宮城大弥(オリックス)の少年時代|小さなプロ野球選手の履歴書

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2023年03月23日 19:51  ベースボールキング

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吉田選手、近藤選手、甲斐選手、宮城投手など、体の小さな選手達が大活躍を見せてくれたWBC。今回はWBC優勝を記念して、ヤキュイク編集部が企画、編集した『小さなプロ野球選手の履歴書』という本のなかから、宮城投手を中学時代に指導した宜野湾ポニーズの知名朝雄総監督にお話を伺った「指導者が語るアマチュア時代」の一部を紹介します。



■決して手を抜かない性格と、『野球で成功してやる!』という反骨心が際立っていた
【中学3年間、練習は1日も休まなかった】
「入部してきた時から、1年生としては走攻守の三拍子が揃った選手だなという印象でした。投げてよし、打ってよし、走ってよしで、同じ学年の中でもずば抜けたものがありました」

宮城投手といえば、「実は右でも投げられる」という話が有名だ。
「左肘を怪我していて、1年生の時はセンターはじめ外野中心でしたね。怪我がしっかり治るまではピッチングはやらせなかったんです。ただ『右でも投げられます!』というので、投げさせてみたらその当時でも110キロ以上のスピードは出ていて、驚かされました。投げることに関するセンスが高かったですよ。ピッチャーとして投げたのは左肘が治った後、1年生大会で1試合投げただけだったと思います」

怪我をしながらも、1年生の頃から上級生に負けないパフォーマンスを見せていたという宮城投手。そしてプレーだけでなく、野球に取り組む姿勢の部分でも際立ったものがあったと知名総監督は話す。

「私の記憶の限りでは、大弥は1回も練習を休んだことがなかったです。平日も学校が終わった後の17時から日没までの2時間くらいは練習をするんですけど、自転車で5キロ以上ある道のりを毎日通っていました。3年生でも何かと理由をつけて休む選手がいるんですけど、大弥は1年生から3年生までずっと休まなかった。やっぱりそれだけ野球が好きだったんじゃないですかね。性格的には比較的おとなしいタイプで、下級生の頃は上級生に引っ張ってもらっているという感じでしたけど、最上級生になった時には口ではあれこれ言わなくても、黙々と一生懸命練習する態度やプレーで他の子たちの示しになるような存在でした」

【的当て練習で磨いたコントロール】
2年生からは小学校時代に痛めた肘の怪我が治り、本格的にピッチャーの練習に取り組んだ。この頃に投手としての才能が大きく開花し、チームの中心選手になった。どんな練習に取り組んでいたのだろうか? 知名総監督がまず挙げたのは、宜野湾ポニーズでずっと行われているという独特なピッチャー育成法だ。
「うちのチームのピッチャーがよくやる練習がまず的当てです。キャッチャーを座らせる前に、クッションをつけた的を狙って投げる練習をしっかりやるんです。ある程度狙って的に当てられるようになったら、キャッチャーが座って、本格的なピッチング練習に移行していくという流れですね」

宮城投手もこの練習で変化球のコントロールを磨いた。
「大弥はスピードがそこまで際立っていたわけではなかったんですけど、この的当てでもとにかくコントロールが良かったですね。あとはストレートだけじゃなくて変化球を投げるのが上手だったんです。縦のカーブ、スライダーをしっかり狙って投げることができていました」

左ピッチャーに縦の変化球を低めに集められたら、そう簡単に打つことはできない。中学生のバッターであればなおさらだ。

また、この頃の練習では「遠くへ強いボールを投げることができれば、高校に行ってもそれだけで大きなアドバンテージになる」というチーム方針から、遠投も重視していたという。

的当て練習と遠投で磨かれたボールは次第に際立ったものになり、侍ジャパンU15代表に選出されるまでになっていた。


【1球1球に対して真剣に取り組む姿勢】


中学2年から急激に成長を見せた宮城投手。そもそもの能力が高かったこともあるが、他の投手陣も同じ練習メニューに取り組んでいたなかで、なぜ体格に恵まれない宮城投手が人一倍成長することができたのだろうか? それは宮城投手が、誰よりも1球1球に対して真剣に、しっかり取り組んでいたからなのだと知名総監督は振り返る。
「こちらが見ていないと力を抜いて投げたり、なかなか投げない選手もいるんですよ。でも大弥は誰も見ていないところでも手を抜かない。1球1球に対していつも真剣に取り組んでいました」

プロの投手としては体が小さい。しかし、知名総監督の印象では身長に対するハンデを感じるようなことはなかった。
「中学1年でポニーに入ってきた時は他の選手と比べて小さいわけではなかったです。だからあんまり背が低いという印象はないんですよね。学年が上がるにつれて周りの選手が大きくなっていって、結果的に小さいほうになったというだけで、身長が小さいから苦労してきたとか、身長が小さいことによる反骨心みたいなのはあまり感じませんでしたね」

知名総監督は、中学時代、宮城投手の反骨心は別の部分にあったと見ている。
「むしろ反骨心を持っていたとすれば家庭の生活が苦しかったということじゃないですかね。本人から直接そういうことを言われたことはありませんでしたけど、お父さんからは時々そういう話はありました。大弥も大きくなるにつれ、当然そういう事情はわかっていったと思いますから『何とか野球で成功してやる!』という気持ちは強かったと思いますよ」

だからと言って本人に悲壮感みたいものはなかった。それは性格的にも優しくて人懐っこく、みんなから好かれていたからだと知名総監督は話す。現在の宮城投手の印象そのままだ。

(取材:西尾典文/写真:知名氏提供)

*宮城投手の恩師インタビュー完全版は書籍でお読み頂けます。

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