「お金に執着も名誉欲もない」40歳で作家デビューしたゲイバーママが語るブレない“生き方”

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2023年11月12日 16:00  週刊女性PRIME

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作家・ゲイバーママ伏見憲明さん(60)撮影/渡邊智裕

「たまに“若い人を育てている”と言われるんだけど、自分では“近所のお節介なおばちゃん”みたいなものだと思っている。あと、昔から、“正義”を振りかざす人や、やたらと倫理を重視する考え方に対して批判的で、違うことは違うと言いたいタイプ。でも、お節介なご意見番って、いちばん煙たがられるんだよね(笑)」

ゲイのライター・評論家としてデビューした伏見憲明

 32年前、『プライベート・ゲイ・ライフ』(学陽書房)を刊行し、ゲイのライター・評論家としてデビューした伏見憲明。20年前には初めて書いた小説で第40回文藝賞を受賞し、これまで数多くの著作を世に送り出している。

 一方で、伏見には「新宿二丁目のバーのママ」としての顔もある。50歳のときにオープンしたバーには、10年たった今も、老若男女、セクシュアリティを問わず、さまざまな客が訪れる。

 くしくも10年ごとに新たなことに挑戦してきた伏見だが、その道のりは決して平坦なものではなかった。私は、伏見とは30年の付き合いになるが、人一倍情に厚く、優れたバランス感覚の持ち主でありながら、非常に誤解を受けやすい人だとも感じている。

 そんな彼は、還暦を迎えた今、何を思うのか。起伏に富んだ半生を振り返りつつ探っていきたい。

「オトコオンナ」と言われて

 伏見は1963年、東京都で生まれた。物心ついたときから、一人称は「あたし」。野球よりもバレーボール、少年漫画雑誌よりも少女漫画雑誌を好み、「オカマ」「オトコオンナ」などとからかわれた。

「僕が好きなことをやろうとすると、周りの大人たちが困ってしまって、なんとか僕を『普通の男の子』にしようとする。“バレーボールじゃなくて野球をやりなさい”と言われたり、通知表に『もう少し男らしくしてほしい』と書かれたりしたこともあった。ただ、母から自分がやりたいことを“やめなさい”と言われたことはなかった。僕の自己肯定感が保たれたのは、母のおかげかもしれない。誰かに肯定されるって、とても大事なんだよね」

 初めて同性への恋心を意識したのは中学生のときだったが、その相手とは「大親友」止まり。「ゲイの街」として知られる新宿二丁目に初めて足を踏み入れ、そこで出会った男性と性的な関係を持ったのは、高校3年の夏だった。

 ミュージシャンを目指し、音楽高校に通っていた伏見だが政治にも興味があり、サークルやミニコミ誌を作ってネットワークを広げているうちに、政治家・運動家の小沢遼子らと知り合う。やがて伏見は、ゲイ・リブ(同性愛者の社会的差別や抑圧などを解消しようとする活動)に関心を抱き、ライブでもゲイとしてトークをするようになる。

 伏見にテレビ出演の話が舞い込んだのは'87年のことだった。当時、伏見は就職せず、実家に住みながら塾講師などのアルバイトをしていた。はっきりと伝えてはいなかったものの、母親は伏見がゲイであることにうすうす気づいており、父親はその直前に、がんで亡くなっていた。

 伏見がテレビ出演を決めたのは、ゲイのミュージシャンとして世に出るための、ひとつの足がかりになるかもしれないと思ったためだ。しかし、親族から猛反対にあい、伏見はやむなくテレビ出演を断念することとなった。

初の著書で、ゲイであることをカミングアウトする

 4年後の'91年、27歳のときに、知人の編集者の企画により、初の著書『プライベート・ゲイ・ライフ』を出版。ゲイであることを公にカミングアウトした。もっとも、伏見は特に本が好きだったわけでも「作家になりたい」と思っていたわけでもなかった。

「当時は、同性愛を肯定する言葉や本、情報などがほとんどなく、自分たちを肯定するものがもっと必要だという思いが強かった。それから、個人的には、テレビ出演を諦めたことで、“なぜ悪いこともしていないのに、自分を否定しなければいけないのか”と自分を許せなくなった。本を出すことで、その気持ちに決着をつけようと思ったんだよね」

 今のように、多くの文献があるわけではなく、「ジェンダー」という言葉すら一般的ではなかった時代。なんでも自由に書くことができる一方で、道なき道を行く苦労もあった。執筆にあたっては、パートナーの存在が大きかったという。

 パートナーと出会ったのは26歳のとき。なかなか恋愛がうまくいかず、「どんな相手であっても、次に知り合う人を大事にしよう」と覚悟を決めた矢先だった。お互いに、見た目はそれほどタイプではなかったものの、「今まで出会った誰よりも言葉が通じ、わかり合える」という感覚があった。本の内容についてのアイデアを語る伏見の言葉に、パートナーは真摯に耳を傾け、アドバイスもしてくれた。30年以上たつ今も、パートナーとの関係は続いている。

『プライベート・ゲイ・ライフ』は話題を呼び、伏見の元には執筆依頼やメディア等への出演依頼が舞い込むようになった。以後、伏見はゲイのライター・評論家としてさまざまな書籍を出版し、雑誌の連載やコラムなどを手がけるようになる。

 私が『プライベート・ゲイ・ライフ』を読んだのは、出版の翌年だった。軽快な語り口で自分の思いを赤裸々に語り、セクシュアリティの構造を解き明かすその内容に目からうろこが落ち、元気づけられた。その2、3年後には、共通の知人を介して伏見と言葉を交わすようになったのだが、本格的に親しくなったのは、'99年に『クィア・ジャパン』(勁草書房)への寄稿を依頼されてからだ。

「当事者が発信できる場所」を目指して雑誌を創刊

『クィア・ジャパン』は、伏見が編集長となって作った雑誌で、'99年から2001年までの間に5号が刊行された。伏見の長年の友人である作家の斎藤綾子やライターの松沢呉一から、初めて商業誌に文章を寄稿するゲイの大学生やドラァグクイーンまで、執筆陣の職業もセクシュアリティも年齢もバラエティに富んでいた。「魅惑のブス」をテーマにした第3号の表紙には、テレビで本格的に活動する前のマツコ・デラックスが起用され、「夢見る老後!」をテーマにした第5号には、女優の故・岸田今日子や作家の故・瀬戸内寂聴が登場している。

 伏見が『クィア・ジャパン』の発刊を志した理由のひとつに、「パレードの復活」がある。'94年、ゲイの活動家の南定四郎が、東京で初めて、セクシュアルマイノリティのプライドパレードを開催したが、2年後に行われた第3回でもめ事が起こり、空中分解してしまった。伏見は「東京にはまだ、プライドパレードが必要だ」と感じており、そのために発信力のある媒体を持っておきたいと考えたのだ。

 また、「セクシュアルマイノリティの人たちのムーブメントを起こしたい」という思いもあった。当時はセクシュアルマイノリティ当事者として情報を発信する人、何かを表現する人がまだ少なく、ハードルも高かった。そのため、伏見は発信できる当事者を探し、さまざまな人に声をかけていた。

「『クィア・ジャパン』を出したころ、レズビアンやゲイ、バイセクシュアルやトランスジェンダーだけでなく、さまざまなセクシュアリティの人たちが現れ始めていて、その差異がとても面白かった。『この社会にはいろんな人がいろんな形で存在している。それをみんな肯定しようよ』『既存の窮屈な価値観から解放されて自由になろうよ』というポジティブさで突き進んでいける感覚があった。でもそれが行きすぎると、ブレーキをかけざるを得ない部分も出てくるし、人のあり方や考え方が細かく分かれすぎて、方々で利害の対立が起こってくる。もしかしたらあれが、『いろんな価値があり、いろんな性がある』ことを明るく楽しめた、最後の時代だったのかもしれない」

40歳で小説家デビュー

 '03年、伏見にとって何度目かの転機が訪れた。知り合いの編集者に小説を書くことをすすめられ、自身の体験をベースに、ゲイの主人公と母親との関係を描いた作品『魔女の息子』が第40回文藝賞を受賞。40歳で、小説家としてデビューすることになったのだ。

人間って、実際には複雑で奥行きがあるのに、社会批評的なノンフィクションばかり書いていると、物事をどうしても構造的に捉えたり、パターンで考えたりしてしまい、どんどん自分が薄っぺらになっていくような気がした。だから小説を書いてみたんだけど、ノンフィクションを書くときとフィクションを書くときとでは、脳の使っているところが全然違う。

 その経験は自分にとって重要だなと、小説を書きながらあらためて思った。社会に向けて出した感覚が強い『プライベート・ゲイ・ライフ』なんかとは違って、小説は自分のために書いているところがあるかもしれない。ただ、小説は、嘘を書いているのに本当が出ちゃう。ノンフィクションの本は読んでほしいと思うけど、小説は“体臭を嗅がれているような気がして恥ずかしい”と思う自分もいる(笑)

 一方で、小説は母のために書いたという思いもある。それまでにも、著書や掲載された雑誌など、自慢できそうなものを見せたことはあったが、母親は「良かったねえ」と言う程度だった。ところが、飼っていた猫がテレビに出演することになったとき、母親が親戚中に自慢している姿を見て、伏見は「僕がメディアに出るのはやはり嫌だったのだろうか」「小説の賞がもらえたら、喜んでもらえるのではないだろうか」と思ったという。

新宿二丁目のバーのママに

「東京レズビアン&ゲイパレード2001」の実行委員長でもあった、知人の福島光生が新宿二丁目で開いていたゲイバー「mf(メゾフォルテ)」を毎週水曜日だけ借りて、「エフメゾ」というバーをスタートさせたのは、'08年のことだ。

 ゲイバーをやってみたいと考えたのは、「収入源を複数にしておきたい」と思ったこと、そして「自分の居場所となるバーをつくりたい」と思ったことが大きな理由だった。ゲイバーに飲みに行くことはしばしばあったが、それまで「自分の居場所だ」といえるような店はなかった。それなら、自分で自分の居場所をつくってみたいと考えたのだ。

 エフメゾには、伏見の古くからの友人、伏見の本の読者、非常勤講師をしていた大学の学生などが訪れ、にぎわった。その経験を踏まえ、2013年には自身の店「A Day In The Life」をオープンさせた。店名は、伏見が愛するビートルズの曲のタイトルに由来している。その曲は、ジョン・レノンとポール・マッカートニーの共作で、2人の個性が生かされつつ見事に融合している。同様に、人と人をつなげることで、それぞれの個性を生かしつつ新しいものが生まれたら……という思いが、店名には込められている。

「お店の名前がなかなか決まらなかったんですよね。でもある日、伏見さんから『A Day In The Life』にすると連絡が来たんです。『わざと長ったらしくて略しづらい名前にしたの』なんて言ってたけど、いつの間にか伏見さんもみんなも『アデイ』って略してる。一度も縮めて言ったことがないのは私だけです(笑)」

 そう語るのは、現在、同店の木曜日を任されている真紀ママだ。

 真紀ママは4人家族の主婦であり、男性同士の恋愛を扱った創作物を好む、いわゆる「腐女子」でもある。『プライベート・ゲイ・ライフ』をはじめとする伏見の著書を読んでおり、伏見がゲイバーをやっているとの情報を得てエフメゾを訪れ、常連となった。エフメゾでは、やはり常連の作家・中村うさぎが中心となり、課題図書を読んで参加者が感想を言い合う「読書会」が時折行われていたが、そうした活動にも積極的に参加。

「エフメゾは、いろいろなお客さんがいて、まじめな話もふざけた話もできて、楽しかったし行きやすかったですね。深夜になると、伏見さんがカウンターから出てきて、中村うさぎさんと話し始めるんだけど、その内容が刺激的で面白くて。読書会でも、伏見さんの感想は、ほかの人と視点がまったく違っていて、いつも『さすがだな』と思っていました」

「新しい店で曜日ママをやってほしい」と頼まれたときは二つ返事で引き受けた。

 伏見の願いどおり、『A Day〜』からはさまざまなものが生まれている。水曜日担当のスタッフ・あっきーを中心とする「二丁目文芸部」は、新宿二丁目にまつわる物語を集めた同人誌『或る日』を、これまでに2冊刊行。現在、私が所属しているドラァグクイーンの歌手ユニット「八方不美人」結成のきっかけが生まれたのも、同店だった。

30歳下のスタッフへの思い

 現在、『A Day〜』には3人の「曜日スタッフ」や、数人のアルバイトのほかに、伏見の手足となって切り盛りする店長の「こうき」がいる。

 1993年生まれのこうきが、初めて伏見と言葉を交わしたのは10年前。スタッフの1人に誘われ、店を訪れたときだった。

 こうきの、伏見に対する第一印象は「オネエなおばさん」だったが、今、こうきにとって伏見は「大切な人」に変わっている。

「以前、高熱が出て、歩けないくらい具合が悪くなったことがあったんです。そのとき伏見さんがすごく心配して、“病院までついていってあげようか?”と言ってくれて。両親から虐待されて育った僕は子どものころから、おばあちゃん以外の人に心配されることがなかったので、とてもうれしかったし、“親ってこういう感じなのかな”“僕が今、伏見さんに対して抱いている気持ちは本来、人が親に対して抱く感情なのかな”と思いました」

 自分が虐待児だと気づいたのも伏見と出会ってからだった。過酷な幼少期について淡々と語りつつ、魂の叫びにも似た強烈な絵を描くこうきに、伏見や中村うさぎは強い関心を抱いた。そして、クラウドファンディングで費用を募り、こうきに自らの被虐待体験を描く絵本を出版させた。

 店でさまざまな客と接する中で、こうきは自分の内面と向き合い、自分の将来についても考えられるようになった。また、伏見はこうきに中国語を学ぶことをすすめ、家庭教師の費用や台湾への短期留学の費用も、すべて伏見が負担したという。

 こうきとの関係性について、伏見は次のように語る。

「年齢を重ねるにつれ、子どもや老親、ペットなど『社会的に立場が弱い存在や傷つきやすい存在』と関わっていくことは、人間にとって必要ではないかと感じるようになった。『誰かのために生きる』といった高尚なことではなく、そうした存在がいることで、自分も承認されていると感じられるし、心が安定するんだよね。ただ、僕自身は子どもを持ちたいとも養子を迎えたいとも思ったことはない。今、勝手に“こうきの烏帽子親”と名乗っているけど、ちょっと距離があるくらいの関係性がちょうどいいかなと思っている」

 一方で、伏見は「僕の勝手な思いでお節介を焼いて、こうきに申し訳ないと思っている。このゲームは彼が“やめた”と言ったら終えるつもりだ」とも語るが、こうき自身は伏見のそうした愛情を、特に重いと感じたことはないらしい。

 そんな伏見とこうきについて、真紀ママは語る。

こうきくんのことは、お店に入ったときから見ているけど、ずいぶん大人になったなと感じます。周りの人のことを考えられるようになったし、今ではこうきくんがいないと店が回らないくらいよく働いています。

 伏見さんが素敵だと思うのは、今まで人から裏切られたり、つらい目に遭わされたりしたこともあるのに、それでも人を信用しているところですね。あれだけ賢い人が、損得勘定もなしに、他人のために行動できるのはすごいこと。お金に執着もないし、名誉欲もない。とても純粋な人だと思います

 しかし伏見は、「先のことを考えるとつらくなる」と笑う。

「エフメゾのころは週一だったから、お客さんがたくさん来てくれたし、経理もやらなくてよかったし、みんな若くて元気だった。でも、いざお店を出したら、開店3日目には客が7人に。そこからは苦難の歴史」

 なお、若者の文化や流行を知ったり、恋愛模様を眺めたりすることができるのも、店を開いてよかったことのひとつだと伏見は言う。

「コロナ禍の反動か、最近、うちの店で恋愛が盛り上がっている。おかげで店が活気づいてありがたいです。僕自身はもう、恋愛感情で揺れ動いたりするのは嫌だけど(笑)」

「証拠を残すこと」こそが自分の終活

 近年、伏見はしばしばSNSなどで、セクシュアルマイノリティの権利を求める活動に対し、苦言を呈している。そんな伏見に対し、「保守化している」といった印象を抱いている人も少なくない。しかし、伏見は自身について、「年齢を重ね、さまざまなことがわかってきて、『自分の考えは正しいのだろうか』と迷うことは、昔より多くなった。でも昔から、迷うことが大事だと思っているし、迷いながらも、自分が現時点でやるべきだと感じたことをやってきた。その生き方にブレはない」と語る。

「僕が言いたいのは『ちゃんと議論をしようよ』ということ。マイノリティだからといって、必ず正しいわけではないし、マイノリティ側の要求や言動に対して疑問を持っただけで『差別者』と言われてしまうのは、やはりおかしいと思う

 また、今、セクシュアルマイノリティに関することだけでなく、さまざまな場面できちんと議論をしないことが当たり前になりつつあること、「誰かがどこかで決めたこと」がまかり通る社会になりつつあることもつらさを感じているという。

「こうした風潮が強くなっていった先に、自分にとって安穏な晩年が待っているとは思えない。だからといって、自分の力で社会を変えられるとも思えない。ただ少なくとも自分はこのときに、こんなことを考えていたという証拠だけは残しておきたいし、そこにアクセスしやすい状態にはしておきたい。それが、僕にとっての終活だと思っている」

<取材・文/エスムラルダ>

エスムラルダ '72年大阪生まれ。一橋大学社会学部卒業。'94年以降、ドラァグクイーンとして各種イベント・舞台公演・メディア等に出演。脚本家・歌手・俳優など多彩な顔を持つ。

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