
そのボールを見た瞬間、「どんな神経をしていたら、この場面でこのボールを投げられるんだ?」と思わずにはいられなかった。
初めての甲子園のマウンド。相手は智辯和歌山という高校球界屈指の名門。2回裏、0対0の均衡が破れそうな二死満塁の大ピンチ......。
並の人間なら逃げ出したくなるシチュエーションで英明(香川)のエース右腕・下村健太郎がウイニングショットに選んだのは、97キロの緩いボールだった。
智辯和歌山の2番打者・濱口凌輔がバットを振り抜く。打球は高々と舞い上がったのち、遊撃手の鈴木昊(そら)のグラブに収まった。
「あの遅いボールはなんなんだ?」
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そんな謎を残して、試合は淡々と進んでいった。
【智辯和歌山を翻弄したスローボール】
3月19日に迎えた選抜高校野球大会(センバツ)の1回戦。下村は立ち上がりから毎回ランナーを許す、苦しい投球内容だった。それでも、下村は智辯和歌山のランナーをホームには還さない。気がつけば、スコアボードには「0」が連なっていた。
下村は6回まで8安打を浴び、3四死球を与えた。それでも、失点は6回裏に奪われた1点のみ。その後は寿賀弘都(すが・ひろと)、百々愛輝(どど・あいき)の両左腕による継投で反撃を1点でしのいだ。英明が3対2で智辯和歌山を破り、センバツ初戦を突破した。
試合を見た多くの高校野球ファンは、「智辯和歌山はなぜ、このサイドスローが打てないんだ?」と不思議だったに違いない。身長171センチ、体重65キロとごく平凡なサイズ。青柳晃洋(阪神)のようなクオーターサイドの角度から右腕を振り、ストレートの球速は120キロ台。下村とは、どこにでもいそうな右投手なのだ。
智辯和歌山の主砲・青山達史は下村と対戦した感想をこう語った。
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「ボールが動いていたように感じました。力感のないフォームから投げてきて、思った以上に手元でボールがきていました。詰まってしまって、修正できなかったです」
下村のストレートは、意図せずに変化することがあるという。基本的にシュートすることが多いのだが、時には落ちることもある。このクセ球が、一見平凡に見える下村を「甲子園出場校のエース」へと導いている。
そして、もうひとつ。試合後の囲み取材で濱口をショートフライに打ちとった球種を聞かれた下村は、苦笑しながらこう答えた。
「チェンジアップみたいな......、スローボールというか......。緩急をつけるために使いました」
最初は「チェンジアップ」と申告していたものの、途中で「スローボール」と言い直した。握りはストレートと同じで、投げる瞬間にボールを抜く感覚でリリースする。「ちょっと名前が恥ずかしいので『チェンジアップ』って言いました」と下村が打ち明けると、報道陣の間で爆笑が起きた。
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【高校入学時は遊撃手】
下村に聞いてみた。「あんな大事な場面で遅いボールを使うのは、怖くありませんか?」と。すると、間髪入れずにこんな答えが返ってきた。
「いや、もうピンチに慣れたんで。もう怖くないです」
とても虚勢を張っているようには見えない、じつにあっけらかんとした態度だった。
下村はなぜこの領域に達することができたのか。そもそも、高校入学時点で下村は投手ではなく、遊撃手だったのだ。
「野球を始めた頃から、横からボールを投げていました」
遊撃手としてもサイドの角度から投げていたという。一塁手が次々と後ろに逸らしてしまう摩訶不思議な球質を香川純平監督に見初められ、下村は投手に転向した。まさか2年後に自分がエース番号をつけて甲子園のマウンドに立つなど、「全然想像できませんでした」と下村は振り返る。
昨秋の新チームが始まった段階で、下村はエースではなかった。香川大会決勝の高松商戦で3回途中からスクランブル登板し、ロングリリーフで好投。以来、一気に中心投手にのし上がり、四国大会優勝の原動力になった。
スローボールの扱い方を覚えたのは、この頃だという。下村は「試合で投げていくなかで『ここで使うんやな』と慣れていきました」と語った。
センバツで智辯和歌山と対戦するにあたり、下村は相手打線の映像を徹底的に研究した。インコースが苦手に見えた打者に対しては、果敢にクセ球でインコースを突いて対処した。下村は試合後、「思ったとおり詰まってくれました」と胸を張った。
インコースのストレートで三振を奪うのと、スローボールで打ちとるのはどちらがうれしいか。そう尋ねると、下村は不敵な笑みを浮かべてこう答えた。
「スローボールですね。緩いボールで打たせてとるのが持ち味なので」
この日、下村は自己最速を更新する129キロを計測している。
はっきり言って、今の下村から将来プロ野球界を沸かせるようなスケールは感じられない。それでも、エリートが集まる智辯和歌山を手玉にとり、大舞台で結果を残してみせた。それは下村の野球人としての意地のように思えた。
智辯和歌山が相手だと、より対抗心が刺激されたのではないか。そう聞くと、下村は決然とした顔つきで「強豪と言っても同い年なんで」と答えた。その後「たかが......」と言いかけて、ハッとした表情になり、口をつぐんだ。
「高校が違うだけなんで、勝つ気でいました」
熱くなりかけて思い留まり、冷静に対処する。まるで突然スローボールを投げつけるような、強弱の利いた受け答えだった。
三塁側アルプススタンドから流れる智辯和歌山の大応援に対する感想を求められた下村は、「すごく楽しかったです」と答えた後に、こう続けた。
「スリルがあるんで」
全国の高校球児はこの日の下村の投球を見て、どんな感想を漏らすだろうか。智辯和歌山相手に果敢にスローボールを投げ込む姿は、まさに高校球界屈指の「勝負師」だった。