大川小・津波訴訟、2人だけの弁護団でも勝てた理由 吉岡和弘弁護士インタビュー

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2023年05月25日 10:01  弁護士ドットコム

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映画「生きる〜大川小学校 津波裁判を闘った人たち」は、東日本大震災のとき、宮城県石巻市の大川小学校でこどもを亡くした遺族たちの記録だ。今年2月の公開以来、観客は1万人を超え、異例のロングランが続いている。


【関連記事:大川小・津波訴訟、行政の「組織的過失」にたどり着いた意義 吉岡和弘弁護士インタビュー】



裁判までの過程で何があり、裁判をどう闘い、そして勝ち取った判決がもつ意味とは――。映画化の発案者でもある吉岡和弘弁護士へのインタビューを2回にわたってお伝えする。(ライター・諸永裕司)



●200時間にも及ぶ映像をもとに編集、事実を淡々と伝える

――映画が伝えるメッセージが静かに広がっていますね。



大川小学校では、児童108人のうち74人(行方不明の4人含む)と10人の先生が犠牲になりました。海から3.7キロ離れ、安全なはずの学校でなぜ、こどもたちは最期を迎えなければならなかったのか。その理由を知りたいと活動してきた遺族たちの10年間の記録です。遺族のひとりが家庭用のビデオカメラで撮りためていた200時間にも及ぶ映像をもとに編集し、ナレーションも音楽もなく、事実を淡々と伝える作品です。



――裁判までの過程も描かれていますね。



遺族のみなさんは学校や教育委員会などに聞いても真相はわからず、第三者による検証委員会でも明らかにならなかった。そこで、裁判をすれば、と期待したのです。



でも、裁判になれば、失われた命に値段をつけなければなりません。しかも、大川小学校のような小さな学校で、距離が近かった先生たちを敵に回すことになる。遺族だって、裁判を起こしたくて起こしたわけではなかったのです。





●勝訴しても、疑問はなにも解消されないまま

――仙台地裁でも仙台高裁でも勝訴して、2019年に最高裁で確定しました。



裁判では、津波が来るのをいつ予見したかという「予見可能性」と、被害を避けられたかという「結果回避可能性」が焦点になりました。



1審判決は、津波警報が発せられたときに予見できたとして、現場の先生たちの「現場過失」を認めました。2審判決では、地震が起きる1年前には津波を想定した準備をしておくべきだったのに怠っていたとして、学校や市教委、石巻市による「組織的過失」を認めました。



組織的過失を認めたのは画期的で、今後の日本の防災にも大きな意味を持つものとなりました。でも、遺族からすれば、裁判では知りたかった疑問はなにも解消されないまま終わってしまった。そのギャップが気になっていました。



――裁判では必ずしも真相が明らかになるとは限らないということですね。



そういう思いを遺族が抱いていることを、なにかの形で記録しておく必要があるんじゃないかと考えたんです。そのツールとして映画を思いついて。



監督をした寺田和弘さんは映像制作会社のテレビディレクターですが、大川小の裁判に関心を持たれていたので聞いたところ、金をかけずにつくろうと思えばつくれる、と。そこでクラウドファンディングをやったら、目標を超える460万円が集まりました。



――いつから撮りはじめたのですか。



最高裁で石巻市側の上告が棄却され、高裁の判決が確定したあとだから、2019年の暮れごろですかね。



ただ、遺族たちは当初、消極的だったんです。というのも、こども1人に1億円の賠償金が払われることになったこともあって、「石巻の予算から分捕っていくのか」とか「火をつけるぞ」とか、ずいぶん脅迫されたりしたもんだから、もう懲り懲りだと。それに、裁判も終わっているので、寺田監督がインタビューに行っても、いまひとつ切迫感がない。そのうちに、遺族の只野英昭さんが撮りためていた膨大な映像があることがわかって、ようやく動きはじめたんです。



●遺族自身が「代理人弁護士」の役割を担った

――そもそも、吉岡さんが裁判を引き受けたのは、どういう経緯からですか。



震災が起きた2011年の12月30日に、3人の遺族が訪ねてきたんです。このとき、僕は断ろうと思っていました。正直、勝てるわけがないと。大川小学校のある地区全体で400人以上が亡くなっていて、「千年に一度の震災」とも言われ、津波をめぐって争われた裁判でも、ことごとく原告が負けていますしね。



でも、現場だけは見てみようと思って。大川小で裏山に案内してもらい、後ろを振り返ったら、すぐそこに校庭があった。山の中腹にはコンクリートで固めた三和土もあって。あれを見たとき、これは人災だなと。そして、これは誰かがやらなければならないのだと覚悟しました。





――54家族のうち19家族が原告になりました。大弁護団を組まずに、弁護士2人だけで裁判に挑んだのはどうしてですか。



どう裁判に臨むかは、弁護士を長くやってきたなかでの勘のようなものがありまして。確かに、多くの弁護士が議論すると多角的な見方ができるし、いい智恵も出る。反面、大弁護団を組むと、弁護士一人ひとりの取り組みに濃淡がでる。また、方針をめぐって意見が分かれると、平均的なところに落ち着かざるを得なくなっちゃうこともあって。  



だから、弁護士は、国賠(国家賠償訴訟)に強く、かつて豊田商事事件で組んだ斎藤雅弘さんと2人だけ。その代わり、遺族自身がこどもの事実上の「代理人弁護士」として戦う、本人訴訟のようなスタンスでやることにしたんです。



――初めての試みだったんですか。



そうですね。まわりからは批判的な目で見られたかもしれませんが。



ただ、津波ですべての証拠が流されて、現場の再現さえ難しい。証人を探すといっても、土地とつながりのある当事者でなければ難しい。そうした事情がありました。



そこで、まず遺族に伝えたのは、裁判っていうのは証拠に基づいて事実関係を認定するから、証拠がなきゃ駄目なんだと。お母さんなども含めて、みんなで市役所へ行ってもらって、「市政だより」のバックナンバーを全部借りて、そのなかから「津波」という文字をピックアップしてもらった。そのうち、証拠として使えたのは3通ぐらいかな。でも、それによって、石巻市はこの地域に津波がくることを早い時期から知っていたじゃないか、と主張できました。



なにより僕が意図していたのは、そういうべらぼうな労力を使っても、証拠として使えるものはこれっぽっちしかない。裁判を戦うというのはどういうことなのかを知ってほしかったんです。たとえ空振りに終わっても、父ちゃん母ちゃんは息子や娘のために、できることやったっていう気持ちにはなれる。





●証拠集めも証人探しも、遺族たちが自ら動いた

弁護士だと、仮に有力な証人が見つかっても、名刺を出した瞬間にあとずさりされるわけです。都会じゃないから、余計に。そうならないように、まずは知り合いに「話を聞かせくれ」と言って入っていく。遺族がいけば、必死に探してるんだねって、喋ってくれることもある。



たとえば、あの日、学校へ孫を迎えにいったおじいさんによると、一緒に行ったおばあさんが校庭にいた孫を連れて戻ってきたものの、学校の外で待っていたおじいさんの車には乗らず、そのまま孫と一緒に(三角地帯のほうへ)歩いていった。そこへ津波が襲ってきた、というのです。



こどもたちは校庭を出て、川に近いところにある「三角地帯」へ向かおうとして津波にのまれたことが、こうして確かめられたわけです。とても作り話で言える話じゃないし、ほかの状況とも一致していました。



そのおじいさんは、ある遺族の知り合いで。もし弁護士だけだったら、巡り会えなかったでしょうね。ほかにも、そんな証言をいくつも聞くことができたんです。



――映画では、校庭から裏山へ上がるまでの時間を測る場面が出てきます。



いくら「校庭から裏山まではすぐに行けた」と主張したって説得力がないんです。58秒だった、とか客観的な事実を裁判官に示すことで証拠になる。あのときは、遺族のお父さんが「児童役」を務めて、何度も駆け上がってくれました。亡くなったこどもにしてあげられる最後のことだからと。





また、遺族のなかに、「こどもが入学したころ、裏山に階段を作ってくれってお願いしたことがある」っていう母親がいたんです。あれから数年たつのに学校は何もしなかった、裁判で問題にしてほしいって。



あるいは、学校は毎年度の初めに教育計画っていう資料をつくり、そこには津波避難マニュアルがある、と教えてくれた人もいました。大川小の津波避難マニュアルには第1次避難場所は「校庭」、第2次避難は「近くの広場か公園」と書かれているけど、大川小の近くには広場も公園もないんですよ、と。



――裁判では毎回、遺族の陳述書が読み上げられましたね。



遺族の人たちには、親としてこどもに最後の言葉をかける、あるいは、こどもの言いたかったことを代わりに伝えてみないか、ともちかけました。鉛筆を握ることさえ気が進まないっていう人もいるかもしれないけど、美しい文章をとは思わないで書いてみてくれと。しかも、肉筆で。裁判官というのは誤字や脱字、繋がらない文章をむしろ喜ぶから、安心して書いてみてほしいって。そうすると、涙なくては読めないような、我が子に対する思いをびっしりと書いてきて。基本的には手を入れずに、そのまま裁判所に出しました。



結果として、こどもへの弔辞であり、子どもに伝える愛の表現というようなものができあがったわけです。もし若手の弁護士に聞き取りをさせて陳述書をつくったら、ありふれた、整ったものにしかならなかったでしょうね。



――証拠を集め、陳述書を書くということが喪の作業にもなったんですね。ところで、提訴したのは、震災から3年後の2014年3月10日でした。なにか狙いがあったんですか。



不法行為の場合、時効は3年。時効ギリギリまで裁判を起こさなかったのは、戦略的な判断があったからでした。時間がかかったんではなく、時間をかけたんです。



※インタビュー記事の2回目「大川小・津波訴訟、行政の『組織的過失』にたどり着いた意義」に続く



【映画「生きる 大川小学校津波裁判を闘った人たち」】 ポレポレ東中野、シネマ・チュプキ・タバタ(東京)、シアターキノ(北海道)、イオンシネマ石巻(宮城)など全国で公開中





【参考書籍】 『水底を掬う 大川小学校津波被災事件に学ぶ』(斎藤雅弘、吉岡和弘、河上正二著、信山社) 『子どもたちの命と生きる 大川小学校津波事故を見つめて』(飯考行編著、信山社)  


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  • 「先生の言う事を聞いていたのに」まさにその通りです。大津波警報が出ているのに児童を校庭にとどまらせて、山の方に逃げようとした児童も連れ戻した。
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