「頑張れど埋められない格差」不登校児から“文部科学省職員”へ転身した元教員の魂の叫び

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2023年07月15日 11:00  週刊女性PRIME

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文部科学省職員・藤井健人さん(30)撮影/伊藤和幸

 病気や経済的な理由を除き、年間30日以上登校しない子どもの状態を不登校という。この9年間は増加のいっぽうで、2021年度には小学校で8万1498人、中学校では16万3442人を記録した。中学生の場合、なんと20人に1人が不登校の状態にあるのだ(※2022年10月文部科学省の調査より)。

全日制高校出身者との格差

 こうした子どもたちの受け皿となっているのが、定時制高校だが、高校出身者に対して、全日制高校出身者とは、その後の進路や評価に格差があることは否めない。

「世の中は、就職も社会通念も“普通の学校”つまりは全日制高校を中心に回っています。定時制ではないんです。

 一部でよく言われる“子どもには学校に行かない権利がある”“他人と比べる必要はない”という言葉も、一見、不登校の生徒に寄り添っているように見えますが、学力やその後の進路の問題をなにひとつ解決できていません」

 こう語る藤井健人さん(30歳)は元不登校。定時制高校を経て夜間高校の教師となり、この4月、文部科学省に入省、キャリア官僚となった。この転身について藤井さんは言う。

「元不登校の定時制高校出身者として、自分がしなければならないことはなにかを考えての入省。このような人生を生きたいと望んで選択したわけでは、絶対にない」

 “不登校の子どもたちにも、全日制と同じ未来を─!”は、元不登校にして定時制高校出身者の、魂からの叫びなのだ─。

 埼玉県で、祖父母と両親の5人家族だった藤井さん。不登校となったのは、小学校4年のころ。きっかけは祖父と祖母が発病。両親もその介護疲れから持病が悪化、と藤井さんを除く家族全員が病気になってしまったことだった。

 藤井さんが語り始める。

「父親も仕事を退職し、生活は祖父母の年金と両親の障害年金、生命保険からの保険金などで賄われる状態になりました。そんな中での両親といえば、生活費をめぐってのケンカが絶えない状態でした」

 通っていた小学校は、朝は集団登校が決まりだった。そこで知り合った友達と接するうち、“うちの家庭はちょっと特殊なのでは……?”と思うことが多くなった。

 例えば仲良くなった友達の家に遊びに行く。友達のお父さんは、家にはいない。仕事に行っているからだ。

それなのに、うちでは父が常に家にいる。“おまえのお父さんはなんでいつも家にいるの?”と思われたくないし、いる理由を聞かれたくない“自分の家は普通じゃない”と、小学校4年のときには休みがちに。5年生ではとうとう不登校になってしまった。

「人目にさらされるのが怖くって、カーテンは閉めっぱなしにしていました。小学5年のとき、父親に連れていってもらった病院で“小児性うつ”と診断されました」

 真っ暗な部屋にひきこもる小学生に、先生や同級生は優しかった。

「先生たちは何回も家庭訪問に来てくれて、友達も訪ねてきてくれました。特に校長先生はよくしてくれて、夏休み、校舎の建て替えをしていたんですが、“藤井くん、新しい校舎を見にこない?”と、連絡をくれたことも」

 だが当時はこうした思いやりに、元気な顔を見せて応えることはできなかった。

 ひきこもりの状態のまま、2005年3月には小学校卒業。4月からは中学生に。心機一転、新しい環境で立ち直るチャンスだった。

「“もう一度学校に行けるかも”と通い始めました。でも1週間で、体力的にも精神的にもしんどくなって……」

 わずか1週間の通学で、藤井少年はふたたび不登校に。その状態から脱することができないまま2年生になり、3年になり、進路相談で久々に登校したときの出来事だった。

「緊張もあって同級生に会いたくないと、授業をやっている時間に行ったんです。ところが校門にいわゆる“不良生徒”たちがたむろしていて、“おまえ、なに見てるんだよ!”と胸ぐらをつかまれて。必死に振り切って、職員室に逃げ込みました」

「落ちるところまで落ちてしまった」

 さんざんな進路指導になってしまったが、卒業後の進路に関しては、実は憧れていた学校があった。近所にあった文武両道の進学校である。

「その高校は内申点を重視していました。ところが自分は学校には行っていないから出席日数はほとんどないし、出席していないから成績はオール1。“この高校には行けないんだ……”という現実を突きつけられた」

 進路指導の先生からは、1枚のリストを渡された。

「その中にあったのが、夜間の定時制の高校でした」

「落ちるところまで落ちてしまった」

 先生からすすめられた夜間定時制高校に、藤井さんはいい印象は持てなかった。

「高校進学についてはぼんやりとしたイメージはありました。でも自分が夜間の定時制に行くとは思ってもいなかった。それで“自分はこういうところに行かなくてはいけないのか……”と」

 当時の藤井さんが熱望していたのは、“ごく普通の高校生になること”。藤井さんにとって“普通の高校生”とは、朝、起きたら学校に行く存在。そうでない高校に行かざるをえない状況は、戸惑うばかりだったのだ。

 とはいえ普通でありたいと願うなら、定時制だとしても中学卒業者のほぼ全員が進学する高校に行くのが“普通”だろう。

 先生から渡されたリストの中から選んだのは、埼玉県立戸田翔陽高校。単位制で、朝に学ぶ1部と昼の2部、夜の3部の3部制の定時制高校だ。藤井さんはその3部を志望する。

 普通になりたいのに全日制のように学べる昼間部でなく夜間の3部を選んだのは、「1部・2部は倍率が1倍を超えていたから。全日制のように学べるので人気があるから、そこを落ちたら行くところがありません。それで“3部しか選択肢がない”と、夜間の3部を受験したんです

体育以外はオール5

 たとえ落ちても定時制高校はほかにもある。それでもここにこだわったのは、制服があったからだった。

「僕は普通に戻りたいと思っていました。普通に戻りたいのに制服もなく、授業が終わって夜の21時に歩いていたら、見た目は街をほっつき歩いているのと変わらない」

 藤井さんにとって制服とは、高校生であることを自覚できる貴重なアイテムだったのだ。藤井さんは戸田翔陽高校3部に合格する。

 だが、そんな当時の戸田翔陽高校3部といえば、授業中の私語は当たり前。板書中の教師に消しゴムが投げられることも。そんな中で藤井さんは、体育以外は最優秀という素晴らしい成績を記録する。

 このころ、戸田翔陽の校長を務め、以来、15年の付き合いという管野吉雄先生(70)が、当時の印象をこう語る。

「高校入学には、生徒について記した内申書というものを作るんですが、それを見ると中学の成績はオール1。それを体育以外はオール5にするんですから“力のある子だな”と思いましたね」

 そしてさらにこう続ける。

「藤井くん、『校長、ここで弁当食べてもいいですか?』とか言って、よく校長室に遊びに来てくれたんです。

 友達付き合いはとてもいいんですが、勉強したい藤井くんとは話が合わない。話を聞いてくれるのは、校長とか先生とか大人の人。同学年より、大人を友達として求めていたような気がします

 当の本人は、高校生活をこんなふうにとらえていた。

小・中学校だったらどんなに学校を休んでも進学できます。でも高校だと赤点取ったら留年だし、ついには退学ということになりかねない。私にとって高校は、“失敗が許されない場所”だったんです。

 久々の登校で、入学当初はお腹が痛くなったり熱が出たりがありましたが、それでも勉強を続けられたのは、そうしたプレッシャーがあったからでした

 プレッシャーに突き動かされてであったとしても、みごと立ち直った元不登校を、先生たちも応援した。就職しようと思っていた藤井さんに、大学進学をすすめたのだ。

 すすめられた藤井さんはといえば複雑だった。

「いずれ社会に出るにせよ、自分にはまだその準備ができていない。となれば、進学しかなかった」

 国公立大学受験を前提にして、高校2年で全国模試を受けた。だがこの模試で、藤井さんは大きな衝撃を受ける。

「見たこともないところから出題されているんです。それで初めてわかった。世の中は夜間高校の勉強の進度になんて頓着しない。全日制高校が基準になっていて、定時制のカリキュラムでは、同じ土俵に上がれてさえいないんだ─と」

悟りを得た瞬間

 藤井さんの今につながる悟りを得た瞬間だった。

「世の中には定時制高校というものがあって、そこではいろいろな事情を抱えた生徒がいる。だから配慮してくれと言っても相手には届かない。声を届けたいと思ったら、相手と同じ土俵に立たないと」

 同じ土俵に上るべく、藤井さんは猛勉強を開始する。

 だが小学校で不登校になったせいで分数すらわからない。小・中学校の復習をしつつ、帰り道に補導の対象となってしまう時間ぎりぎりまで職員室で先生から教わり、高校の科目の予習と復習をする毎日。

 そうした猛勉強の中で目指すのは、「全日制はもちろん、定時制高校の生徒ならなおさら行かないような大学」

 国公立にこだわらずにすんだのは、いよいよ生活に困窮した両親が自宅を売却して大学費用を得られたため。奨学金は必要であるにせよ、私立大学にも行ける目星がついたからだった。

 藤井さんは1年間の浪人生活を前提に、本格的な受験勉強を開始する。予備校では優秀な成績で特待生に。

 前出の管野先生が「予備校の成績優秀者になったという表彰状を見せてくれました。“そういうものがあるんだ”とびっくりしました(笑)

 1年後、第一志望だった早稲田大学に合格、社会科学部に進学する。

 だがここで、藤井さんはかつてない落ち込みを経験する。

「念願だった大学生活が人生で一番つらかった」

「周りも喜んでくれて、自分でも“ようやくここまでこれた”と思いました。ようやっと普通のみんなと同じ土俵に立てたと。ところが友達をつくることができなかった」

 周りは中高一貫校から進学したり、公立でも地元トップ校出身者などキラキラした生徒ばかり。夜間定時制高校出身者など、自分以外1人もいない。“高校時代、部活は何をやってたの?”友達づくりのそんなありふれた質問にも、答えることができなかった。

「定時制高校にも部活動はありますけど、放課後が21時以降だから、あってないようなもの。部活はやらなかったと正直に答えようとすれば、定時制高校出身のことや不登校だったこと、さらにはそうなった理由にまでさかのぼって答えなければなりません」

 どうしても会話の輪に入れない。入学後1週目には、他の学生との間にはとてつもない格差があることをしみじみと悟った。“大学に入れば同じ土俵に立てる”そう思って頑張ったのに、過去の経験や蓄積には、取り戻せないものがあるのだと実感したのだ。

 そんな中出会ったのが、教育社会学だった。これは教育というものを、社会とのかかわり合いから考えようという学問であるという。

 教育社会学では、子どもの学力を親の職業や学歴、収入等々から読み解く。すると親の収入が高いほど子の成績がいい冷徹な事実や、家にある蔵書の数と学力にさえ、相関関係があることが見える。

 教育社会学の視点から見れば、不登校や成績不良はその子自身の問題だけではなく、親の所得や学歴、成育環境など、社会とも密接に関係していることがわかってくる。

「それでひたすら図書館にこもり、勉強していました。勉強することで自分の苦しみから必死に逃げようとしていました」

自分が苦しみ続けてきたことが仕事に結びつかない

 大学卒業後は就職しようと大手企業にエントリーしたが、

「ぜんぜんやる気が起きなくて。商社とかメディアに就職したとしても、自分が苦しみ続けてきたことが仕事に結びつかない。本当にこうした道に進んでいいものか、と」

 前出・管野先生にも相談した。

「民間企業の内定をもらったと言っていましたよ。でも藤井くん、一直線な性格だから僕はうまくいくかなあ、と。それで飲み会のときだったかに『教員にはいろんな人がいるから、教員だったら務まるかもしれないよ』。そう言った記憶がありますね(笑)」(管野先生)

 藤井さんは就職せず、東京大学大学院教育学研究科に進学する。東大では教育社会学で学んだ問題を現実の制度に落とし込むべく、教育行政学を専攻。教育と社会の関わりを、さらに深く追究することを選んだのだった。

「ここならば自分の経験が生かせる」

 自ら選んだ東京大学大学院は、早稲田以上にキラキラしていた。大学教授の子息もいれば、オーケストラで演奏した学生もいる。軽井沢に別荘を持つ同期もいた。

想像はしていたけれど、自分が生まれ育った環境にはいなかった人たちばかり。もう完全に開き直りました。同期には不登校を経験して定時制を卒業した人なんて誰もいない。教育を研究する場にいるのなら、僕の経験はむしろ貴重。無双できるはずだって(笑)」

 自分の経験は絶好の具体例で、共有して共に考えていくべきだと悟ったのだ。

 藤井さんは、自分の過去や経験を積極的に語り始めた。そんな貴重な生の声に、同期たちもまた真剣に耳を傾けてくれたという。「だから大学院時代は本当に楽しかった

 大学院の先輩の宮口誠矢さん(30)が、この時代のエピソードを明かす。

「クリスマス、ラウンジで修士論文のアドバイスをしていたら急に、“宮口さん、ちょっといいですか”と言っていきなりラウンジのピアノで『戦場のメリークリスマス』を弾き始めたことがありました。あるいは近所に住んでいる先輩をつかまえてさんざんアドバイスを受け、最後に“お礼にファミチキおごります”と言って先輩をムッとさせたり。“変わり者だけど憎めない人たらし”が藤井くんだと思います」

 そんな藤井さんは、東大から官僚という、王道コースは考えていなかった。

 東大の教育学研究科とは、教育行政と学校現場の橋渡しとなることを目的に設立された学科だと藤井さん。ところが教育行政の対岸たる学校現場を知る人が、大学院にはほとんどいなかったのだ。

「夜間定時制高校の教員なんて、(大学院では)おそらく自分が初めて。だったらその隙間を埋められるのは自分しかいない」

 大学院で教員資格を取得した藤井さんは、埼玉県の教員採用試験を受験して合格。配属にあたっては、全日制と併設されている夜間定時制高校を希望した。

 とはいえ、天下の東大生からの進路先としては、戸惑いもあったのが事実のようだ。前出・宮口さんが、

彼には“正統性”への強い憧れやこだわりがあります。社会のメインストリームに行くとか、影響力のあるポジションに行くということに強いこだわりがあるんです。

 東大の院を卒業するとき彼が僕に言ったのは、“宮口さん、東大生という肩書を捨てるのはつらいです。何かを語るとき、一教員という肩書になっちゃいますから”と。半分冗談、半分本気といった感じでしたけれども(笑)」

 2019年26歳の年、藤井さんは、埼玉県立大宮商業高等学校定時制課程に着任。すでに格差の拡大や不登校など、さまざまな問題が山積している教育現場に、夜間定時制高校出身で東大大学院卒という、異色の先生が誕生した。

気持ちを共有してくれる人がいない人生

 大宮商業高校定時制での藤井さんの担当は、地理歴史・公民の2科目。

 現在の定時制に通う高校生たちは、ひと昔前とは大きく違うと藤井さん。

 やる気や学力のある生徒たちが増えていた。全日制高校をしのぐ偏差値の生徒も少なくない。だが不登校やいじめなど、さまざまな事情で全日制に行けずに通っている。かつての自分自身のような高校生を指導したこの4年間は、やりがい十分かつ、かけがえのない時間だった。

「人生が2つあれば、片方は一生、定時制の教員として続けていきたいぐらい大好きな仕事でした」

 そんな藤井さんは、生徒が欠席を続けても、登校を促す連絡はほとんどしない担任だった。学校に行きたくなくて行かないのではない。行きたいけれど行けない理由があることが、元不登校として痛いほどわかっていたからだ。

 それとは対照的に、ことあるごとに語りかけていたことがある。卒業したあとに待ち受けている現実がそれだ。

「心に傷を負っている定時制の子どもたちは、良くも悪くも相手を傷つけない距離を取るのが実にうまい。 

 でも社会に出ると、相手はお構いなしに踏み込んでくる。“心が張りつめる場面がこれからたくさん出てくるけれど、それを相談できる機会は少ないよ”と」

 バイトで朝や昼に働いていれば、“高校生なのに学校はどうしたの?”と聞かれる。定時制だからと答えれば“どうして?”と言われ、“なんで普通(全日制)の高校に行かなかったの?”と続く。打ち明けたくない事情があっても、社会はそこまでの思いやりは持ち合わせてはいない。

 ほどよい距離感を保てる温室のような環境から、情け容赦なく詮索される環境に放り出されることになるのだ。

 藤井さんが続ける。

「周りに定時制出身者なんてきっと誰もいないから、自分の思いを共有してくれ、理解してくれる人は誰もいない。だからここで出会った人間関係は、これからの君を支えてくれるものになるよ、と」

 生徒たちはみな真剣に聞き入る。

 これから待ち受ける現実を包み隠さず伝える藤井先生の言葉は、同じ立場の者からしか聞けない言葉として、心の準備を固める機会になっているのだ─。

感じてきた教育への憤りを受け止めて

 そんな藤井さんは昨年、文部科学省への転身を考え始めた。その理由を説明する。

「ほとんどの人は全日制を卒業します。社会って、学校のあり方も教育のあり方も全日制を基準にまわっていて、教育行政を考える学者も文科省も、全日制に通っていた自身の経験をベースに考えてしまいがちです。だから当然、そっちの方向へしか物事は動かない。“それが当たり前ではない”と教育行政の中で発信できる人間は、誰一人いないようにみえた」

 教育行政を内側から変えていくことを考え始めたのだ。

 藤井さんは、難関で知られる国家公務員総合職試験を受験して合格。この4月、文部科学省職員となった。

 現場で教員をした経験から、定時制出身者であっても、学力的には全日制と大差ない生徒も多いことはわかっている。

「だけれど定時制と全日制という学校の箱が異なるだけで、その先歩んでいく進路や人生がまったく変わってしまう現実がある。その結果、社会から与えられる評価にも、差が生じてしまっています」

 定時制出身者の一人として、藤井さんがもっとも憤る現実。

 だが社会改革そのものだけに、一朝一夕には実現できない、厳しく困難なミッションでもある。

 前出・管野先生が言う。

「不登校の教育に関しては、藤井くんには自分なりの強い考えがあります。それでも採用した文科省も立派だと思いますが、行政マンとしては意見を抑えなければならない部分もあるはずです。まともにぶつかるんでなく柔軟に対応して、最終目標を達成できる人になってほしい」

 先輩の宮口さんは、「社会学では社会的地位が変わることを社会移動といいます。

 藤井くんはセーフティネットとしての定時制やフリースクールでは社会移動にはならず、むしろ固定化するとして批判的ですが、違う見方もできます。行政に携わることになった以上、より幅広い人々のニーズや状況への応答的な見解こそが正統。そんなアップデートされた『正統性』を追求してほしい。よりバージョンアップした藤井バージョン2や3が見たいです」

 全日制の基準では活躍できない人も、別の基準なら活躍できる可能性はある。多元的な基準を認める柔軟性も持ち合わせてほしいと語るのだ。

 これまで藤井さんがさんざん感じていた現実。だが官僚となり、教育行政を動かす立場になった以上、成果がなければ自分が感じていた憤りは、これからは自分自身に向けられるものとなる。キャリア官僚への転身は、自ら背水の陣を敷いたともいえる。

 藤井さんが、自分自身に言い聞かせるかのように言う。

「自分が感じてきた教育への批判や憤りを、自分自身で受け止められるか─。

 そう自問しながら、働いていこうと思っています」

※本インタビューはあくまで一個人の意見であり、所属組織を代表するものではありません

<取材・文/千羽ひとみ>

せんば・ひとみ フリーライター。神奈川県横浜市生まれ。企業広告のコピーライティング出身で、人物ドキュメントから料理、実用まで幅広い分野を手がける。近著の『キャラ絵で学ぶ! 徳川家康図鑑』(共著)ほか、著書多数。

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