「君たちはどう生きるか」このタイトルでなくてはならなかった理由―【藤津亮太のアニメの門V 第97回】

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2023年08月03日 12:21  アニメ!アニメ!

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※以下の本文にて、本テーマの特性上、作品未視聴の方にとっては“ネタバレ”に触れる記述を含みます。読み進める際はご注意下さい。

『君たちはどう生きるか』は、シンプルなストーリーの上に、この世界の様々な要素をモザイクのように散りばめた作品だ。だからスケールの異なる「極私的なディテール」と「文明についての考察」が同居するし、「誕生と死が共存するエピソード」と「不気味なモンスター(インコ)に食べられるかもしれない恐怖」が同じテーブルに載っている。  

しかし、バラバラに見える諸要素は、だからこそ全体として“世界”というものを形作っているのであり、これらをひとつのルールで読み解いてしまうということは、それは単なる寓話化に過ぎなくなってしまうのではないだろうか。
この「寓話化」を避けて読むという姿勢については、中条省平が、カミュの『ペスト』を解説した『100分de名著』の中で触れている。  

中条は、『ペスト』がしばしば、ナチス・ドイツをペストに見立て、カミュのレジスタンスの経験が反映している、という読みを取り上げて「これはおそらく倒錯した読み方です」と指摘する。最初にレジスタンスという英雄的な主題を描こうという意図があったわけではなく、むしろ逆で、災厄が人間を襲うことの不条理性とその恐怖が、出発点になっていると思うのです。」「(そういう様々な災厄に対する)認識の集約が、たとえば戦争であり、ここではペストである」、と。  

「結果的に登場人物たちの行動がレジスタンスのように見えたとしても、戦中のカミュのレジスタンス経験を反映していると考えてしまうと、それは単なる寓話化に過ぎなくなってしまいます。」  
中条はここで『ペスト』という作品を「寓話化」してしまうことで、作品がカミュの体験の中へ小さく畳み込まれてしまうことを危惧している。作家が体験したことの反映を含みつつも、そこから深められていった思考の先にある作品を取り扱う時、この「寓話化」の欲望をコントロールしなくては、作品を広く開くことには繋がらない。  
では寓話化の欲求にできる限り抗いつつ、『君たちはどう生きるか』を読むとすればどうなるか。  

全体の構成は、既に指摘されている通り、ヒントになったといわれる『失われしものたちの本』(ジョン・コナリー、訳:田内志文、東京創元社)を非常に似ている。母の死と父の再婚、そして再婚相手の出産という主人公を取り巻く環境。さらに、主人公が異世界に足を踏み入れ、さまざまな人に助けられながら、「失われたものたちの本」を持つ王のもとを目指すという展開なども、映画と共通点を感じさせるところがある。  

そもそも、なんらかの満たされていない感情を持つ人間が異世界への旅に出て、なんらかの変化をして帰郷するという展開は、「行きて帰りし物語」と呼ばれる、ファンタジーの典型的な物語構成である。『失われしものたちの本』が本作にインスパイアを多く与えているのは間違いないが、元ネタというよりは、『君たちはどう生きるか』という映画を産み落とすための産婆のようなものではなかったかと想像される。  

映画は、戦争が始まって3年目の年に、火災で主人公・眞人の母が死ぬところから始まる。その1年後、眞人は東京を離れ、母の故郷のお屋敷で過ごすことになる。そこで眞人を待っていたのは、父の再婚相手で、母の妹である夏子だった。夏子は既に父の子供を身ごもっていた。  

屋敷の敷地には封鎖された「塔」が建っていた。行方不明になった夏子を探す中、眞人は、怪しげなアオサギに導かれて、この「塔の世界」へと足を踏み入れることになる。
この「塔の世界」のエピソードは、大きく3つのパートに分けられる。  



まず第1のパートは、ある島に現れた眞人が、ペリカンに襲われ墓の門を開けてしまったところ、船乗り・キリコによって助けられるところから始まる。キリコは魚を捕り、それはその世界に住む影のような人々と、生まれる前の魂たち・わらわらに食べさせるのが仕事だった。わらわらたちは魚の内臓を食べると丸く膨らんで、空へと浮き上がり、現実の世界へと生まれ落ちるのである。わらわらは同時にペリカンたちの食料でもあり、生まれ出る前に、食べられてしまうものも多数いる。眞人は、瀕死の老ペリカンから、魚が少なく島もないこの海では、わらわらを食べるしか術がないのだ、という話を聞かされる。  

ここで描かれるのは、「生命の循環」とそれがなにかの因果関係によって起こるのではなく、本質的に「不条理」であるという世界の本質を体現した場所だ。これはつまり眞人の母の死も、人間ではコントロールできない大きな不条理の中で起きたということ(だから母の死は「空襲による火災」ではなく単なる「火災」という形で表現されていた)が、言外に示されている。  

第2のパートは、炎を操る少女・ヒミに導かれ、行方不明だった夏子のもとへと向かうというエピソード。眞人は産屋の中にいる夏子に会い、彼女から「嫌い」といわれる一方、眞人は彼女に「お母さん」と初めて声をかける。ここで物語の冒頭から描かれていた眞人の葛藤に決着がつくことになる。前のエピソードが「世界のあり方」を端的に示すものだったのに対し、こちらはもっと繊細な心理の変化を表現したブロックなので、読み方もまた変わってくる。  

そもそも眞人は最初から、夏子についてある種のいごこちの悪さを感じている。それは「母そっくりの叔母」が「継母になる」ということにまつわる生々しさであり、さらに彼女が妊娠しているという事実がそれを強めている。自転車タクシーの座席で、もう声変わりしている眞人にわざわざ赤ちゃんのいるお腹を触らせるという夏子の距離の詰め方も、眞人を戸惑わせる。  

眞人は「死んだ母を忘れられない」という感情の上に、母そっくりである夏子に対して「異性である意識」と「母として考えなくてはいけない」という矛盾する感情がのっかってしまい、がんじがらめになってしまう。つわりが重くて寝込んだ夏子が、眞人のことを気にかけても、なかなか会いにいかないのは、こうした言葉にならない感情が彼の中に未整理のまま渦巻いていたからだ。  

そんな眞人が、どうしてわざわざ夏子をもとの世界に連れ戻そうと行動することになったのか。この転換点で登場するのが、本作のタイトルの元ネタとなった書籍『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎、岩波書店)だ。  

日中、眞人は怪しげなアオサギに立ち向かうため弓矢の工作に集中している。この時、眞人は、夏子らしい人影が森の中へと入っていく姿を目撃している。が、その時はただ見送っただけだった。
このシーンと、夕方になり夏子がいなくなったことが騒ぎになるシーンの間に、眞人は『君たちはどう生きるか』を読んでいるのである。  

工作の過程で机の上に置いてあった本を落としてしまう眞人。ページが開いた一冊の本には、昭和十二年に母が、いつか成長した眞人に渡そうと思っていた旨が記されていた。その本が『君たちはどう生きるか』だった。なお、昭和十二年というのは、同書が「日本少国民文庫」全16巻の最後の一冊として出版された年である。  

眞人は同書を読みながら落涙する。これは同書全体に感動したととらえてもいいのだろうが、同書を読むと、おそらく眞人の心に刺さったであろうと想像できる部分があるのだ。
同書は、15歳の少年コペル君が、友達との学生生活の中で感じたことを叔父さんに語り、叔父さんがそれについてのアンサーをノートに綴るという構成になっている。「倫理」を扱った教養教育のために企画された書籍で、叔父さんのノートは、コペル君であり読者に対して「ものの見方」などを平易に語った内容となっている。  

同書の中盤に大きなエピソードが用意されている。コペル君の友達が上級生から生意気だと因縁をつけられ、暴力を振るわれるのである。ほかの友達は、彼をかばうために飛び出したが、コペル君は怖気づいてその様子を傍観してしまう。少し前に、上級生に絡まれた時には、一緒にそばにいてあげるとみんなで約束したにもかかわらず。コペル君は深く後悔の念にとらわれる。
この出来事に対してもちろん叔父さんからのアドバイスはあるのだが、珍しいことにここでコペル君の母親が登場するのである。母親が大きな役割を果たすのは全編でここだけだ。  

事件の翌日からひどい風邪をひいて寝込んだコペル君に、母親は、事件のことを知ってか知らずか、自分の体験を話し始める。
彼女がまだ女学校に通っていたころ、おばあさんが重い荷物を持って石段を登っているところに偶然居合わせたことがあった。簡単に上ることができず、二、三段登っては一休みしているおばあさんを見て、「手伝ってあげよう」と思いながらも、彼女はついに手伝うことはなかった。その後悔は、二十年経った今も、自分の中に残っていて、その後悔の記憶があるからこそ、自分は自分の中の心の中の優しさを素直に行為に出せるようになったし、人の親切もしみじみ感じられるようになったのだ、と。  

眞人は、この部分を読んだ時、自分の母から語りかけられたように感じたのではないか。だから涙が溢れたのではないか。
眞人は転校初日、同級生とモメて喧嘩をする。その後、彼は自分で石を持ち、こめかみのあたりを強く傷つける。これは、家にも学校にも居場所がない、さまざまないらだちの矛先が自分に向かった結果だろう。夏子たちには「転んだ」と説明にならない説明だけしている。
夏子は、つわりで横になりながらも、眞人の頭の傷について「ごめんなさい。お姉さんに申し訳がないわ」と自分の責任のように感じている。しかし眞人は、そんな夏子のもとに、なかなか赴かなかったし、対面してもそっけない。  

そんな自分の行動や態度について薄々感じていた後悔。『君たちはどう生きるか』の母の言葉を通じて、それを死んだ母に言い当てられたような気がして、眞人は泣いたのだ。だからこの本を読んだ後から、眞人は夏子を探すことに積極的になるのだ。物語上も、アオサギが語った「お母さんは生きている」というウソは早々に明らかになり、夏子が眞人の動機となってお話は進むことになる。  

夏子は、塔の世界の中にある、石でつくられた産屋にいた。眞人は禁忌の空間である産屋に入り込み、夏子と一緒に帰還しようと試みる。この時の、やりとりの中で夏子は眞人に対して「嫌い」というのである。  
これは夏子にとっての本音であったろう。夏子がなぜ「塔の世界」にいるかを考えると、彼女自身の中にも「行きて帰りし物語」に導かれるだけの理由があったのだろう。映画は、音楽も含め、眞人の視線に寄り添っているので、夏子の内面はなかなか見えないが、息子となった甥っ子との関係も難しく、夫は仕事中心で相談相手にもならず、かつつわりによる体調の不良と、描かれているだけでも、かなり追い詰められている状況であることはわかる。そんな状況で押し込めていた「もやもやする気持ち」が、「嫌い」という言葉になって飛び出したのだろう。  

しかし、これは眞人への救いの言葉となる。なぜなら眞人が、夏子に抱いていた「もやもやする感情」もまた言葉にするなら「嫌い」となったはずだろうから。こうして人間関係が一回更地になったからこそ、眞人は素直に「お母さん」と声をかけることができたのではないか。  

このシーンで眞人は夏子を連れ帰ることはできないが、夏子と眞人のドラマはこの後、特に描かれていない。そこから考えると「嫌い」という言葉を受けての、「お母さん」という言葉のキャッチボールが、2人のドラマのゴールであったと考えられる。
こうして表層的な水準での眞人の葛藤は解消される。ではその後に、どのようなドラマが残っているのか。それが「塔の世界」の主である大叔父との対峙である。  



作中の説明によると、御一新の少し前に宇宙から降ってきた石が塔の前身だという。その後時間が経った後、石の周囲を塔で覆ったのが大叔父だったという。大叔父は、塔の中の自室で過ごすうちに、姿を消してしまったのだという。大叔父が塔の中に持ち込んだインコたちは進化して王国を形成している。インコたちは、『千と千尋の神隠し』でカエルの姿で書かれた「現代の会社員たち」の延長線上にあるキャラクターに見える。それは不条理でありながらも、生命の本質に近いところで生きるペリカンと対照的だ。  

大叔父は、「塔の世界」において神のごとき管理者として生きている。石の積み木を重ねて、世界のバランスを保つのが、大叔父の仕事である。インコ大王は、彼に一定の敬意は払いつつも、自分たちに塔の管理を委ねるべきだとも考えている。  

そもそも大叔父は「塔の世界」でなにをしようと考えたのだろうか。これは作中ではまったく描かれていない。しかし、インコたちが極めて戯画化された「人間社会」を演じているのを見ると、自分の手で「近代化社会」を作り出そうとしたのではないか、という想像はできる。それは大叔父が生きた時代がおそらく明治時代で、日露戦争で日本が「近代国家」であるという証をたてようとした時代であることとも関係があるだろう。  

読書家であった大叔父は、異世界の中に自分の夢見た「近代社会」を構築しようとしたのだろう。しかし皮肉なことに、現実の世界で近代化した日本が敗戦を迎えようとしているのと平行し、近代化を目指した大叔父の「塔の世界」も限界が近づいていた。  

その理由は画面から「インコたち(=人間)が近視眼的消費者でしかないから」とか「近代化を掲げながら、産屋のような前近代的システムに頼っているから」などいくつか考えられる。が、作中で一番具体的なヒントとして示されているのは「悪意」の存在だ。
眞人が大叔父と対峙するシーンは2回ある。  

1回目は、インコにとらわれた眞人の夢の中。この時、大叔父は、自分が積み上げた積み木によって世界のバランスを保っている、と説明をする。そして、この仕事は自分の血統にしか継げないから、眞人に継いでほしいと迫る。しかし眞人は「それは木じゃない。石だ。墓と同じ悪意の石だ」と断る。
ここで唐突に「墓」の話が出てくる。これは映画序盤、眞人がペリカンに襲われ、入り込んでしまった墓のことだろう。その門には「ワレヲ学ブ者ハ死ス」と書いてあった。  

2回目の時は、大叔父は(おそらく1回目の眞人の反論を踏まえ)、「悪意に染まっていない石」を13個揃え、これを3日に1つずつ積んで、眞人の塔を建てろと命じる。
今度は眞人は頭の傷を示し「この傷は、僕の悪意の印です。僕は、その石には触れません。夏子お母さんと自分の世界に戻ります」と宣言する。  

大叔父と眞人の対立は「悪意」をめぐってのものであり、それは「墓」と関係があるということになる。そして大叔父は「悪意」がないことにこだわりを持っている。
結論から書くと、ここで「悪意」と呼ばれているものは「影」ではないだろうか。
アーシュラ・K.ル=グウィンはこう書いている。  

「影はわたしたちの心の裏側にいる、意識的自我の暗い兄弟です。」「影とは単なる悪ではありません。より劣ったもの、原始的で、不格好で、動物的で、子供っぽく、一方で大きな力を持ち、生気にあふれ、自発的なものなのです。(略)影なくしては人間は無にすぎません。」(『夜の言葉 ファンタジー・SF論』)  

大叔父は「塔の世界」に足を踏み入れ、自分の世界を作り始めた時、自らの影を“殺し”“埋葬”したのではないか。それがあの墓であり、「影」を学ぶことは危険であるという、自らの言葉で封印したのではないか。
しかし、そんなに簡単に「影」を殺してしまうことなどできない。大叔父が人間である以上、影はそこに寄り添ってあるはずだ。だから、大叔父が毎日手を加えている「石の積み木」は、墓の石と同じ「悪意」が宿ることになったのではないか。  

ただ大叔父は、眞人の発現の意味を理解できなかった。眞人は「大叔父の影」を受け継ぐことはできないと言っているのだが、影を切り捨てた大叔父は「影」そのものが問題だと理解したのだ。だから「悪意のない石」を改めて用意することになる。  

だから改めて眞人は「自分の悪意=影は自分とともにあり、それを切り離すことはしない」と宣言して「悪意のない石」に触れることも拒否するのである。この「影」を否認しながらも、近代化を試みようとする大叔父の姿勢こそが「塔の世界」をアンバランスにしていたのではないか。  

「塔の世界」のもっとも原始的なところにある墓所。そして「自分自身の葛藤を乗り越えるために意識された悪意=影」。別々のことを描いてきた2つのエピソードが、最終的に「悪意=影」という主題で統合される形で、3つ目の大叔父とのエピソードは語られているのだ。  

「子どもは自分自身の影になら向かっていくことができ、それをコントロールしたり、それに道案内させたりすることを学べるでしょう。そして大人になり、社会の一員としての力と責任感を身につけたとき、世のなかに行われている悪に直面しなければならなくなっても絶望して気力を失ったり、自分の眼にしているものを否定したりすることの少ない人間におそらくなれるでしょう。わたしたちの誰もが忍ばなければならない不正や悲しみや苦痛、そしてすべてのことの終わりに待ち受けている最後の影に直面するときにも」(前掲書)。  

書籍『君たちはどう生きるか』は、社会科学的なものの見方を通じて倫理を説いた。映画『君たちはどう生きるか』は、ファンタジーの言葉を使って「影」とともに生きることを説いている。  

映画のラスト、大叔父の夢見た「近代化」の塔は崩れ落ち、日本もまた敗戦を迎える。その後に残されたあろう焼け野原こそが、多くの人が生きている混迷の現代と重ねられている。ちょうど『もののけ姫』が室町後期の社会転換を現代と重ね合わせて描かれていたように(『もののけ姫』のエンドロールが、どうなるかわからない未来を暗示するため黒バックだったように、今回のエンドロールも青バックのみで進行する)。だからこそ本作はこのタイトルでなくてはならなかったのだ。  

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