国境を越えて活躍するエンジニアにお話を伺う「Go Global!」シリーズ。今回はLeapMindでAI(人工知能)モデル開発に携わるLily Tiong(リリィ・ティオング)さんにお話を伺った。自然豊かなボルネオ島で生まれたリリーさんの幼いころの目標は「両親の注目の的になること」だった。聞き手は、アップルやディズニーなどの外資系企業でマーケティングを担当し、グローバルでのビジネス展開に深い知見を持つ阿部川“Go”久広。
●故郷の素晴らしさを小さいときは分からなかった
阿部川 “Go”久広(以降、阿部川) マレーシアのボルネオ島(カリマンタン島)のご出身ですね。ボルネオ島は、どんなところなのでしょうか。
Lily Tiong(リリィ・ティオング、以降リリィさん) 自然が豊富です。かなり古い時代の森林もありますし、世界最大級の洞窟もあります。幾つもの国立公園があり、オランウータンなどの希少な野生動物もたくさんいます。自然が好きな人にとっては世界有数のスポットです。ボルネオ島の人々は純粋なので、昔から自然と調和しながら生きてきたと思います。
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でも、小さいころは「なぜここは、こんなに不便なんだろう」と思っていました。近くの町へは車で行けますが、他の町には川(ボート)を使わないと行けません。もちろん、お店はありましたけれど、本屋はありませんでした。同じマレーシア出身なのに、大学に入ってできた友人たちはボルネオのことを知りませんでした。マレーシアは大きくは西と東に分かれていて、多くの人は西マレーシア出身です。ボルネオは東マレーシアですから、彼らにとってボルネオ島は別の世界みたいなものです。
阿部川 西と東でそんなに環境が違うのですね。
リリィさん ええ。大学での友人たちが私に聞いてくる質問は、面白いものばかりでしたよ。「木の上で生活しているのですか」とか「学校にはイノシシに乗って通うのですか」とか「故郷にはワニがたくさんいますか」などです(笑)。最初は丁寧に答えていたのですが、あまりにたくさんの人が似たような質問ばかりしてくるので最後はイライラしてきました(笑)。それでそのうち、「はい、木の上で生活していますし、エレベーターで乗り降りしているんです」と答えるようになってしまいました(笑)。
離れると故郷の良さに気付きます。木の上に住んでると言われたことはさすがにありませんが、雪国出身なので「外に置いとけばいいから、冷蔵庫はいらないんでしょう」と聞かれたことはあります(ちなみに外だと冷え過ぎて食材が傷むので冷蔵庫は必須)。雪下ろしは大変だし、近くにコンビニエンスストアもありませんから大変ですけど、故郷は離れがたいものだなと思います。
阿部川 それは面白いですね(笑)。不便さを感じていた幼いころ、例えば5〜6歳のころは何をしていましたか。自然の中で遊んでいたんでしょうか。
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リリィさん いえいえ、すごく、とっても内向的でした(笑)。人見知りが激しくて、知らない人と話をするのに苦労しました。とてもおとなしかったですし、兄弟も7人ととても多かったので両親には私が見えていなかったのではないでしょうか(笑)。少なくとも私はそう思っていました。そのころから勉強は好きだったのですが、その理由としては「両親の気を引きたかった」というのが大きかったです。ただ、勉強しても私が思うようには両親が気に掛けてくれず、一生懸命勉強してそのうち村の中で「勉強が一番できる子どもだ」といわれるようになって初めて両親が気付いてくれたと思っています(笑)。
阿部川 ご両親の気を引く目的で一生懸命勉強したのですね。教科では何が好きでしたか。
リリィさん 科学と歴史が好きでした。本を読むのも好きでしたが、私たちの町には書店がなかったのでなかなか大変でした。図書館もあるにはあるのですが、小さくそれほど本がなかったんですよね。
阿部川 では学校での勉強が中心だったのですね。マレーシアの教育システムを教えてもらえますか。
リリィさん 小学校は6年間で、中学校は7年間です。4〜6年の時に、科学(理系)コースか、文学(文系)コースか決めます。理系は、数学、物理学、化学、生物学、応用エンジニア数学などです。「高等学校」(upper secondary school)で勉強する期間が他の国に比べて長いため、20歳で大学に入学します。
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阿部川 リリィさんが入学したマレーシアサイエンス大学(University of Science,Malaysia)はどこにあるのですか。
リリィさん マレーシアサイエンス大学には3つの主要なキャンパスがあって、メインのキャンパスはペナン島、医学部は東側のケランタン州、私が専攻した電子工学部のキャンパスはメインアイランドのペナン州にあります。マレーシアの中でも3本の指に入る大きな大学だと思います。卒業後は大学院に進学し、修士課程を修了しました。
阿部川 一番興味を持った学科や学問領域は何でしたか。
リリィさん マイクロプロセッサと、デジタルエレクトロニクスの研究です。
●新聞の切り抜きで作った“コンピュータ”に込めた願い
阿部川 おっと、この質問をもっと前にしておくべきでした。最初に触ったPCは何で、いつごろでしたか。
リリィさん 「いつ」に関しては、ぜひお話ししたいことがあります。1995年のことです。私は13歳でした。
当時マレーシアでは「PCを持っている人」が少数派でした。私も新聞や広告でPCがどのようなものか知ってはいましたが、実物を見たことはありませんでした。兄弟が多かったので家にはそれを買う余裕などとてもありません。当時、PC1台が3000〜4000リンギット(2023年2月現在のレートだと1リンギットは約30円なのでおよそ10万円だが、当時はもっと高額だったはず)はしたと思います。ただ私はとても欲しかったので、新聞などのPCの広告を片っ端から切り抜いて集めていました。確かNECのものだったと思います
その広告を見ながら、3つの願い事を唱えていました。今でもよく覚えています。
1つ目は「自分のPCを持てるようになる」。2つ目は「いつか必ず“コンピュータ”の中身を全て理解できるようになる」、3つ目は「いつか必ず“コンピュータ”そのものを、私が進化させてみせる」ということです。
切り抜きのPCを見ながら、リリィさんはどんな気持ちで3つの願いを口にしたのでしょうか。勝手な想像ですが、お金がなくて悔しいといったネガティブな思いではなく、勉強して世界に出てもっともっと多くのことを学びたいというポジティブな思いだったのでしょう。だからきっと、この3つはリリィさんにとって「誰かが何とかしてくれる」という“願い”じゃなくて「自分がその道を切り開く」という“誓い”だったのではないかと私は思います。
今現在、PCを持てるようになりましたし、少しだけかもしれませんが普通の人よりは“コンピュータ”のことを分かるようになったと思います。もちろん“コンピュータ”は常に進化していますし、さまざまな種類があり、全てを完璧に知っているとは言えませんが、ある程度は分かるようになりました。3つ目の願いに関しては、ささやかではありますが、“コンピュータ”の開発に貢献できていると思っています。
”コンピュータ”はとても大きなシステムに日々成長していますし、多くの種類の知識が必要になっていますから、その全てが分かるとはいきません。本当に「コンマゼロゼロゼロパーセント」くらいかもしれませんが、それくらいは貢献できているのではないかと思います。ただ、まだまだこれからです。第3の目的に向かってどんどん自分を成長させて、臨むつもりです。私の人生は“コンピュータ”中心で進んできました。いつでも“コンピュータ”のことを考えて大きくなってきました。
阿部川 その広告の切り抜きのスクラップブック、今でもお持ちですか。
リリィさん 恐らく実家のどこかにあると思います。
阿部川 それ、見たいなあ〜!
リリィさん (笑)。
●日本に来るまで、相棒は「自分ブランドのPC」
阿部川 “コンピュータ”の実物に出会ったのは、いつですか。
リリィさん 21歳のときです。13歳から数えて8年後にやっと、です。当時は大学に進学するために学費ローンを組んでいる身でしたので、大学にある共用のものを最初は使っていました。
ただ、大学2年になると勉強が難しくなり、PCを使って学習しなければならなかったので自分のものを買うことに決めました。学生ですしお金もなかったので、しっかりしたブランドのPCを買うことはできません。ですからなるべく安価に済まそうと、モニターやマザーボード、CPU、キーボード、マウスなどの部品を別々に買ってきて、「自分ブランドのPC」を組み立てました。
阿部川 自前で“コンピュータ”を作ったわけですね。
リリィさん はい。お金がなかったのでそうやって工夫する必要がありました。ただ、処理速度などのパフォーマンスや互換性は妥協しませんでした。PCを自作した経験は、結果的に“コンピュータ”そのものについて学ぶ大きな手助けになりました。ソフトウェアのインストールを試行錯誤し、アップグレードをどうするか、メモリやHDDが壊れないようにうまく稼働させるにはどうするかなどたくさんのことを工夫し、そこから多くを学びました。
阿部川 昔の大学のコンピュータクラブみたいですね。自分たちでパーツを集めて、自分たちで作って、壊れたら自分たちで直して。実践的な学びだったのですね。当然、インターネットにもつなげましたよね?
リリィさん はい、そうです。
阿部川 他の学生に売ればよかったのに。
リリィさん (笑)。
阿部川 だって、リリィさんがやっていたことって、マイケル・デルさんがDell Technologiesでやったことと同じですよ! いやはや素晴らしい。
いつまでそのPCを使っていたのですか。
リリィさん 日本に来たときまでだったと思います。奨学金を得て日本で勉強できるようになって、PCを購入する費用を捻出できた2010年にソニーの「VAIO」に買い換えました。でも、それまではずっと自作PCを使ってました。
私も最初のPCはVAIOでした! メモリースティックしか外部記憶媒体がなく、大学のレポート出力に苦労しました。ただ、そのことがあってからスペックだけでなく外部拡張についても考えるようになったので、何事も経験なのですよね。きっとリリィさんも自作PCで試行錯誤する中でたくさんの失敗があったのでしょう。「自分でやってみる」って大切ですね。
阿部川 それはスゴい! よっぽどハイスペックのものを作ったのですね。
リリィさん いえ、そんなことはないです(笑)。
●FPGAの企業でエンジニアデビュー
阿部川 大学卒業後は、マレーシアの企業に就職したのですね。
リリィさん そうです。ソフトウェアエンジニアとして、アルテラに入りました。アルテラは、FPGA(Field Programming Gate Array)の企業で、開発者がFPGAを使うための製品を扱っていて、その開発やエンジニアリングに1年と少し携わっていました(なお、2015年に買収され、現在はIntelの一部門となっている)。その後、JICA(国際協力機構)の奨学生として、東京工業大学の博士課程の後期に入学しました。
阿部川 博士課程の専門は何ですか。
リリィさん マイクロプロセッサのマルチプロセッシングが修士までの専門で、博士課程では集積システムを研究しました。「Smart IO」というプロジェクトで、「Linux OS」のシステム間のコミュニケーションを2014年まで担当しました。
しかしプロジェクトの人員が少なく、予算も限られていたので、担当の教授が研究分野やFPGAでのプログラミングなどの経験が生かせる就職先をあっせんしてくれて、一緒にプロジェクトを進めていたALABという企業に就職しました。
たくさんの兄弟に囲まれ、引っ込み思案だったリリィさんは両親の気を引くため勉強に打ち込む。それはやがて世界に飛び出すためのパスポートとなった。後編はLeapMindでのお仕事と「エンジニア」という仕事に掛けるリリィさんの思いについて伺う。
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