。
清水直行(以下:清水) 東京ドームでの初戦(中国戦)なんて、スタンドがガラガラでしたよ。宮本慎也さん(元ヤクルト)たちと、「これ、本当に世界大会なのか?」などと話していたことを思い出します。
――盛り上がり始めたのを感じたのは、どのタイミングですか?
清水 2次ラウンドのアメリカ戦でタッチアップ判定が覆りましたよね(※)。その頃からメディアの方々が日本から現地に大挙して集まってきて、WBCが日本で大きな話題になっていることを初めて知ったんです。日本で試合をしている時も、2次ラウンドでアメリカに行ってからも、「全然興味を持たれていないな」と思っていましたから驚きました。
(※)3−3で迎えた8回1死満塁の場面で、岩村明憲(元ヤクルトなど)がレフトにフライを打ち上げ、三塁走者の西岡剛(元ロッテなど)がタッチアップして生還。しかしアメリカ側が「(西岡の)離塁が早かった」と主張し、球審のボブ・デービッドソンが判定を覆してアウトを宣告した。
――アメリカ代表は多くのスター選手が出場していましたし、アメリカ戦に限っては盛り上がっていたように見えました。
清水 そうですね。(デレク・)ジーター選手やA・ロッド選手(アレックス・ロドリゲス)、ケン・グリフィーJr選手、(ロジャー・)クレメンス選手などもいたドリームチームだったので、アメリカ戦のスタンドはすごく盛り上がっていました。ただ、アメリカ戦以外は盛り上がりを感じませんでしたね。
【準決勝進出を諦めていた買い物中に「帰ってきてくれ」】
――アメリカに敗れ、次のメキシコ戦で勝利したものの、続く韓国に負けて日本は窮地に追い込まれました。日本が準決勝に進出するためには、「メキシコが2点以上とってアメリカに勝利」する必要があり厳しい状況でしたが、メキシコが2−1で勝利。準決勝進出が決まって"奇跡"と話題になりました。
清水 数字的に絶望的な状況でしたし、「もう終わりだ」と思っていました。(第2次ラウンド会場の)ペトコ・パークの近くのホテルで、みんな帰る準備をしていましたからね。アメリカとメキシコの試合を見ている選手もいたと思いますが、ほとんどの選手が買い物に出かけていました。
――清水さんも外出していたんですか?
清水 近くに買い物できる施設があったので、そこでお土産を買ったりしていましたね。ただ、試合でメキシコが勝ちそうな状況になると、スタッフから「帰ってきてくれ」と連絡があったので、急いでホテルに戻りました。試合の終盤には王貞治監督をはじめ、みんなでメキシコの勝利を見届けました。試合後は「アメリカが負けた!俺たちが勝ち上がれるんだ!」などと声を掛け合ったりして、一度は落ちていたテンションが再び上がったんです。
――準決勝は同大会で3度目となる韓国戦。2連敗していた相手に対し、先発の上原浩治さん(元巨人、レッドソックスなど)が7回3安打無失点の快投を見せ、勝利を手繰り寄せました。
清水 上原が"無双状態"のピッチングをしていたのを見ていて、「やっぱりすごいな」とあらためて思わされました。上原は大学時代から国際大会で負けなしでしたし、国際大会の試合に向かっていく時のテンションのもっていき方、一発勝負での集中力がすごかった。あの試合での快投は日本の野球史に刻まれていますし、本人も生涯忘れられないくらいのピッチングなんじゃないかと思います。
【福留の起死回生ホームランに大はしゃぎ】
――試合は0−0で進みましたが、7回表に代打の福留孝介さん(元中日、カブスなど)が先制の2ランを放ちます。不調だった福留さんの起死回生の一打に、日本の野球ファンは大興奮しました。
清水 僕らもファンと同じように大盛り上がりでしたよ(笑)。一塁側のブルペンで、ちょうどライトのライン際あたりにいたのですが、打球がスタンドに入った瞬間、ブルペンにいたメンバーは喜びを爆発させていました。クローザーの大塚(晶文)さん(元近鉄、パドレスなど)はブルペンでスタンバイしていましたけど、僕を含めて出番がなさそうな選手たちは大はしゃぎしていました。
僕はアメリカ戦で打たれてしまったので(2番手で登板するも、デレク・リーに同点2ランを被弾)、「もう出番はほとんど回ってこないだろう」となんとなく感じていました。だから応援でチームを支えようと思い、馬原(孝浩・元ソフトバンクなど)たちと一緒に「みんなで応援するぞ!」とめちゃめちゃ声を出していましたね。ベンチまで届いていたかどうかはわかりませんが(笑)。
――大事な試合で投げられなかったことに、悔しい思いもあった?
清水 僕が投げたのは、第1次ラウンドの中国戦と第2次ラウンドのアメリカ戦。あれだけのスター選手が集まっているなかで、みんなが自分が投げたいところで投げられるわけではありません。"ダブル先発"といわれるような役割があって、僕は上原が先発する試合の2番手という役割でした。
アメリカ戦で打たれたあとに出番が回ってこなかったことなど、もちろん個人的な悔しさもありましたが、それでも試合はチームとして戦うもの。声を出したり、ブルペンの雰囲気を盛り上げたりといったことを率先してやるようにしました。いかに献身的になれるかは、すごく必要なことだと思うんです。
――チームの雰囲気と言えば、第1回大会ではイチローさん(元マリナーズほか/現シアトル・マリナーズ球団会長付特別補佐兼インストラクター)の存在が大きかったと思いますが、いかがでしたか?
清水 イチローさんはとても心強い存在でしたし、みんなが助けられていたと思います。高校時代(愛工大名電)にピッチャーだったこともあってか、ピッチャーのことも本当に「見守ってくれている」と感じました。
円陣を組んでいる時、言葉数は少ないのですが、気合いを入れてくれたこともあります。「どういう気持ちで自分たちは日の丸を背負うべきなのか」「日本の野球界を代表して戦うんだ。日本野球をなめられてたまるか」といった強い気持ちが伝わってきました。単なる勝ち負けではなく、ひとつの勝ち、ひとつの負けが日本野球の未来に関わるという感覚というか、1、2段階上の感覚で野球をしているんだと感じましたね。
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【偉大なイチローをイジっていた選手】
――WBC期間にイチローさんと話す機会もあったかと思いますが、印象に残っていることは?
清水 イチローさんが(メジャーリーグのマリナーズ移籍で)日本を離れた年(2000年)の最後の対戦相手が僕だったんです。それを僕は覚えていて、イチローさんと歩いている時に「イチローさんがメジャーに行かれる前の最後の打席で対戦させてもらってるんです」と言ったら、「そうだよね、神戸(グリーンスタジアム神戸での試合)だよね」と覚えていてくれたんです。
――覚えてくれていないと思っていた?
清水 そうですね。でも、あれだけ偉大な選手でありながら、覚えていてくれて嬉しかったです。ただ、そんなイチローさんに対して、「おいおい、そんなことしていいの?」という接し方の選手もいて......。
――優勝後のシャンパンファイトで、上原さんがイチローさんに陽気に絡んでいる光景が思い出されますが......。
清水 まさに上原です(笑)。あいつはイチローさんを"いじる"んですよ。上原がそういうキャラでもあるんですけどね。でも、イチローさんはイタズラなどをされても一緒に笑って盛り上がっていました。場の雰囲気を大切にして、いい雰囲気を作ってくれる方です。
――大会終了後、日本代表のメンバーが日本に帰国する時に、イチローさんが選手一人ひとりと握手をされていましたね。
清水 イチローさんは日本に一緒に帰らなかったので「じゃあ、ここで」と。「ありがとう。これからも(それぞれ)頑張ろうな」と声をかけていただいた記憶があります。
――日本代表が到着した時の成田空港は大フィーバーでしたね。
清水 あんなに多くの人が出迎えてくれるとは思っていませんでした。日本からアメリカに向かった時の閑古鳥が鳴いていた状況を思えば、考えられない盛り上がりでした。むしろ「なぜ、こんなにフィーバーしてるんだ?」と不思議なくらいでしたね。
(後編:WBC公式球に慣れるまでの苦労。「スッと抜くボールが投げづらかった」>>)
【プロフィール】
清水直行(しみず・なおゆき)
1975年11月24日に京都府京都市に生まれ、兵庫県西宮市で育つ。社会人・東芝府中から、1999年のドラフトで逆指名によりロッテに入団。長く先発ローテーションの核として活躍した。日本代表としては2004年のアテネ五輪で銅メダルを獲得し、2006年の第1回WBC(ワールド・ベースボールクラシック)の優勝に貢献。2009年にトレードでDeNAに移籍し、2014年に現役を引退。通算成績は294試合登板105勝100敗。引退後はニュージーランドで野球連盟のGM補佐、ジュニア代表チームの監督を務めたほか、2019年には沖縄初のプロ球団「琉球ブルーオーシャンズ」の初代監督に就任した。