小山明子、大島渚さんと死別後コロナ禍で“うつ状態”に、家族会議で得た「楽しく生きる」こと

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2023年12月16日 11:10  週刊女性PRIME

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小山明子さん

 2013年に最愛の夫にして、映画監督の大島渚さんを亡くした女優の小山明子さん(88)。

 大島監督が1996年に脳出血を発症してから、17年間もの長い介護生活も経験している。小山さんが、最愛の人の晩年を振り返る。

大島監督の「ありがとう」は魔法の言葉

「大島はロンドンで倒れ、向こう(海外)の病院に担ぎ込まれました。だからリハビリが早かったんです。つえがあれば歩けるし、言葉もゆっくりですがしゃべれる状態で帰国することができたんです」

 突然の発症は、大島映画の集大成となる『御法度』(1999年公開)撮影の直前。なんとしてもこの大作を完成させてもらいたいと、小山さんは夫の闘病生活を懸命に支えた。

 テレビや舞台からのオファーは引きも切らなかったが、女優の仕事をすっぱりと断念、夫の介護に専念した。

「家から40分ほどのところにいい病院があって、週4日リハビリに通っていました。言語と理学療法、作業療法の3つがセットになっていて、それにずっと付き添いました」

 懸命にリハビリに励んだ大島監督だったが、腰掛けようとしても、椅子を引くこともままならないときがある。決まって小山さんが駆け寄り椅子を引いていたという。

「そのたびごとに大島が“ありがとう”と言うんです。“パパができないならば、私がやるのが当たり前。だからそんなに『ありがとう』って言わなくていいのよ”って。

 でもこれは私にだけじゃなくて、住み込みのお手伝いさんからリハビリについてくれる人、運転手さんにまで必ず“ありがとう”と言っていましたね」

 “ありがとう”のひと言で疲れは吹き飛び、夫への愛と尊敬がさらに深まっていった。

「だから“ありがとう”は魔法の言葉だなって(笑)。大島は自分がそうした身体になったことを受け入れたんだと思います。リハビリの先生に“大島さんは珍しい患者さん”と言われましたから。

 社会的地位や名誉がある人ほど、“あれもやれこれもやれ”とうるさいそうですが、大島はそうしたことはひと言も言わない。言われたとおりに受け入れていました」

 だが2001年ごろ大島監督が十二指腸潰瘍穿孔(せんこう)を発症。5か月間の入院でリハビリができないことで、さらに体重は45キロまで激減してしまう。そしてほとんど言葉を発せない状態になってしまったのだ。

 夫との別れは2013年にやってきたが、亡くなる直前、今も忘れられない出来事があったという。

 当時、大島監督はすでに集中治療室に入っていた。小山さんが病院に行くと、人工呼吸器が外れているではないか。あわてて医師に尋ねると、“自発呼吸ができているから大丈夫。意識もはっきりしています”と、医師が外したようだ。

 だが小山さんは直感で「“今がお別れのご挨拶のとき”と感じた」という。死期が近い患者でも最後、自発呼吸を取り戻すことがあり、それだと小山さんは悟ったのだろう。

「1時間、出会ったときの話など、私が一方的に話したんです。最後に“私はパパのことが大好きです。パパも私のことが好きだったら手を握り返して!”と左手を握ったら、ギュッ、ギュッと強く握り返してくれて──」

 言葉にできないような喜びのなか、この最後のチャンスを逃すまいと、小山さんはさらに畳みかけたという。

「“神様が最後のお願いを聞いてくれるとしたら、パパはどうしたい? 家に帰りたい? おいしいものが食べたい? それとも飲みたい?”と聞いたら、“飲みたい”と。

 それで江戸切子の可愛いグラスを自宅から急いで持っていって唇にお酒をチョンチョンと。いいお別れができたと思うから、私、思い残すことはまったくないの」

 2013年1月15日午後3時25分、死去。小山さんの“没イチ生活”が始まった。

無駄を整理して息子たちとは付かず離れず

 大島監督と死別して8年ほどたった2021年、小山さんはうつ状態に陥った。

「お洋服とか美容院、エステやネイルなどにお金をかけすぎていて。それで2年前、経済的に破綻しそうになったことがあったんです」

 夫の死後、自分の介護経験を他の人にも生かしてもらうおうと、講演会などで活躍していた小山さん。

 ところがコロナ禍でこうした催しが中止、収入が途絶えてしまった。楽天家を自任する小山さんも、“このままあと5〜6年生きるとしたらどうなるんだろう……?”と思い詰め、ついにはうつ状態に。

「そうしたらお嫁さんが家族会議を開いてくれて。それで“私、全財産を託すからどうするか考えて!”と」

 家族が出した改革案は的確だった。まずは5つも入っていた生命保険を年金型の保険2つを残して整理。年間50万〜100万円もかかっていたというお中元やお歳暮を廃止、年賀状じまいも行った。

 今では友人との食事もワリカンと徹底している。確かに疎遠になった人もいるが、後悔はしていないと小山さん。

「今、私は88歳なんですが、もっと早く80歳ぐらいのときにやればよかったと思います」

 さらには「楽しく生きる」がモットーになった。

「フルート奏者の吉川久子さんはマージャン仲間。彼女の実家で、1か月に1回やっていて、実は昨日も夜10時までマージャンしたり(笑)

 コーラスも月1回、毎週水曜日には水泳教室に通っているし、女性向けのジムにも行っています。大島は倒れて歩けなくなりましたから、歩けなくなるとどれだけ周囲が大変か、よく知っています」

 高齢になっても自立していられる。実はこれこそ親ができる最大の“子孝行”なのかもしれない。そんな小山さんの長男と次男は、それぞれのパートナーとともに小山さんに付かず離れずといった姿勢で支えてくれている。

「病院通いは2人のお嫁さんが順番についてきてくれますし、毎週日曜には長男の家でごはんを食べ、次男のお嫁さんも毎週1回は家に来て、何か食べるものを作ってくれています」

 すでに独立した家族とのこうした理想的な付き合いは、実は小山さんの独立心の賜物(たまもの)でもある。

「私、ずっと強い母でいたんです。大島を長年介護していましたけど、息子にもお嫁さんにも“大変だから来て!”というSOSは出したことがないんです。ある年代になったら家族に頼るしかなくなるし、頼っていいと思いますが、それまでは、ね。

 家族は頼りすぎてはダメ。それにプラスして趣味を持ち、毎日を楽しく暮らす。配偶者を亡くした後は、これが一番大切だと思います」

 そう微笑(ほほえ)んだ小山さんの指には、夫からの贈り物というリングが柔らかな光を放っていた。

取材・文/千羽ひとみ

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  • こういうのは「自立」とはいわない。
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