オリックス・水本勝己ヘッド [写真:北野正樹]◆ 猛牛ストーリー【第78回:水本勝己ヘッドコーチ】
2023年シーズンにリーグ3連覇、2年連続の日本一を目指すオリックス。監督・コーチ、選手、スタッフらの思いを、「猛牛ストーリー」として随時紹介していきます。
第78回は、水本勝己ヘッドコーチ(54)です。16日に病気のために65歳で亡くなった元広島カープのエース・北別府学さんは、2年で現役を引退し、ブルペン捕手に転じた水本ヘッドにとって、プロフェッショナルとは何かを教えてくれた大恩人。「ペイ(北別府)さんの言葉が、今になって生きています。これから精一杯、野球界のために努力したいと思います」と誓いました。
◆ 大エースとブルペン捕手
「ほんとにしんどかったと思います」
交流戦後再開前のチーム練習のため20日午前、京セラドーム大阪に姿を見せた水本ヘッドが声を絞り出した。
チーム休養日の19日、広島市内で営まれた北別府さんの葬儀に、OBとして参列した。
2020年1月に北別府さんが成人T細胞白血病を公表後、球団関係者らを通じて経過を聞いてきたが、入退院を繰り返すなど苦しい闘病生活を知るだけに、ゆっくりと休んでほしいという思いが強いのだろう。
水本ヘッドは、岡山県出身。倉敷工時代は強打の捕手として夏の甲子園に出場。社会人野球の名門・松下電器(現・パナソニック)を経て、1989年秋に広島のテストに合格しドラフト外で入団した。
ドラフトでは1位の佐々岡真司前監督らと同期。しかし、一度も一軍経験がないまま2年で戦力外通告を受け、92年からブルペン捕手に転じた。
北別府さんとの付き合いは、そこから始まった。
◆ 「すごく大きな存在でした」
「初めは、怖くて、怖くて仕方がありませんでしたよ」
11歳上の北別府さんは、82年に開幕から11連勝をマークし、20勝(8敗)を挙げ最多勝を獲得。沢村賞にも選ばれるなど、すでにカープの大エース。91年には11勝4敗で最高勝率のタイトルに輝き、リーグ優勝に貢献していた。
ブルペン捕手になり大エースの球を受けたら、「ミットがいい音を立てていない」と叱られた。
水本ヘッドに北別府さんは「裏方さんにも、プロフェッショナルというものがあるんだ。ブルペンキャッチャーは、ピッチャーを気持ちよくさせるのが仕事なんだよ」と諭した。
水本ヘッドが、現役選手からブルペン捕手になったからといって、練習で手を抜いたわけではない。それでも、大エースは裏方でも気配りや目配りをすることで、その道で超一流のプロフェッショナルになれるんだ、ということを教えてくれたというわけだ。
キャンプでは、何回も投げ込みを打ち切られたことがあった。
「もういいから捕手を代われ、ではないんです。もう投げるのを止めるといって、投げ込みをやめてしまわれるのです」と水本ヘッド。
打撃マシンを相手に、捕球時にいかにいい音を鳴らして投手の気持ちを良くするのか、キャッチング技術はもちろんのこと、捕球してボールを返すタイミングやテンポも練習した。
「私も若いから、ちょっとは抵抗したこともありました。1回だけ、質問してみたんです。『なんで、選手には怒らないんですか』と。そうしたら『なにを言ってんだ。選手は打ってくれるんだ。それで勝ち星がもらえるんだよ』」と返って来たという。
「いつからかは忘れましたが、ペイさんと呼ばせてもらえるようになりました。お元気な頃に会って『ペイさん』と声を掛けたら、『おう、元気か』と返していただきました。自分の中での解釈ですが、認めてもらえたのかなと」
交流戦では体調不良の中嶋聡監督に代わり、監督代行を務め5勝1敗でリーグ首位に再浮上。勝ち越しも今季最多の11まで伸ばした。
「認めてもらえるまで頑張って、自身の意識を変えることが出来たという意味で、すごく大きな存在でした。ブルペン捕手の心構えもそうですが、試合に勝つための準備の大切さ、チームとして試合に勝つためにはどうしたらいいのか。そういう意識が高かった。それが今になって生きています」
「プロも含めて僕が精一杯、野球界のために出来ることに努力をしたいと思いました」。遺影の前で、ペイさんに野球界への恩返しを誓った。
取材・文=北野正樹(きたの・まさき)