「厳しく怖い」伝説の大江健三郎 編集者が体験した冷や汗と忘れられない笑顔

3

2023年03月22日 17:00  AERA dot.

  • 限定公開( 3 )

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

AERA dot.

大江健三郎さん
 対談や連載など週刊朝日はノーベル賞作家の大江健三郎さんと深いご縁をいただいた。担当だった山本朋史元編集委員が大江さんの優しさを記憶に刻んでいた。


【表】大江健三郎さんの主な著作と歩みはこちら*  *  *


「編集者に厳しく怖い」。そんな伝説めいた大江評がなぜか本誌編集部に語り継がれていて近寄りがたい存在と目されていた。代表作をいくつか読んだだけで大江文学についてほとんど知らない事件記者だったぼくに1994年にノーベル文学賞受賞の記事を作れと指示が下った。困り果てて作家丸谷才一さんに泣きつき寄稿していただくことで救われた。徒手空拳で向かう相手ではない。受賞直後に単独インタビューなど、とても無理だった。


 でも、大江さんに本誌に登場願いたい。ない知恵をしぼり、作家井上ひさしさんと20世紀末を振り返る対談をお願いしたのはたしか1998年の暮れのことだった。


「井上さんとだったらいいですよ」


 快諾をいただき朝日新聞東京本社で行った対談は当初は3時間ほどで終わる予定だったが、お二人とも準備したものを語り尽くせず場所を変えて深夜に及んだ。


 この対談は1999年新年号から2回にわたって掲載された。


 お礼の手紙を出すと丁寧な返事をいただき、何度かやり取りが続いた。葉書や便箋に大江さん独特の角張った文字でびっしり書かれていた。当時の編集長から、


「大江さんに何か目玉になるような連載をやってもらえないか」


 なかなか直接は口に出せないでいた。ある時、大江さんのほうから、


「子どもにもわかる童話のようなエッセイなら書いてもいいな」


 と。願ってもない話だった。


 なぜ学校に行かないといけないの?といった子どもの疑問に答えるエッセイの構想だった。最初の原稿を見せていただいた。簡単だが全体像を伝えるレジュメもできあがっていた。大江さんの故郷、愛媛県内子町で子ども時代に体験した話などを盛り込むという話も魅力的だった。


 挿絵をどうするか。相談すると妻ゆかりさんが描いた絵を見せてくださった。繊細で詩的なタッチの完成度に驚いたものだ。タイトルは『「自分の木」の下で』。この時すでに大江さんの頭の中ではすべてができあがっていたのだと思う。担当記者のぼくのやることといえば、毎週月曜日に世田谷区の自宅に原稿を取りに行くこと。文学オンチのぼくでも楽勝、と思ったのは束の間。実はそんなに簡単ではなかった。



 大江さんはいつも目の前で原稿を渡して、私が読み終わるとじっと見つめられた。


「子どもでもわかるようにしたいので、あなたが読んで少しでもわかりにくい部分があったら遠慮なく言ってください」


 原稿用紙をハサミで何度か切り貼りした跡があったり、原稿用紙の隅に小さな字で書き込みをしたり。何度も推敲されたに違いない。重厚だが難解と思い込んでいた大江さんの文体とはひと味違っていた。読み応えがある、しかもわかりやすい。


「週刊朝日の読者にピッタリ。すばらしいです」といった通りいっぺんの称賛だけでは足りない。ふさわしい言葉が出てこない。情けなくなった。何か言わねば。焦り狂って畏れ多くもある時、


「この部分が少しわかりにくいと思います。ぼくにはちょっと難しい」


 と言ったことがあった。すると大江さんは表情を変えた。


「そこで待っていてください」


■詩集と色紙 忘れがたい笑顔


 私がゆかりさんと挿絵について話していると10分ほどで大江さんは、


「これでどうですか」


 と文章を作り変えてこられた。この時ほど冷や汗をかいたことはなかった。


 連載はモノクロ誌面なのに、ゆかりさんは毎回時間をかけて丁寧にカラーで挿絵を描いてくれた。


「毎回色がすばらしい。なんとかカラーで本にしたいですね」


 というと大江さんは自分の原稿のこと以上に喜んでくれた。連載は一回4ページ。切り貼りや書き込みが多かったのに分量はいつも変わらずきちっとしていた。ゲラをファクスで送るのだが直しはほとんどなかった。編集部の手続きミスで叱られたことはあったが、理不尽な怒りではない。大江さんを怖いと思ったことはなかった。


 16回続いた連載が単行本になると評判を呼び36万部を超えるベストセラーに。しばらくして続編もお願いすると、


「彼女さえよければ」


 とゆかりさんを見た。主婦業をやりながら時間をかけて一回に2枚の絵を描くのは大変な作業であることは大江さんも認識していたのだろう。『「新しい人」の方へ』というタイトルで続編が始まったのは1年近く経った2003年新年号からだった。



 私事で恐縮だが、連載期間中に私の父が咽頭がんで死亡。数カ月後に母が末期の肺がんとわかった。看病のドサクサで原稿受け取りの日を変えてもらったことがある。すると大江さんは、


「病床でこの本をお母さんに読んであげたらいいですよ」


 と一冊の詩集をくれた。ゆかりさんの手料理をご馳走になって、長男の光さんに悲しみを癒やすCD音楽を聞かせていただいたのもその頃だった。


 古新聞に包んだ色紙を2枚いただいたこともあった。新井白石の「折たく柴の記」からの一文を筆記したもので、


「学業の道ではどんなに辛いことがあっても、自分を甘やかすことなく、いつも堪えて、人が一やることは十やり、十やることは百やりなさい」


 私の無知を見通して、人の十倍勉強せよという励ます言葉をくださったのだと勝手に理解した。大江さんには、こういう優しさがあった。私が同時期に取材していたKSD事件の話も熱心に聞いてくれた。ちゃめっけたっぷりの笑顔が忘れがたい。2冊の本を再び手にしながらなんだか頭の中を寂しい風が抜けていくような気がする。(山本朋史)

※週刊朝日  2023年3月31日号


    ランキングエンタメ

    前日のランキングへ

    ニュース設定