三浦雄一郎さん、要介護4の認定を受けても富士山の頂上へ「誰でも何歳でも再出発はできる!」

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2023年10月22日 16:00  週刊女性PRIME

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冒険家・三浦雄⼀郎さん(91)

「やった!」

 その瞬間、青空に歓声が響いた。2023年8月31日午前7時20分、冒険家の三浦雄一郎さんが富士山の頂に到達したのだ。その隣には、日に焼けた次男の三浦豪太さん(54)をはじめ友人や教え子など、「雄一郎さんの挑戦を支えたい」との思いを胸にした40人近い人々がいた。

冒険家・三浦雄一郎が患っていた難病

 今回の挑戦に多くの人が関わったのには訳がある。実は雄一郎さん、2020年に100万人に1人といわれる難病を患っていたのだ。

 この年の6月3日、苦しさで目覚めた雄一郎さんは、首から下が動かせなくなっていることに愕然とした。今までさまざまな病気を経験し、7度の心臓手術を受けてきたが、今回のような症状は初めて。この日は前年に患った脳梗塞の検診に付き添うため、関東住まいの豪太さんが北海道・札幌の自宅まで泊まりに来ていた。しかし、助けを呼ぼうにも思うように声が出ない。

「何とか気づいてもらおうと、テレビのリモコンのボリュームを上げました」

 大音量のテレビとは別に、「おーい、おーい」と自分を呼ぶ声に気づいた豪太さんがすぐに救急車を呼び、雄一郎さんは病院に搬送された。精密検査の結果は「頸髄硬膜外血腫」。首にある頸髄の膜が破れ、流れ出た血が血栓となって神経を圧迫し、首から下の神経が遮断されている状態だ。

 血腫を取り除く緊急手術を受けて一命を取り留めたものの、そのまま入院になった。折しも新型コロナウイルスが猛威を振るい、世間もどこか重たいムードが蔓延していたころだ。

「手術後、妻に激励されましたが、身体が思うように動かないことで、『頑張りようがないんだ』と返事したのを覚えています」

 豪太さんも、いつも前向きな父のネガティブな発言を聞くのは、初めてのことだったという。

「少し時間がたって、最悪の状態を脱したように感じました。もうこれ以上悪くなりようがないんだったら、このままよくなるしかありません。小さな兆しですが、『ここからまた前進したい』という思いがゆっくり大きくなっていきました」

 どんな痛みが襲っても、少しでもよくなるならリハビリに励むと決めた。しかし、87歳の雄一郎さんを襲った頸髄硬膜外血腫は甘い相手ではなかった。

起き上がれない状態から聖火ランナーに

 当時の状況を、豪太さんは次のように振り返る。

「手術を受けたものの、担当の医師からは『普通の生活にはほぼ戻れないと思います。歩けるかどうかも期待しないほうがいいですよ』みたいなことを言われました」

 実際、雄一郎さんは手足にうまく力が入らず、起き上がることもできない状態だった。2か月ほどほぼ寝たきりだったため、筋肉も落ちていくばかり。

子どもたちが美唄市に主に脊髄疾患の患者を診てくださる病院を見つけてくれたんです。私は心臓の状態が悪いので別の病院で心臓にペースメーカーを入れて、美唄で1か月ほど過ごしました。

 2か月も寝たきりでいると、歩くことも忘れてしまっているわけです。なので、全身を支えるロボットスーツを着て、強制的に足を動かす訓練もしました」

 頭をまっすぐにして立つだけで立ちくらみがする。靴も自分で履けない。骨盤底筋機能が元に戻るか否か、つまり排尿をコントロールできるかどうかの問題もあった。しかし、世の成人用おむつは進化し続けている。割り切っておむつを取り入れた。

 ほどなくして雄一郎さんは、住み慣れた札幌に戻る前段階として、一時的に高齢者施設に入った。雄一郎さんには前出の次男・豪太さん、長女の恵美里さん、長男の雄大さんの3人のお子さんもいる。このとき、3人で話し合い、

「少しでも(父を)元の状態に近づけるにはリハビリの組み立てが勝負」

 と、いくつかの医療機関を転院しながらリハビリを進めていく計画が立てられた。

「自分で歩けるようになればいろいろとやりたいことがありました。その目標に向かい、可能性を楽しみながらリハビリに励んだので、つらいということはなかったです」

目標は東京オリンピックで聖火ランナー

 当面の目標は、2021年開催の東京オリンピックで聖火ランナーを務めること。パンデミックによるステイホーム期間を“力を蓄える貴重な時間”と捉えた。目標があると、前向きにリハビリに取り組むことができる。「今週はあれをしよう」「今月までにはこれをしよう」と小さな目標を立て、それをクリアするのを楽しみながらリハビリに励んだ。

 豪太さんも住み慣れた神奈川県・逗子を離れ、一家で札幌に転居してきた。時にリハビリに付き添い、10m、20mと歩行距離を延ばしていく。

 2021年6月、片手にストック、片手にトーチを携えた雄一郎さんは、富士の5合目から150mの距離を聖火でつないだ。

「要介護4となった私にとって富士の5合目に立つことは、かつてエベレスト登頂を目指したチャレンジに匹敵する大きな目標でした。それを達成して記者会見の場を設けていただいたとき、『次は富士山に登ってみたいです』と答えたんです」

 今まで雄一郎さんはひとつの遠征が終わると、すぐに次の冒険を目標に掲げてきた。次は富士登頂だと口にしたが、いきなりだとハードルが高い。そこで、中間目標として、スキーで札幌の手稲山を滑降すると決めた。雪山は平地を行くより筋力とバランス感覚が必要になる。

 ここで、活躍したのが「デュアルスキー」だ。これは、スキー技術がなくても座ったまま滑ることができるスキーのことで、後ろでもうひとりのスキーヤー(有資格)が操作をしながら滑る。

 手稲山で雄一郎さんは、2本のノルディックポールを手に左右のバランスを保ち、疲れてきたらデュアルスキーを使いつつ、目標を達成した。

 驚異の回復力に、手術を担当した医師がもらした言葉を豪太さんは今も覚えている。

「『あまり医者が奇跡という言葉を使いたくはないのですが、雄一郎さんの回復はそういったものに近いですね』とのお言葉をいただきました。頸髄硬膜外血腫は程度の問題もありますので、若かったり、そこまでひどくない方だと完全復帰するケースもあるんです。けれど、父の場合は完全に神経が遮断された状態だったので……」

 はたから見れば奇跡のような現実を引き寄せたのは、雄一郎さん本人の努力も大きい。10年後輩の北海道大学山岳部OBで、三浦家とは家族ぐるみのお付き合いを続けている弁護士の上野八郎さん(81)は語る。

三浦さんは努力もすごいし、意志も強いし、めげない。そして、驕らないんですよね。私は弁護士として脊髄損傷した方の案件も数多見てきましたが、三浦さんの回復力は驚異的なんです。

 かといって物事に固執しない柔軟なところもあってね。だから今までの遠征も多くの人がサポートしてきたし、今回の富士山もそうでしょう。カリスマ性があるんですよね。私はDNAが人とは違うんじゃないかと思っています(笑)」

子どもは叱らず、チャンスを与える

 ここで、三浦家の軌跡を振り返ってみたい。

 雄一郎さんは1932年、青森県生まれ。幼少期は病弱だったが、小学2年生のときにスキーに触れたのがきっかけで本格的にスキーを始めた。父はプロスキーヤーの三浦敬三さん。青森で育った小学生時代、病気がちな母に代わって食事の用意を担当したのはもっぱら敬三さんで、健康への意識が今ほど高くない時代から身体にいい食べ物に関心を持っていた。

「僕の父親は日本の山岳スキー黎明期にアウトドアスポーツや健康、食べ物といろんなことを模索し、それを文章で表現するのが好きな人でした。僕もある程度それを受け継いでいると思いますし、これから先もそれを続けていきたいと思っています」

 1962年、29歳でアメリカのプロスキー選手権に出場した雄一郎さんは、1964年スピードスキーで当時の世界記録を樹立。その後、37歳でエベレスト8000mからのスキー滑降を含む7大陸最高峰からのスキー滑降を成功させた。

 プロスキーヤーとして、冒険家として、数々の偉業を成し遂げ、日本のアウトドアシーンを切り開いてきた。その生き方に憧れた多くの若者があとに続き、新たな裾野が広がった。

 奥さんの朋子さんとは学生結婚。その後、子どもが3人できたのは前述のとおり。実は豪太さんも、恵美里さんも、雄一郎さんに一度も叱られたことがないという。

「うちはどうやら、人を怒ったり、貶めたりということは代々しないキャラクターみたいです。僕自身も父に叱られた記憶はないですから。ただ、チャンスを与えるということはしてもらったし、してきたと思います」

 雄一郎さんが恵美里さんに与えた最初のチャンスは、小学校卒業後12歳でのアメリカ留学。

「言葉が通じないこともあって、当然ホームシックにはなったんですけど、あの時代はLINEもないし、簡単に国際電話をかけられるような時代でもない。父に『帰りたい』とは伝えられませんでした(笑)。だけどその結果、今があると思います」(恵美里さん)

 恵美里さんは現在、父や弟の夢や冒険を支えるミウラ・ドルフィンズの社長を務めている。海外番組のリポーターなどで、世界32か国を訪れた国際派だ。

 家族で何度もキャンプや登山も経験した。そこで育まれたのはチーム三浦家の結束力。恵美里さんがプロデューサーとして全体を把握し、雄大さんは状況を俯瞰し、緻密に考えてやるべきことを的確にやる。豪太さんが現場で身体を動かす。三者三様の特性を活かすことで、チームはより強く、できることも広がっていく。

 介護の方向性の話し合いが難航せずに済んだのも、チームの結束の賜物だろう。

父と息子の活躍に刺激を受けたメタボ期

 よき父でもある雄一郎さんだが、食べること、飲むことが大好きで、人並みにサボり癖や怠け癖もある。60歳で一度引退を決め、気がつけば65歳で164cm、88kg。明らかなメタボ体形になっていた。その上、不整脈、高血圧、高脂血症を患い、医師に「3年以内が危ない」と余命宣告を受けてしまう。

「片や父の敬三は90歳を超えてからも年間120日以上スキーを滑り、99歳の白寿のお祝いにモンブラン山系最大の氷河、ヴァレー・ブランシュからのスキー滑降を成功させました。次男の豪太はフリースタイルのモーグル種目で2回のオリンピック出場を果たしています。それに比べて自分は何をしているんだ?と」

 一念発起して、70歳でエベレスト登頂に挑むと決めた。しかし、厳しいトレーニングや食事制限は老体にこたえる。無理せず、基礎的なトレーニングを5年計画で段階的に進め、コツコツ身体をつくっていった。

 最初は札幌の自宅付近にある標高531mの藻岩山へ25kgの荷物を持って出かけた。そのときは途中でダウン。しかし、気持ちが折れることはなかった。

「子どものころから、目標と定めたことを、どうしてもやり遂げるんだという思いでやってきましたし、そのための訓練もしてきました。その繰り返しが諦めない強い心を育んでくれたと思います。目標には不思議な力があって、持つと歩みを後押ししてくれます。ですから、誰でも、何歳になっても再出発はできると思います。設定する目標は、お店みたいな料理を作るとか、絵を描くとか、やりたいことなら何でもいいと思います。力まなくていいですから、一歩ずつ自分の道を歩んでいく。そういうことが大事なのかなと思います」

 若いころは両足首に重りをつけ、さらに重りを入れたザックを背負い、10kmも20kmも歩いた。雄一郎さんはこうした負荷をかけたウォーキングを「ヘビーウォーキング」と呼ぶ。当時を思い出しながらトレーニングの計画を立て、食生活を見直す。

 有言実行。雄一郎さんは70歳、75歳、80歳でエベレスト登頂を成し遂げた。80歳はエベレスト登頂の最高齢記録だ。

 次に雄一郎さんが掲げたのはアルゼンチンとチリに跨るアコンカグア。86歳で挑んだ南米最高峰の山だが、このときはドクターストップがかかり、目前で登頂を断念した。

進行性の難病を患う女性が教えてくれたこと

 2021年、雄一郎さんは富士の山頂に立つべくリハビリを続けていた。休養も運動のうちと考え、疲れをためないよう適宜休む。と同時に、「餅は餅屋」と考え、専門書を読み、その道に明るい専門家やプロフェッショナルがいると聞けば、連絡を取ってアドバイスを請うた。

「僕はもともと自然科学を学んできましたし、獣医師でもあるので、科学の基本というか、情報収集がすべての基本だと思っているところがあるんです。それに、冒険と科学はまったく一緒なんですよ。どちらも未知の分野に分け入っていくわけですから」

 そういった雄一郎さんの考え方が、新しいものを柔軟に取り入れる姿勢を育んだ。富士登山に向けて、三浦家が新たに導入したものがある。それは、「ヒッポキャンプ(以下、ヒッポ)」というアウトドア用の車椅子だ。

 今から十数年前、三浦家にある依頼が舞い込んだ。依頼主は、全身の筋肉が少しずつ衰える進行性の難病・遠位型ミオパチーの女性・中岡亜希さん。依頼内容は、「富士山に登るサポートをしてもらえませんか?」というもの。

 その思いと熱意に感銘を受けた雄一郎さんと豪太さんは、実現に向けてプロジェクトを組んだ。そのときは中岡さんが乗る特殊な車椅子をみんなで引っ張り、「富士山に登りたい」という中岡さんの強い気持ちがチームのみんなを引っ張った。

 この経験から中岡さんは、障がいがあってもスムーズに登山できる道を模索し、ドイツの見本市でフランス製のアウトドア用車椅子「ヒッポ」に出会う。そして、自ら会社を設立し、日本にそれを輸入することにした。前述の着座式スキー「デュアルスキー」を日本に初めて輸入したのもこの会社だ。

「メディアに取り上げられたとき、周りの人たちが大変な思いをしているように描かれることがあって、中岡さんは見知らぬ人から『人に迷惑をかけちゃダメじゃないか』と言われたこともあったそうです。だけど、中岡さんも、仲間も、そして僕らも、対等な関係にある同じチームの仲間として、みんな一緒に楽しみたいという考え方なんです」(豪太さん)

 障がいがある人も、体力が衰えた高齢者も、どんな人でも求める限り、山に登ったり、スキーができるような環境をつくっていきたい─。もともと運動生理学を学んできた豪太さんは、ステイホーム期間中に「IOI(Inclusive Outdoor Activity Instructor)」の資格を取った。障がいの有無や年齢にかかわらず、多様な人々が共に自然を楽しむ取り組みを「インクルーシブ野外活動」という。IOIとは、このインクルーシブ野外活動の指導員の資格のこと。

 この分野はまだ白紙状態で、山で景色を眺めたり、冷たい川に触れたり、海に入ったりと自然の力を借りることで、その人の精神や肉体に今の医学や数値では測りきれない、それこそ「奇跡」と呼びたくなるような影響があるかもしれない。そして、この分野の研究が進むにつれ、「奇跡」の全容が解明されるかもしれない。そんな豪太さんの取り組みやヒッポの可能性に、雄一郎さんも大いに賛同している。

「今は日本におけるアウトドア用車椅子の開拓期。今後どんどんその概念が広まり、日本でも開発されるようになれば、いいものができるんじゃないかと思っています。インクルーシブ野外活動もいい運動ですよね。誰でも自然体験ができる社会が実現したら、どんなに素晴らしいだろうと思います」

要介護4から富士山頂への挑戦

 手稲山で手応えを感じた雄一郎さんは、富士登頂を前に、大雪山からのスキー滑降を次の目標に定めた。北海道最高峰の旭岳を有する大雪山は、山岳スキーのフィールドでありつつ、いざというときのエスケープルートがある。もしものためにデュアルスキーを用意し、それをサポートするためのメンバーが15人集まった。

 雄一郎さんの腰にロープを回し、豪太さんが後ろから引っ張るスタイルで雪山を滑り降りる。このとき、雄一郎さんは一度も転倒せずに自分の脚で滑り切った。

「なじみのある北海道の最高峰でスキーを楽しむことができたのは、大きな光になりました」

 さあ、次は富士山だ。

 できるだけ自分の脚で歩きたいとの思いはあるが、身体にまひが残り、一度転んで起き上がれなくなったこともある。無理をせず、基礎的な体力、持久力をつけ、上半身と下半身に筋力がつくよう目標ごとの個別トレーニングを行った。

 コンディションは右肩上がりではなく浮き沈みがあり、調子がいいかと思えば身体のしびれがひどくて立てないこともあった。しかし、それもまた雄一郎さんにとって好奇心を刺激する要素となった。

「昔から『なぜなんだろう?』という強い疑問というか好奇心を持ち、その疑問を解決すべく、自分で調べたり、その分野で知見を持つ方にアドバイスを請うてきました。今、自分がいちばん疑問に思っているのが自分の身体のこと。長い間正座をしていると足がしびれてきて、立ち上がるとよろよろしますよね。あれと同じことがずっと続いている状態なので、なぜ両足のしびれが取れないのかがもっぱらの疑問なんです」

 前向きにリハビリに取り組む雄一郎さんだが、富士山には不規則な道や急斜面もある。サポートメンバーの疲労もかなりのものになるだろう。そこで、「ヒッポ」を引っ張るために家族や雄一郎さんの友人、教え子らが32人集まった。8人1組で4グループが交替でヒッポを引っ張るのだ。

 8月29日朝。初日は5合目からスタートした。これから3日かけて頂上を目指す。今までに雄一郎さんは100回以上富士山に登ってきた。それでも、思った以上に浮き石に足をとられた。ふわふわの地質で足が深くめり込む場所もあった。

 そこで「ヒッポ」が大活躍した。登山用のロープを使い、引っ張る人と左右で平衡を保つ人、後ろで指示する人に分かれ、雄一郎さんの身体が左右に振れないようフォーメーションを組む。

 翌30日は9合目の山小屋に宿泊し、雄一郎さんは大好きなカレーを食べた。そして31日の朝、とうとう雄一郎さんは富士の頂に立った。要介護4になってから3年と2か月後のことだった。

「富士の斜面は本当に急で、非常にざらついているんです。そんな場所で、みんなが汗水をたらし、はぁはぁ荒い息をしながらも楽しそうにヒッポを引っ張ってくれて、それを含めた富士の景色が本当に素晴らしかったです。これも、息子の豪太を含めたみんなの助けがあってこそ。もちろん自分自身も達成感がありましたが、それ以上にサポートしてくれたみんなが喜んでくれて、それがとてもうれしかったです」

次なる目標はヨーロッパ最長の氷河

 雄一郎さんの教え子や、その思想に感じ入って同じ道を歩んできた人たちが、今度は雄一郎さんが乗ったヒッポを引っ張り上げる─。まるで人生の縮図のようだった。その後、メンバーは誰ひとりケガすることなく無事に下山した。

 雄一郎さんが富士山頂に立ったニュースはあらゆる媒体で取り上げられ、その情報はSNSを駆け巡った。称賛や驚き、活力をもらったなどのコメントの中には、「(山岳用車椅子を使い、人に引っ張ってもらう登山は)登山といえるのか」といった声もあった。そのとき、豪太さんの胸中にあったのはこんな思いだ。

「父は思いや考えを言語化するのが昔からうまい人。特に僕が名コピーだと思っているのは『言葉は風』というもの。激しい言葉は受け止めずに受け流すって意味なんですが、僕自身も『あれは登山とはいえない』と言っている人にあえて反論せず、受け流そうと思っています。それこそ美学の違いになってしまいますので、埒があかないと思うんです。ただ、そこを否定するのであれば、今世間が唱えているインクルーシブとか、SDGsであろうっていうのは言葉だけなの?という思いはあります」

 当の雄一郎さんはといえば、疲れもあって下山後2日間は暇さえあれば寝ていたという。しかし、インタビュー当日(下山から3日後)は、たっぷり寝て心機一転。日に焼けた顔も豊かな白髪もいきいきと輝いている。

「あ、(顔が)光っているのは、日焼け止めの薬を塗っているからです(笑)」

 杖をつき、偉業を成し遂げたとは思えないほどの通常モードで、取材陣を笑わせる雄一郎さん。この日の取材場所は東京の事務所だったが、現在は妻の朋子さんと共に札幌のサービス付き高齢者住宅で暮らしている。

「今は朝起きるのが7時半ぐらい。8時半に朝ごはんを食べて、リハビリをして、それからお昼ごはん。朝昼晩と3食付いているので、あとはテレビを見たり、家内と雑談をするぐらいとのんきなものです。今いるレジデンスでの料理だけだと物足りなく、たまに豪太に頼んで外食に連れ出してもらうのが楽しみで。事務所近くにも美味しいステーキの店があるんです。富士登山の直前も行きましたが、明日あたりまた連れて行ってもらおうかな」

 明るく笑う雄一郎さんだが、普段は強い意志で食事の節制を行っているのを先述の上野さんから伺っていた。それは身体づくりの意味もあるのだろう。では、その先にある次なる挑戦の舞台は?

「できれば、フランスのアルプス山脈にあるヴァレー・ブランシュをスキーで滑ってみたいと思っています。私の父・敬三が99歳のときに一緒に滑ったヨーロッパでいちばん長い氷河なんですが、そこを思うままに滑ってみたいです。今のところ、目標は2年後かな」

 冒険家の胸中は、今もたぎっている。

<取材・文/山脇麻生>

やまわき・まお マンガ誌編集を経て、フリーライター&編集者に。『朝日新聞』『本の雑誌』などにコミック評を寄稿。各紙誌にてインタビューを執筆。『まんが!100分de名著マルクス・アウレリウス自省録』(監修・岸見一郎)などのシナリオも手がける。

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