坂本龍一 追悼連載vol.8:高橋悠治を通じた現代音楽との出会い。西洋音楽に感じた限界とYMOへの加入

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2023年06月09日 17:11  CINRA.NET

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Text by 山元翔一
Text by 柿沼敏江

坂本龍一が発表した数々の音楽作品を紐解く連載「追悼・坂本龍一:わたしたちが聴いた音楽とその時代」(記事一覧はこちら)。第8回の書き手は、『〈無調〉の誕生: ドミナントなき時代の音楽のゆくえ』(2020年、音楽之友社)の著者で、ジョン・ケージの名著『サイレンス』(1996年、水声社)の翻訳でも知られる音楽学者の柿沼敏江。「坂本龍一が高橋悠治から受け取ったもの」をテーマに、現代音楽との関わりから坂本龍一の音楽を見つめた。

坂本龍一のジャンルを超えた多彩な活動のなかに折り重なって見えてくるのは、一人の人物とその周辺の音楽家たちである。

坂本は小学校5年の頃に、母に連れられて草月会館にコンサートを聴きに行き、大きな感銘を受けたと述べている。コンサートが終わると彼はその音楽家のファンになっていた(※1)。17歳のあるとき、父親の知人を介して一人でその人に会いに行った。そしてその人は、坂本がいちばん尊敬する作曲家となった。その人とは当時、前衛音楽の最先端で活躍していた作曲家の高橋悠治である(※2)。

高橋悠治および高橋と関係の深い音楽家やアーティストたちの存在は、生涯を通じて坂本の活動のバックグラウンドとなっていったように思われる(※3)。それはジョン・ケージをはじめとするアメリカ実験音楽、ミニマル・ミュージック、エリック・サティの音楽であり、また高橋を通じて知りあったナム・ジュン・パイクの活動である。

坂本龍一(さかもと りゅういち) / Photo by zakkubalan ©2022 Kab Inc.
1952年東京生まれ。1978年に『千のナイフ』でソロデビュー。同年、Yellow Magic Orchestra(YMO)を結成。散開後も多方面で活躍。2014年7月、中咽頭がんの罹患を発表したが、2015年、山田洋次監督作品『母と暮せば』とアレハンドロ・G・イニャリトゥ監督作品『レヴェナント:蘇えりし者』の音楽制作で復帰を果した。2017年春には8年ぶりとなるソロアルバム『async』を発表。2023年3月28日、逝去。同年1月17日、71歳の誕生日にリリースされたアルバム『12』が遺作となった。

高橋悠治と坂本龍一はともにピアノを弾く作曲家である。しかも二人とも即興演奏に長けている。共通点はまだある。ともに父親が編集者だった。

高橋の父、均は最先端の音楽も扱うような音楽雑誌『音楽研究』(1923年創刊)の編集者であった。坂本の父、一亀は、文芸編集者として埴谷雄高、高橋和巳、小田実、三島由紀夫、丸谷才一らと仕事をした。高橋自身も雑誌『トランソニック』(※)を編集し、坂本は自ら出版社「本本堂」を起こして本を出版した。そのなかには高橋との共著『長電話』(1984年)が含まれている。

坂本の作曲家としてのデビュー作ともいえるのが、原田力男プライベートコンサート第2回『高橋アキの夕べ 六人の若い作曲家のピアノへの捧げもの』で演奏された“分散・境界・砂”(1976年、高橋アキ初演)である(※1)。高橋アキは高橋悠治の妹である。

このピアノ曲では、ピアノの弦を直接指で奏で、またところどころで言葉を発するように指示されている。ヘンリー・カウエルが1920年代に考案し弟子のジョン・ケージも使っていた内部奏法(※2)も、またピアニストの発声も新しい手法ではない。しかし、冒頭に哲学者ミシェル・フーコーの言葉が掲げられたこの作品からは、若き作曲家の熱い意気込みが感じられる(※3)。

坂本の最初のアルバム『千のナイフ』(1978年)に収められた“GRASSHOPPERS”の演奏に高橋悠治はピアノで参加した。ポップでも現代音楽でもないこの曲は、当時の坂本の立ち位置を教えてくれる。

同曲は高橋が手がけたピアノ編曲も発表されているが、1984年に神奈川県立音楽堂の『神奈川芸術祭 第326回音楽鑑賞の夕べ 現代作曲家シリーズ3 坂本龍一の音楽』(※1)のために新たな編曲が行なわれ(※2)、高橋アキと坂本との3人で演奏された(※3)。ダンスリーとのアルバム『エンド・オブ・エイシア』(1983年)でも古楽器用に編曲されており、また違ったテイストを楽しむことができる。

現代音楽は1970年をピークとして力を失い、衰退の気配を見せていた。高橋悠治は1978年に水牛楽団を結成し、アジアの抵抗歌を政治集会で演奏するようになった。同じ年に坂本はYMOに参加する。つまりともに同時期に「現代音楽」から距離を置くようになっていった。

坂本は学生時代、民族音楽と電子音楽しか今後の道はないと考えていた(※)。当時はNHK電子音楽スタジオの活動がピークを迎えていた時代で、坂本も藝大の学生としてスタジオを見学した可能性もあるが、彼はむしろYMOに加わって、テクノポップという形で電子音楽に関わるようになった。

筆者は1980年頃にYMOのライブコンサートを聴きに行ったが、そこに繰り広げられていたのは、まさに電子音楽の世界だった。ステージには最新の機材が山のように積まれていて、奏者たちはその間を縫って動きながら、つまみを回し、レバーを上げ下げしていた。

高橋幸宏はドラムセットを叩いていたが、坂本と細野晴臣の二人は、まるで電子技師のように機材を操作し続けていたのだった。そうした身体性の欠如を補っていたのが、バックで歌い、飛び跳ねて踊っていた矢野顕子だった。坂本は仲間とともに自身の電子音楽をこうした形で実現したのだった。

当時の時代状況を考えると、坂本は現代音楽からポピュラーに乗り換えたというよりも、高橋悠治と同じように現代の作曲家として行くべき道を歩んだのである。

そのまま「現代音楽」の狭い世界に居続けることは、彼の性分に合ってはいなかった。YMO参加はある意味で必然だったともいえる。またポピュラー的なスタイルで曲を書くことは、現在では「現代音楽」のひとつの傾向になっており、振り返って見れば、坂本はその先駆だったともいえる。

YMO散開後の1984年、ナム・ジュン・パイク展が都内で開催された際に、パイクの『タイム・コラージュ』出版記念ライブパフォーマンスが原宿ピテカントロプス・エレクトスで行なわれた。坂本も高橋悠治とともにパフォーマンスに参加した。

同年、坂本はパイクとともに映像作品『All Star Video』を制作し、また1986年には東京、ソウル、ニューヨークを衛星でつないだパイクの『バイ・バイ・キップリング』に出演することになる。パイクとの共同作業の経験は、次のステージを準備することになった。

1999年のオペラ『LIFE』が坂本にとって、ひとつのターニングポイントになる。21世紀を前にして、20世紀の音楽史を振り返るこの壮大なプロジェクトの要請に、十分に応えられる知識と能力を坂本は備えていた。ここでダムタイプの高谷史郎と出会ったことをきっかけとして、坂本は音楽よりも「音」へと傾いていく。

音を聴くことへの志向は、最後の3つのアルバム『out of noise』『async』『12』において強まっていった。グリーンランドの氷河の音や水の音、バシェの音響彫刻(※1)の音などを組み入れた近年の傾向ついて、「やっと10代で知り会ったジョン・ケージの思想に触れた」(※2)と坂本は語っている。

いわば原点に戻った坂本は、最後にダムタイプのメンバーとして『2022: remap』の制作に携わった(※)。そこには世界各地から集められた環境音(ケージを想起させる)を含め、多様な音の緻密な構成を聴き取ることができる。それは洗練された優れた耳を持った音楽家でなくしては、つくることのできない世界である。

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  • YMO後、教授も細野さんもアンビエントを手掛けた。最後の「12」も。アンビエント自体が現代音楽だろう。だから離れたとかそういう「括り」自体が無意味かと。
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