中村うさぎ、ラノベ黎明期から様変わり「異世界転生」氾濫に喝「テンプレ小説ばかり、書いてて恥ずかしくないのかな」

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2023年03月29日 07:01  リアルサウンド

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 あらゆる大手出版社から刊行され、巨大な市場に成長しているライトノベル。メディアミックスも好調で、その勢いはとどまるところを知らない。そんなライトノベルの黎明期はいったいどのようなものだったのか。黎明期にラノベ作家としても活躍をしていた中村うさぎに今だからこそ話せるデビューまでの経緯と、当時のライトノベル界の話をじっくりとうかがった。


(参考:【写真】中村うさぎのラノベの代表作である『ゴクドーくん漫遊記』やマツコ・デラックスの共著やエッセイ作品など


 中村といえば自身の買い物依存症から、美容整形、ホストクラブ、そして風俗とあらゆるジャンルを網羅したエッセイストとして名高く、マツコ・デラックスを発掘して芸能界進出へ導いたことでも知られるが、1990年代には『ゴクドーくん漫遊記』を筆頭にヒットを連発していた売れっ子ライトノベル作家であった。その後の活躍が有名になりすぎているため、ライトノベル作家時代を知る人は少ないかもしれない。
   
■中村うさぎが文章を書き始めたきっかけ


――中村うさぎ先生はライトノベル作家としてデビューする前に、OLなど様々な仕事を経験されているそうですね。


中村:大学を卒業してから、大阪にある住友グループの繊維会社で1年半ほどOLをやっていました。そもそもOLを選んだのは、私は特別な才能もないと思っていたから。だけど、入社してしばらく経つと、明らかに自分に向いていない仕事だと思い始めたんです。当時は男女雇用機会均等法もなくて、女性は同期の男性より給料が低い。それにOLなんていつか結婚してやめちゃうんだろ、という雰囲気が社内にあったのです。危機感を覚えて、手に職をつけようと考えました。


――その時に選んだのが、文章を書く仕事だったということでしょうか。


中村:高校時代の友達と話をしたら、「あなたは作文の点数が高かったし、文章書く仕事がいいんじゃない?」と言われたんです。ちょうどその友達が広告代理店に勤めていたので、コピーライターという仕事を教えてもらいました。話を聞くと文章量も多くないし、私でもできそうだと思ったのです。


――ご友人が中村先生を文章の世界に導いたキーパーソンなのですね。


中村:仕事の仕方は通信教育で学んで面接を受けたのですが、プロダクションに一発で受かったんですよ。バブル景気が到来しつつあり、広告業界でコピーライターの需要が高まっていたためでしょうね。就職後、5〜6年はコピーライターを続けていました。


――順風満帆ですね。


中村:ところが、父の転勤に合わせて上京することになり、職場を離れることになったのです。再就職先を探していたら、運悪くコピーライターが余り始めたタイミングでした。糸井重里さんが大スターみたいな扱いで、コピーライターを目指す人も増えていたんですよ。そんなわけで再就職はかなわず、フリーランスになったのです。


■ゲーム雑誌の人気ライターに!


――中村先生はその後、ゲーム雑誌「コンプティーク」でライターデビューを果たします。デビューまでの経緯を教えていただけますでしょうか。


中村:もう一人、コピーライターをやっている友達がいて、その子はパソコンゲームのオタクでした。当時はパソコンゲームは主流ではありませんでしたが、勧められて買ったらはまってしまい、ゲームオタクになってしまいました。


――ゲームが縁で、「コンプティーク」に出合うわけですね。


中村:そうです。「コンプティーク」はゲームの攻略用に買っていましたが、ふと奥付を見たら「ライター募集」と告知を見つけたのです。商業用の文章なら自信があるし、ゲームでいち早く遊べて、お金までもらえる夢のような仕事だと思って応募したんです。


――そして、ライターとして採用されたわけですね。


中村:はい。初めはコピーライターとゲームライターの二足の草鞋だったのですが、昭和から平成に移り変わる頃にバブルが弾けて、まるでタイタニックのように広告業界が沈んでいきました。コピーライターは文章を自由に書けないし、イマイチな商品を持ち上げるのにも嫌気がさしていましたが、「コンプティーク」はのびのびと書けて楽しかったのです。31歳くらいで、ゲームライター1本で食べていくことを決めました。


――1本に絞るのは結構な博打だと思いますが、仕事の依頼はどうでしたか。


中村:当時はゲームライターが少なかったので、仕事は結構頼まれましたね。ゲームをプレイして、レビューをいろいろ書いていました。シューティングやアクション系、スポーツ系はできないので、RPGやアドベンチャー専門でしたけどね。


――80年代はゲーム雑誌が相次いで創刊され、業界に活気もあったと思いますが、編集部はどのような雰囲気だったのでしょうか。


中村:広告会社は今で言うリア充の集まりだったけれど、「コンプティーク」は見事にオタクばっかり(笑)。大学生のドルヲタがアイドルの記事を書いていましたし、アニメやゲームもそれぞれの凄く濃いオタクがいましたね。私は自分がオタクだと思っていたけれど、「コンプティーク」では一番薄い感じでした。あと、広告会社ではパソコンなんかやっている人はほとんどいなかったけれど、「コンプティーク」の編集部では普通に使いこなしていたのが驚きでした。世間とまったく異なる世界でしたね。


■執筆した記事から、あのキャラクターが誕生


――「コンプティーク」で印象的だった仕事はありますか。


中村:当時の「コンプティーク」には18禁の袋とじがあったのですが、それを担当させてほしいと言って、女性ライターで初の18禁ゲーム担当になったことかな(笑)。読者をいじり倒した文体で原稿を書いたらM心を刺激したのか、結構受けたんですよ。


――そして、中村先生の代表作『ゴクドーくん漫遊記』の主人公、ゴクドーくんの原点も「コンプティーク」にあるそうですね。どのような経緯で生まれたのでしょうか。


中村:極道くん(編集部注:誌面では漢字表記。なお、小説のタイトルの“ゴクドーくん”も同様に初期は漢字表記だった)は記事の中で使うために作ったキャラです。当時のRPGの攻略ルートって、複雑な分岐があるわけでなく一本道で、与えられたクエストをクリアしないと次の街に進めません。そのためには、例えば捕らわれた姫のことが嫌いでも助けなきゃいけない。つまり、性格がいい善人にならないと話が展開しないのです。ところが、『ルーンワース』というゲームは、なんと依頼を断っていいゲームだったんですよ(笑)。


――それは凄いですね(笑)。依頼を断りまくっても別ルートでクリアできると。


中村:そうなんです。異質なRPGでした。だったら正規ルートだけじゃなく、裏道の“悪人ルート”を通ったレビューを書こうという話になりました。悪人ルートの主人公に据えたのが極道くん。悪たれ小僧でギャグっぽい設定にしたら、読者に大ウケしたんですよ。私も極道くんの方が書いていて楽しかったですね。


■『ロードス島戦記』の歴史的ヒット


――極道くんの誕生をきっかけに、中村先生は小説を書き始めたのでしょうか。


中村:その前にも一段階あるんです。「コンプティーク」のテーブルトークRPGのライターだった水野良さんが、角川スニーカー文庫から『ロードス島戦記』という小説を出してすごく人気が出たんですよ。噂で水野さんが印税で家を建てたかとか聞いて、うらやましかったですね。私はお金持ちになりたいと思っていましたから(笑)。


――『ロードス島戦記』は後のライトノベルに影響を与え、現在活躍する作家でも影響を公言される方がたくさんいます。


中村:それまでのジュニア小説といえば学園ものだったり、格闘もの、スポーツ系などがメインでした。要は、「週刊少年ジャンプ」などの流行りの漫画と同じ路線でしたね。ところが、角川書店は『ロードス島戦記』がバカ売れしたおかげで、これからのジュニア小説はファンタジーだと気付いたのです。


――なぜ、ファンタジーがこのタイミングで受けたのでしょうか。


中村:80年代に『ドラゴンクエスト』のヒットがあったからだと思います。『ドラクエ』で得た教養があったから、子どもたちがファンタジーの世界に馴染めたんですよ。私は、『ドラクエ』と『ロードス島戦記』が日本にファンタジーを定着させた立役者だと思っています。


――水野さんがどれだけ稼いだのかは謎ですが(笑)、それだけ人気が出たのであれば一気に書き手が出現しそうですね。


中村:そう思いますよね。ところが、書き手がいなかったのです。学園ものやラブコメを書いていた人が、いきなりファンタジー小説は書けなかったんですよ。剣と魔法の世界のお約束……例えば、エルフやドワーフといった架空の種族の設定にも厳然たるルールがあるんですが、そういったファンタジーの基礎知識がないわけですからね。そこで、お約束を知っているゲーム雑誌のライターに、小説を書いてみないかと声がかかるわけです。私は水野さんに憧れていたし、お金も欲しかったから(笑)、やりますと手を挙げたんです。


■『ゴクドーくん』が記録的なヒット作に!


――かくして、中村先生は1991年にライトノベル作家としてデビューします。処女作『ゴクドーくん漫遊記』が大ヒットしました。


中村:『ゴクドーくん漫遊記』は人生で初めて書いた小説で、本当に素人だったのですが、書き出す前にかなり細かく設定を考えましたね。私が重視したのはパロディの精神です。『ドラクエ』や『ロードス島戦記』には、主人公が世界を救うという崇高な精神がありますよね。その二番煎じを書いても特徴的な物語は作れないと思ったので、ことごとく正義と反対の主人公にしようと考えました。その時思い浮かんだのが、「コンプティーク」で作った極道くんだったのです。


――その狙いが的中したのですね。


中村:発売して1ヶ月かそこらで、編集さんから「次も書いてね」と言われました。編集会議で決まったらしいです。アンケートや売上の結果を見てその後の方針を決めるのは、「週刊少年ジャンプ」のような漫画雑誌のマーケティングの手法が入っていたと思います。


――『ゴクドーくん』が売れていると実感したきっかけは何ですか。


中村:最初の巻が出たとき、編集部が売上の順位表を見せてくれたんですよ。6人くらい新刊を出した中で私はベスト3に入っていて、関西、特に大阪で売れていたようです。「ゴクドーくん」は大阪っぽいノリなのかなと思いましたね。本当に売れていると実感したのはサイン会です。夏休みの時期に、編集部は子どもを誘きよせるために作家のサイン会を企画し、各地を転々とさせていました。デビューしたての時はそんなに並んでいなかったので、本屋さんに申し訳ないと思ったけれど、1993年ぐらいかな、東京でサイン会をしたときにすっごい並んでいるのを見たんです。


――手元にある1巻を見てみたら、発売から数年で2桁の刷り部数です。売れていますね(笑)。


中村:印税が2〜3千万円くらい入ってきましたが、今まで見たこともない金額なわけですよ。だから、シャネルを買ったわけ(笑)。巻数を重ねていくと、3か月に1回締切があるペースでスケジュールが組まれました。90年代後半の全盛期は3社くらいを掛け持ちしていて、本当に忙しかったですね。


■当時のライトノベル業界事情


――売れっ子作家ならではの苦労といえますが、執筆中に中村先生が嬉しかった出来事はありますか。


中村:コミケに行ったときに、『ゴクドーくん』のエロ漫画を描いているサークルが結構あったことですかね。ルーベットとアーサが絡むとかね(笑)。作者だと名乗らずに買いましたよ。二次創作をされることを嫌う作家もいるけれど、私は嬉しかったんだよね。二次創作をするくらい、キャラクターに肩入れしてくれていると思ったから(笑)。


――当時、業界内でライバル視していた作家さんはいますか。


中村:特にライバルと意識した作家さんはいなかったですね。あかほりさとるさんがギャグ担当で、正統派のファンタジーでは水野良さんや友野詳さんがいて、みんな作風が違っていたので競合するという意識はなかったです。出版社のパーティーでたまに会う程度だったけれど、作家同士の仲も良かったと思いますよ。


――あと、90年代はまだライトノベルという言葉が一般的ではありませんでしたよね。広く使われるようになったのは、いつ頃なのでしょうか。


中村:ライトノベルという言葉の起源はわかりませんが、定着したのは少なくとも2000年前後だと思います。90年代のはじめは、「ヤングアダルト」「ジュニア小説」「ジュブナイル」などと呼ばれ、統一されていなかったと思いますね。『ゴクドーくん』を書いている頃、大塚英志さんが「キャラクター小説」という言葉を作ったのは覚えています。漫画みたいなキャラクターありきの小説という意味で、『ゴクドーくん』もその典型的だなと納得したんですよ。


■嬉しかったアニメ化はショックも大きかった


――『ゴクドーくん』はメディアミックスも積極的に行われました。


中村:私がデビューした頃からメディアミックスという言葉はありました。角川歴彦さんや佐藤辰雄さんが中心となり、角川書店の社内にメディアミックスの概念を取り入れたんですよ。小説が売れたらラジオドラマや漫画になって、究極はアニメ化……という、現在と変わらないビジネスを始めました。私もドラマCDが出て、アニメ化が決まったときは、めっちゃうれしかったんですよ。


――実際に放送されたアニメを見て、いかがでしたか。


中村:アニメが始まったら、思い出したくない嫌なことばっかり(笑)。原作が改変されてしまいました。何より脚本が気に入らなかったんです。原作者には当然発言権があるのですが、アニメはあくまでも別ジャンルの制作物で、意見を言わないように編集者が巧妙に動くんですよ。実際、脚本には口を出すなと言われたし、私の作品じゃないと割り切って文句を言わないようにしました。


――当時はアニメで原作が改変される例は珍しくありませんでしたが、クリエイターとしては辛いですよね……


中村:だから、アニメはほとんど見ませんでした(笑)。脚本を読むと、私はゴクドーくんにこんなこと言わせないな、というセリフばかりだったし。勝手にオリジナルキャラを作られたり、挙句の果てにゴクドーくんに人生論なんかを語らせたりして。あまりに原作を無視した改変ぶりに、カチンときたこともあります。


――しかしながら、今でこそライトノベル原作のアニメは多いですが、当時は『スレイヤーズ』などの例があったにせよ、少数でした。ゴクドーくんは声が石田彰さんで、ニアリーが三木眞一郎さんと、気合の入った声優陣です。出版社側も思い入れも深い作品だったように思えます。


中村:そうなんでしょうかね。石田くんといえば、私はアニメのラジオ番組に出演したこともあるのですが、おとなしい石田くんに対し、調子に乗ってイジりすぎてしまい、反省しています。今思えば、若くて純真な石田くんに、下ネタでセクハラ発言みたいなことまでしていました。このことは申し訳なかったと思っています。


■異世界転生もののラノベが多すぎる!?


――ライトノベル業界は空前の活況を呈していますが、中村先生が現在の業界をどのように思われますか。


中村:もうライトノベルに関わっていないので1人のオタク視点で見ているけれど、「なろう」(編集部注:自作の小説を投稿できるサイト「小説家になろう」のこと)系が登場したのが、業界にとって一つの分岐点になったと思います。特に、異世界転生ものは増えたよね。


――異世界転生もののほか、悪役令嬢ものも無数にありますね。


中村:でも、いきなりすごい能力を授けられて、女の子にモテモテでハーレム状態……という物語ばかりが量産されているのを見ると、オリジナリティってなんだろう、同じような小説書いて恥ずかしくないのかなと思っちゃうね。私がデビューしたときは、周りと違う、自分にしか書けないものを書こうと思っていたわけ。それなりにプライドもあったと思うし、これは俺にしか書けねーだろ、みたいな作品が強いと言われていましたからね。


――そんな中村先生から見ると、現在のライトノベル界は画一的なものに映ってしまうのでしょうか。


中村:これは相当前の話だけど、男性向けのエロ小説の審査員に抜擢されたことがあって、候補作を読んだら、全部同じ人が書いたんじゃないかと思うくらい似通っていたんです。同じことがラノベにも起きていると思います。異世界転生系は、ぜんぶ作者が同じじゃないかと思うくらい、さらに言えばラノベ脳を失った私ですら書けると思うくらいテンプレなんですよ。


■「なろう」のシステムは画期的だと思った


――辛辣な意見ですが、中村先生は「なろう」というサイト自体はどのように考えていますか。


中村:私は「なろう」ができたときには、すごいシステムだと思ったんです。素人がネットで自作の小説を発表した中から、優れた才能が見つかる可能性があるわけじゃないですか。私、ラノベの新人賞の審査員もやったことありますが、あれは本当に審査員がいい加減なんだよね。


――どういうことでしょうか。


中村:私は候補作を最後まで全部読んでいたけれど、ある大御所の作家は5〜6ページしか読まれずに採点しちゃっていたり。おいおい、この先面白くなるかもしれないじゃん、ちゃんと読んでよ、と思ったものです。そんな審査で選外とか言われたら新人がかわいそうだし、デビューのチャンスを奪われた人が無数にいたと思うんですよ。


――新人の運命を分ける新人賞で、杜撰な審査をされてはたまったものではないですね。


中村:対して、「なろう」はコミケと同じで素人の創作物が口コミで話題になって、出版社がスカウトするシステムでしょ。私はこれこそが新人発掘の理想だと思ったの。新人賞で審査員に見出されず、埋もれていた才能が正当に評価されるチャンスじゃないか、と期待していました。ところが蓋を開けてみたら、新人が周りの評価ばかり気にしてテンプレみたいな小説しか書かなくなってしまいました。とても残念です。


――イラストレーター志望者も“いいね”が欲しいあまり、流行りの絵柄に似せて描く新人が多いです。ネット社会の弊害といえるかもしれませんね。中村先生が作家志望の若手にアドバイスするとしたら、どんな言葉をかけたいですか。


中村:こんなババアに小言を言われたくないかもしれないけれど、素人のうちから売れることを考えて書いちゃダメです。周りの評価を気にするなんてもってのほか。自分にしか書けないものを書かなきゃ。その中から将来のヒット作が生まれるんですよ。素人は自由に書けるのが特権なんだから、思う存分、好きな小説を書いてほしいと思いますね。


■エッセイストに転向、ラノベを書かなくなった理由


――中村先生は90年代後半から『ショッピングの女王』などのエッセイでもヒットを飛ばし、現代を代表するエッセイストの1人だと思います。ファンタジーの世界とは真逆の文章を書き始めたきっかけはなんだったのでしょうか。


中村:エッセイも仕事をもらうまで書いたことがなかったんです。『だって、欲しいんだもん!―借金女王のビンボー日記』が初めてのエッセイ集ですが、信じられないけれど、これ、「ザ・スニーカー」で連載したんだよね(笑)。


――ゲーム雑誌にブランド品の買い物狂いのエッセイが載っていたのには、驚きです。


中村:『ゴクドーくん』が売れて、入ってきた印税で私はシャネル狂いになり、水道代が払えず、水道を止められていました。編集さんとご飯を食べていたときに、「私はこんなシャネルのスーツ着ているのに、水道止められているのよ」と話したら、「まじ!? それめっちゃおもしろいじゃん! エッセイを書いてみない?」と言われて、トントン拍子で書くことになったんです。「ザ・スニーカー」にそんな話を載せても誰もわかんないだろうなと思ったけれど、案外、子どもが面白がってくれたみたいです。


――エッセイの仕事が増加する一方で、ライトノベルは2001年6月に出た『ゴクドーくん漫遊記外伝 10 地獄に堕ちた亡者ども 上』が最後となりました。


中村:『ゴクドーくん』の本編はなんとか完結させたんですが、外伝は『地獄に堕ちた亡者ども』の上まで書いて、ついに下が出せなかった。『宇宙海賊ギル&ルーナ』も途中までしか書けませんでしたね……


――ライトノベルを書けなくなった理由は何だったのでしょうか。


中村:小説とエッセイでは脳味噌の使っている部分が違う気がするんですよ。エッセイは日常のことを面白く書けばいいわけだから、慣れちゃうと物語を作る努力をしなくなっちゃうというか……。それに90年代はゴクドーくんが勝手に動いて、話を進めてくれていたんです。キャラクターに魂が乗り移るって言うじゃない? そういう感覚ですね。ところが、2000年のころにはゴクドーくんが動かなくなっちゃった。


――読者や編集者からは、続きを催促されなかったのでしょうか。


中村:読者のみなさんからは、続きを書いて欲しいと手紙をいただきました。申し訳ない気持ちはあったけれど、しょうがないじゃん、という気持ちも強かったんですよね。だって、書けないんだもん。編集さんは半ば諦めている感じでしたね。


――それでも、何とか続きを書いてみようとしなかったのでしょうか。


中村:何年かに1回、書き出したことはありますが、ダメでしたね。ゴクドーくんが他人になりすぎていて、動いてくれないんだよね。30代の頃って、後先考えずに私自身も突っ走っていました。シャネルを買って、夜遊びしまくって、エネルギーが爆発していたから、『ゴクドーくん』も私以上に勢いよく突っ走れていたのかもしれない。でも、私も65歳です。もう、あの頃の勢いで文章は書けないなと思っています。


■一番楽しかったのは『ゴクドーくん』を書いていた時期


――私は子どもの頃、母が買ってきた「週刊文春」で『ショッピングの女王』を読んでルイ・ヴィトンというブランドを知ったくらいなので、中村先生のエッセイには思い入れがありますし、何度も笑わせていただきました。一方で、中村先生のライトノベルの仕事を知らない方が増えていることは、少し残念に思っています。


中村:私の黄金時代は、美容整形やホストのエッセイを書いていた頃だと言われることが多いけれど、一番楽しかったのは『ゴクドーくん』を書いていた時期なんですよ。読者とすごく距離が近くて、一緒に走っている実感がありました。締切の連続でしんどかったけれど、私が面白いと感じたことを書いたら、読者も面白いと言ってくれていたし。振り返ってみると、本当に楽しかったなと思います。


――中村先生にインタビューする前は、失礼ながら、ライトノベルの頃のことは忘れておられると思っていましたが、強い思いを語っていただけて感動しました。


中村:思えば私自身、読者と一緒に『ゴクドーくん』を楽しんで、盛り上がっていたんだと思います。メディアミックスの黎明期だった分、たくさん夢を見させてもらいました。ライトノベルには心からありがとうと言いたいですね。


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  • つーか「ブームとは真似と粗製乱造である」と私は思ってる。文句を言っても始まらんw そもそも人は「好きな物と似た作品を読みたがる」
    • イイネ!91
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