2017年夏の甲子園準優勝 広陵を支えた背番号18の主将が中村奨成に送るメッセージ「プロ野球が終わった時に周りに誰もいなくなるぞ」

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2023年12月13日 10:31  webスポルティーバ

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 野球界では、秋は別れの季節だ。春から続く長いシーズンが終わり、さまざまな選手がユニフォームを脱ぐことになる。引退セレモニーで盛大に送り出されるスターもいれば、ひっそりとロッカーから荷物を運び出す選手もいる。

【チームをまとめ夏の甲子園準優勝】

 2017年夏の甲子園で準優勝した広陵(広島)でキャプテンをつとめた岩本淳太から筆者に電話がかかってきたのは、高校野球の東京都秋季大会準決勝の最中だった。

「このたびユニフォームを脱ぐことになりました。最後に練習試合に登板させてもらうことになったので、お知らせしようと思いまして......」

 あの夏の甲子園は、ひとりの怪物の登場に沸き立っていた。

 広陵の主砲・中村奨成(現・広島)が、PL学園(大阪)の4番打者だった清原和博選手(元西武など)によってつくられた1大会最多本塁打記録を超える6本塁打を放ったからだ。

 捕手で3番に座る中村が強打と強気なリード、強肩でチームを率い、広陵は中京大中京(愛知)、秀岳館(熊本)、仙台育英(宮城)、天理(奈良)など強豪を次々と撃破し、決勝まで駒を進めた。決勝戦では花咲徳栄(埼玉)に敗れたものの、その夏の主役は中村と広陵の選手たちだったと言っていい。チームをまとめたのは岩本淳太、背番号18のキャプテンだった。

 高校入学直後に144キロのストレートを投げ込みチームメイトを驚かせた剛腕は、二度も右ヒジ手術をするなど、満足なプレーができなかった。甲子園でも出番なし。だがイニングの合間や試合の前後、選手たちのすぐ近くには岩本の姿があった。チャンスで凡打した選手や降板したピッチャーに声をかけるのも大事な仕事。決勝戦で敗れ涙を流す中村を慰めたのも岩本だった。

 レギュラー選手を支えるキャプテンの存在がなければ、広陵が決勝まで勝ち上がることはできなかっただろう。

【チームへの献身が認められて大学進学】

 そんな彼のことを認めてくれた人がいた。広陵の中井哲之監督が言う。

「上武大学の谷口英規監督に『ぜひほしい』と言っていただきました。甲子園での実績もないし、ヒジの手術もしたのに。淳太の生き方を見て、広陵のキャプテンだということでとっていただきました。淳太には『おまえ、プロになれよ。お母ちゃんにラクをさせてやれ』と言いました。そんなこと生徒に言ったのは初めてです。淳太はそれだけの力を持っていますから」

 2017年に準優勝したチームは、1年間で3人もキャプテンが入れ替わった。はじめは外野手の佐藤勇治、そのあとが中村、3年春になって任されたのが岩本だった。岩本が言う。

「ある日、『淳太、今からおまえがキャプテンをやれ!』と中井先生に言われました。僕は中井先生に『奨成じゃないとダメです。奨成をキャプテンにしてください』と言ったのですが、聞き入れてもらえず、僕がキャプテンをすることになりました。自分ではキャプテンを支える立場ならチームの役に立てると思っていましたが、キャプテンなんてとてもとても......自分でつとまるのかという不安がありましたが、中井先生にそう言われたらやるしかない」

 中井監督は「ほかにろくなやつがおらんのじゃけ」と言いながら、すぐに指示を出した。

「これまで野球ができずに一番悔しい思いをしてきたのはおまえやろ? どういう思いで野球をしとるのか、全員に浸透させろ」

 キャプテン指名を受けた岩本はすぐに中村のところに向かった。

「監督室を出て、先に歩いている奨成の後ろ姿を見て言いました。『オレに技術がないのはわかっとるやろ? おまえが試合ではゲームキャプテンとして、技術でチームを引っ張ってくれ』と言いました。僕はチームをひとつにすることだけを考えるようにしました」

 岩本がみんなに徹底したのは、この3つのこと。

誰かのために
人を裏切るようなことはしない
まわりを笑顔に

「野球をすることで恩返しできれば最高ですよね。人を裏切るような人間にツキが巡ってくるはずがありません。誰かを喜ばせれば、自分もうれしくなるはずです」

 レギュラーと補欠のミーティングを続けた結果、「控え選手がいるからメンバーがある」という共通認識ができあがり、広陵は甲子園の決勝戦まで駒を進めることができたのだ。

【甲子園準優勝から6年後の決断】

 高校3年の秋にトミー・ジョン手術を行ない、大学入学後もリハビリに費やした岩本は、上武大学4年春にリーグ戦で初登板を果たした。しかし思うようなピッチングができず、そのあとの全日本選手権でのベンチ入りはならなかった。

 大学卒業後はJPアセット証券に入社。社会人野球でプレーし都市対抗の二次予選などにも登板したが、この秋限りでユニフォームを脱ぐことになった。

 11月8日、小雨が降る江戸川球場のマウンドに立ったのは9回表、ツーアウトの場面。スリーボールから3球ストライクを投げ込んで三振。

「淳太、ナイスピッチング!」

 平日昼間の球場にいた観客は50人ほど。最後の登板を笑顔で終えた岩本に選手と観客から拍手が贈られた。華やかなセレモニーはなかったが、岩本にとって大きな区切りとなった。

 現役生活を終えた岩本は、野球人生をこう振り返る。

「高校1年生の秋と、2年の秋に手術をしました。リハビリをして投げられるようになってからも、ヒジには痛みが残りました。痛み止めの注射を打ちながらやっていたんですけど、3年生になる春に『高校野球はあきらめたほうがいい』とドクターに言われてしまいました。先の野球人生を考えて、今はヒジを休ませる時だと思いました」

 そんな時に、中井監督からキャプテン就任の指令が下ったのだ。

「キャプテンとして、下を向いている暇はない。必ず広陵を日本一にする」

 上武大学でのリーグ戦登板はわずか2試合に終わった岩本が社会人野球に進むことできたのは、潜在能力と野球に取り組む姿勢が評価されたからだ。

「JPアセット証券(2019年に日本野球連盟に新規加盟)に入ったのは、野球も仕事も100%やるという方針に惹かれたから。証券会社で働くことについて、はじめは不安しかありませんでした。知識もないし、全然わからない世界ですけど、先々のことを考えたら絶対に覚えたほうがいい。証券外務員になるための試験があり、もちろん受からないと営業はできません。かなり苦戦しましたが(笑)、ようやく合格できた時には、会社の方々に人より迷惑をかけた分、誰よりも早く昇格しようと決意しました」

 証券マンとしてスタートを切った岩本は、社会人になっても故障に悩まされた。1年目の秋にまた手術をすることになったのだ。

「肩とヒジの手術をしました。もちろん、プロ野球選手になりたいという気持ちはずっとありましたが、リハビリをして投げられるようになっても最速が130キロ台で......肩にもヒジにも違和感がずっと残っていました」

【問題を起こした中村奨成に言ったこと】

 中井監督に「プロになれよ」と言われた岩本だが、それを目標にすることができなくなっていた。

「体の状態、今の技術を考えると、プロに行ける可能性はほぼ100%ない。アマチュアのなかでもトッププレーヤーしか行くことができない世界に、今の体で向かっていくのは現実的じゃないと思いました。だから、野球を引退するという決断をしました。たくさんの方々のおかげで社会人野球までくることができ、応援していただいた方々に本当に心から感謝しています。自身のなかで悩み、考え、ここで区切りをつけようと思いました。将来的には、プロ野球や社会人に進んだ同期や後輩をサポートできるような知識を持ちたいと思います」

 高校の同期である中村をはじめ、プロ野球でプレーする広陵OBは多い。この秋のドラフト会議では2年後輩の高太一(大阪商業大)が広島2位、石原勇輝(明治大)がヤクルトから3位指名を受けた。

「プロ野球に対する憧れは今でもあります。そして、プロに進んだ仲間に負けたくない気持ちも人一倍あります。しかし、自分の野球人生をあきらめ、社会人として一歩でもリードしてやろうと。現役生活が終わった時に浮かんだ言葉は"感謝"です」

 ユニフォームを脱いだ今、野球を続けているかつてのチームメイトに対して何を思うのか。やはり、女性問題を起こしたあの選手のことが気になって仕方がない。

「奨成は僕たちの学年の顔です。僕は、誰であっても広陵の3年間をともにした仲間を見捨てることはしません。もちろん、奨成にも話しました。プロ野球選手としての責任、自覚、立場、それぞれにしっかり分別を持たないと『プロ野球が終わった時にまわりに誰もいなくなるぞ』と言いました。いい時も悪い時も、あの夏の甲子園があるから話題になる。今一度それをしっかりと認識しないといけない。それは本人が一番わかっているはずです」

 岩本にとって中村は特別な存在だ。おそらく、中村にとってもそうだろう。

「あのチームのキャプテンが僕で、3番でキャッチャーだったのが奨成。グラウンドでも寮でもずっと一緒にいて、いろいろなことについて話をしてきました。奨成の一連の報道についても、プロに行く前から口酸っぱく言っていれば、こんなことにはなっていなかったのではないかと思います。普段からもっと密に連絡をとっていれば......僕が悪いです。決して他人事とは思っていません。厳しいプロの世界のなかで、勝ち抜き、活躍することは本当に難しいことだと思います。しかし、奨成ならやってくれると信じています。ずっと応援していますよ」

【人生に意味のない経験はない】

 岩本のラスト登板の様子を伝えると、明治神宮大会で敗退した直後にもかかわらず、中井監督は静かにほほ笑んだ。

「淳太は本当によく頑張りましたよね。何回手術したんじゃろ? あんなに気持ちのいい男はいませんよ」

 岩本の座右の銘は「人生に意味のない経験はない」。これは恩師の中井監督からもらった言葉だ。岩本は言う。

「自分の手帳に大きく、この言葉を書いています。『ヒジを痛めて泣いたことも、苦労したことも、悲しかったことも、全部がおまえの人生の役に立つ』と中井先生に言っていただきました。落ち込んだ時、本当に励まされました」

 故障と戦ってきた日々、もちろん後悔もある。

「後悔ですか、後悔は......たくさんあります。柔軟やストレッチをしっかりやっておけばよかったなあ、とか。中井先生にも谷口監督にも『体を柔らかくしろ』とさんざん言われていたんですけど。もっと柔軟をしとけば、変わってたかなあ(笑)。ケガをしたのはまぎれもなく私の身体の管理不足です。体の状態が悪いなかでも、『淳太を投げさせてください』と高校、大学、社会人の仲間が監督に言ってくれたのは、心からうれしかった」

 さらに続ける。

「個人としての野球人生はもちろんケガばかりだったということもあり、苦しく、悔しい思い出が多いですね。しかし、ケガをしていなければ、恩師、仲間、経験、言葉、たくさんのことと出会うことができず、もちろん今の私はありません。一番は、ここまで野球を続けさせてくれた家族に感謝します。社会人として一人前になり、息絶える時に心から『いい人生だったな』と思えるように、一歩一歩精進いたします」

 今後はJPアセット証券野球部のGM補佐という重責を担うことになる。岩本淳太、24歳。彼の野球人生はこれからだ。

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