
一つの薬には複数の名前があるのが当たり前? 医薬品の名称の不思議
筆者の本名は「阿部和穂」で、それ以外の名前はあいにくもちあわせていません。しかし、皆さんの中には、芸名、ペンネーム、ニックネームなどを使って多彩な活動を展開している方もいらっしゃることでしょう。薬の世界では、筆者のように一つしか名前をもっていない平凡な薬はほとんどなく、たいてい複数の名前をもちあわせています。筆者が大学で薬の講義をするときには「この薬には2つの違う名前があって、ちょっと面倒だけど両方覚えておいて」などと学生を困らせてしまうこともしばしば。
しかし、どうして同じ一つの薬に違うたくさんの名前がついているのでしょうか。
一つの薬が持つ名前…化学名・開発コード名・一般名
薬は化学物質ですが、化学物質の命名法は、まずIUPAC(The International Union of Pure and Applied Chemistry、国際純正・応用化学連合)という組織によって定められています。このルールにのっとり、すべての化合物に対して自動的に「化学名」が付けられます。たとえば、IUPAC命名法による化学名が「(5α,6α)-7,8-ジデヒドロ-4,5-エポキシ-17-メチルモルフィナン-3,6-ジオール」という薬があります。立派な名前ですが、これでは長くて覚えられないでしょうし、使いづらいですね。そこで、もっと馴染みやすい名前として「一般名」が付けられます。この薬物の一般名は「モルヒネ」です。
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例えば、1985年に藤沢薬品工業(現在のアステラス製薬)が、筑波山麓の土壌中に存在していた放線菌が産生する新しい物質として発見した薬は、当初「FK506」という開発コード名をつけられました。その後、免疫抑制薬として有用であることが分かり、改めて「タクロリムス」という一般名がつけられました。
同じ成分を含む薬でも、つけられる商品名はさまざま
さらに、薬を販売するとなると、いわゆる「商品名」(正確には「販売名」)が付けられます。たくさん売るために、メーカーはできるだけ魅力的な名前を付けようと、いろいろ工夫をします。例えば、ジフェンヒドラミンという一般名の薬があります。アレルギーに関係するヒスタミンという体内物質の働きを阻害することでアレルギー症状を鎮めることができます。そこで複数のメーカーが、同じジフェンヒドラミンを含む抗アレルギー用の製品を発売するにあたって、『レスタミン』『ベナ』など違う商品名をつけました。
ヒスタミンには眠気を催すという副作用がありますが、これは不眠ぎみの人にとってはありがたい効果でもあります。そこでジフェンヒドラミンをあえて睡眠導入薬として、『ドリエル』(dream wellに由来)という商品名で発売したメーカーもあります。
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一つの薬がいくつもの顔をもっていることは珍しくないのです。
名前による薬の取り違えが生じる問題も
名前がたくさんあるのはちょっと羨ましいようですが、厄介な問題も生じます。医薬品は、学問領域では一般名で呼ばれますが、医療現場では商品名で呼ばれるため、関係者で議論するときにかみ合わないことも実は珍しいことではありません。その煩雑さが事故につながることもあります。医療現場で使われる商品名が酷似しているものの例として、『アルマール』と『アマリール』があります。『アルマール』は血圧を下げる薬で、『アマリール』は糖尿病の薬ですが、名前のせいで取り違えが起こってしまった事例があります。このような場合は一度つけた名前を取り消し、新しい名前が付け直されることもあります。
薬の名付けは、なかなか難しいものです。
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阿部 和穂プロフィール
薬学博士・大学薬学部教授。東京大学薬学部卒業後、同大学院薬学系研究科修士課程修了。東京大学薬学部助手、米国ソーク研究所博士研究員等を経て、現在は武蔵野大学薬学部教授として教鞭をとる。専門である脳科学・医薬分野に関し、新聞・雑誌への寄稿、生涯学習講座や市民大学での講演などを通じ、幅広く情報発信を行っている。(文:阿部 和穂(脳科学者・医薬研究者))