平良海馬(埼玉西武)の少年時代|小さなプロ野球選手の履歴書

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2023年04月20日 18:54  ベースボールキング

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WBCでは吉田選手、近藤選手、甲斐選手、宮城投手など、体の小さな選手達が活躍を見せてくれましたが、そんな身体の小さな選手たちの野球ヒストリーを辿る『小さなプロ野球選手の履歴書』のという本があります。
この本のなかから、埼玉西武・平良海馬投手(173cm)を少年野球時代に指導した高良真助さんにお話伺った一部を抜粋して紹介します。



【体が小さいだけ〞で評価しない 将来を見据え、その子の良さを大人が責任を持って探す】
■動体視力の高い5年生キャッチャー
周囲にはプロに行けるとはまったく思われていたなかった平良少年だが、ソフトボール投げでは65メートルを投げて学校で一番だったというから、少なからずその片鱗は覗かせていたとも言えなくはない。
「でも当時の石垣島には、80メートルくらい投げるもっと肩の強い子もたくさんいたんですよ。だから海馬の肩の強さは『まぁまぁ』という感じでした」
「それに……」と高良さんは付け加える。
「海馬のひとつ上に新里光平(八重山高校‐青森大学‐エナジック硬式野球部)という身長が165センチくらいあって、7イニングで三振を19個をとったりするような、いわゆる『スーパー小学生』と言われるような子がいて、その子のほうが目立っていましたね。海馬は野球をよく知っていましたけど、そんなに目立つわけではなくて、野球の上手さでいうと普通よりちょっと上という感じでした」

島の子どもたちの遊びといえば、1年中海で泳ぐか釣りをすることが多いが、電車が通っていないため移動はいつも徒歩か自転車となる。
「身長はぼくも含めてみんな小さいんですよ。でもそんな環境で育ってきているせいか下半身がしっかりしていたり、肩が強かったり、足が速かったり、という子が多いんです。海馬も当時の身長は150センチくらいで全然大きくなくて、でも体型はぽっちゃりでがっちりしていて、そういう子の代表例のような気がしますね。足は遅かったですけどね(笑)」

平良少年のポジションはキャッチャー。しかし、体格や「まぁまぁな肩」を理由にキャッチャーになったわけでない。
「動体視力が良かったんです。だからキャッチングにも長けていて、新里の小学生離れしたボールを捕れるのはチームに海馬のみ。5年生の時からキャッチャーをしていました。盗塁も結構刺していましたね。右投げ左打ちでしたけど、動体視力が良かったのでバッティングも上手でしたよ」

■ノーコンでピッチャー失格
ピッチャー新里がバシバシ三振を取る。ワイルドピッチになりそうなボールも動体視力の優れたキャッチャー平良少年がしっかり止めた。普通であれば三振振り逃げになるようなケースも平良少年が何度も防いだ。二人の活躍もあり地区大会はすべて優勝。しかし初めて出場した県大会では春、夏共に初戦で敗れた。
「春も夏も1点差で負けました。でも、うちに勝ったチームがどちらもそのまま優勝しました」というから、当時のチームの強さが窺える。

そんなチームは当時、月曜以外の平日にも練習をしていたという。
「大会前は月曜も練習をしていました。あの頃は石垣島を勝ち上がることがやっとのチームで、全国大会を目指せるレベルではありませんでした。だから怒鳴ってまで練習をやるようなこともなく、毎日練習をしてはいましたけど厳しさは全然なくて、良くも悪くも遊びの延長で楽しくやっていました」

それでも海馬少年が6年の夏には県大会でベスト8まで勝ち進んだ。
「その時の県大会が石垣島開催だったので、島で3位でしたけど開催枠として出場することができたんです。海馬は4番でキャッチャー、70メートルを越すスタンドインのホームランを二打席連続で打ったのを覚えています」

聞いている限りでは海馬少年も十分に『スーパー小学生』だったようにも思えるが、それでも打者として大成する未来は想像できなかったという。
「うーん、やっぱり体が大きいわけでもないですし、足が速くなかったですからね。打つほうで将来プロというのも想像できなかったですね」

ならばピッチャーとしての才能の片鱗は窺えたのだろうか?
「ボールは速かったですけど、10球投げたら8球はボールという感じでしたから、ピッチャーはさせられなかったですね(笑)。本人はもしかしたらやりたかったのかもしれないですけど、そんなに意思表示をするタイプでもなかったですから。試合ではキャッチャー、たまにサードをやったり、という感じでした」


■平良少年にマッチしていた指導ポリシー


当時の平良少年は高良さんから見てどんな小学生だったのだろうか?
「ユーモアがあるとか、おしゃべりが上手だということはなくて、いつもブスッとしている感じで、テレビに映るマウンド上の海馬そのままの子でしたね(笑)。でも、塾があるとか体調が悪いとか、たまに練習を休む子もいるなかで、海馬が練習を休んだ記憶はないですね。野球が楽しかったんでしょうね、1年中野球をやっていた印象があります」

平良少年のエピソードは続く。
「キャッチャーなんですけど、練習試合だとパスボールを全力で捕りにいかないんですよ(笑)。ベンチから『捕りにいけよ!』と言っても、不貞腐れたような感じで、ランナーがいてもダラダラと捕りにいく。凡打した時も一塁まで全力で走らず、ベンチにも歩いて帰ってきたり……態度にすぐに出ていましたね。『もうやる気スイッチが切れました』みたいな態度をとることが多々ありました(笑)」

そのような態度をとると、監督、コーチはどうしていたのだろうか?
「今はプロで活躍しているから笑い話にできるんですけど」と断ってこう話す。
「言っても聞かなかったですね(笑)。そんな態度でもまかり通るようなチーム環境ではありましたから、我々もどこかで『しょうがないな』という部分もありました。でもさすがにこちらにも限界があるので『お前もうダメだ! もう(野球を)やめれ!』と言うこともありました。でも、次の日の練習には何事もなかったように来るんですよね(笑)」

プロで成功している今があるから、これまでのプロセスが正しかったとするならば、平良少年の態度が悪くても「しょうがないな」とチームが許容したことは間違いではなかった。
「そうであったらいいですけどね」と謙遜するが、高良さんは「少年野球で勝つこと、上手くすることは二番、三番目。一番は野球を好きになってもらって、中学でも続けてもらうこと」をポリシーに少年野球の指導にあたっている。

こんな指導者に巡り会えたことが、後に「少年野球はやらされている感がなくて楽しかった」と振り返ることのできる、プロ野球選手・平良海馬を生んだのだ。
(取材:永松欣也/写真:高良氏提供)

*平良投手の恩師インタビュー完全版は書籍でお読み頂けます。

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