
厚生労働白書によれば、ひきこもりの定義は、「様々な要因の結果として、社会的参加を回避し、原則的には6か月以上にわたっておおむね家庭内にとどまり続けている状態を指す現象概念」としている。近所のコンビニに行ったり、趣味関係の用事で外出したりしても、広義の意味ではひきこもりとなる。
娘にどう対応したらいいかわからない
「娘が家からほぼ出なくなって10年たちます」チカコさん(65歳)は目を伏せながらそう言った。娘のカオルさんは38歳。カオルさんの下に妹と弟がいるが、いずれも独立して家を出ている。3歳年上の夫は今も仕事を続けているが、カオルさんにはほとんど関心を示さない。
「カオルは優秀な子でした。長女だから少し厳しく育ててしまったけど、親の期待を裏切らないいい子だった。大学も優秀な成績で卒業して、自分がやりたいと願っていた仕事に就いた。それなのに3年で会社へ行けなくなったんです。
勤務先と話し合って休職扱いにしてもらって1年後、復帰しました。でもその後、また行けなくなって退職。家にいてもしかたがないからアルバイトでもしなさいと急き立てましたが、アルバイトが決まっても数日で行かなくなることが続いたんです。
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こうなることを予想していた次女
口答えひとつしなかった娘の急変に、チカコさんは慌てふためいた。親としてするべきことをし、せいいっぱい愛情をかけて育ててきたつもりだったのに、いったい、なにがどうなってこうなったのかわからなかった。帰宅した夫や他の子どもたちに状況を伝えたが、夫は「放っておけ。そのうち自分で何とかするだろう」と言った。だが次女は「いつかこうなると思った」とつぶやいた。
「私と次女はもともとあまり折り合いがよくなかったんです。だから次女の言葉にはとりあわなかった」
そこから10年もこの状態が続くとは思っていなかった。
どうしたいのかがわからない
最初は娘の部屋をドンドン叩いた。部屋の鍵を壊して室内に入ったこともある。娘はナイフを自分の喉につきつけ、「こっちに来たら死ぬ」と叫んだ。夫が「もういい」と止めた。「修羅場でしたね。そんな日が続いて、私も疲れてしまいました。『いてもいないと思えばいい』と長男に言われたこともあります。でもあの優秀な子が、という気持ちがどうしても拭い去れない。次女は『それがおねえちゃんの重荷だったのよ』って」
家にいても、2階の娘の部屋から物音がしないか必死に聞き取ろうとした。そんなとき、テーブルの上に「ひきこもりの子をもつ親の会」のチラシが置いてあった。次女がどこかからもってきたらしい。うちだけではないのかとチラシを見たが、足を運ぶ気にはなれなかった。
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「結局、このとき一番力になってくれたのは、折り合いの悪い次女でした。次女は『おかあさんが家にいたら、おねえちゃんはずっと階下からの脅威を感じる。少し家を出てみたら』と言ったんです。
以前は趣味の習い事をしていたんですが、カオルがああなってからは行かなくなっていた。だから思い切って習い事を再開しました。その間だけでもカオルのことを忘れていられる」
ときどき友人にも会った。長女のことは誰にも言えなかったが、それでも少しは気が紛れた。そして次女につきそわれて親の会にも行ってみた。
チカコさんが家にいないと、カオルさんは階下に降りてきてお風呂に入ったり何か食べたりしているようだ。それまでは三食、カオルさんの部屋の前に食事を置いていたのだが、食べたり食べなかったりだった。
「私がいなければ自分で作るのか。そう思ったので、なるべく外に出るようにしました」
夫婦ふたりと2階の娘で暮らす日々へ
時間が流れ、次女は就職で遠方へ、長男は地方の大学へと旅立っていった。夫婦ふたりと2階の娘との暮らしになって2年がたつ。
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チカコさん自身、自分が長女にプレッシャーをかけていたことを、まだ認められないままなのだ。普通に育てただけだ、子どもたちのために仕事を辞め、いい母親になるようがんばってきたと思っている。
「一度話そう、あなたの話を聞きたい。次女に促されたので、ドアの外からそう声をかけてみたんです。そうしたらか細い声で、『もう少し待って』と返ってきた。ほぼ10年ぶりに娘の声を聞きました。それだけで涙が出てきた。もっと早くにどうにかすればよかったのかもしれないけど……」
カオルさんもつらいはずだ。ひきこもっている本人は、親に申し訳ないと思っていることが多いし、自己否定も強い。
とにかく娘の声を聞き、言い分を聞く機会を作ったほうがよさそうだ。親の立場を振りかざさず、いかに人と人として話ができるか。そこから何かが始まる可能性は高い。
亀山 早苗プロフィール
明治大学文学部卒業。男女の人間模様を中心に20年以上にわたって取材を重ね、女性の生き方についての問題提起を続けている。恋愛や結婚・離婚、性の問題、貧困、ひきこもりなど幅広く執筆。趣味はくまモンの追っかけ、落語、歌舞伎など古典芸能鑑賞。(文:亀山 早苗(フリーライター))