中垣内祐一・東京五輪バレー男子監督の功績 日本代表が急速に力をつけた要因を聞く

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2023年12月18日 10:21  webスポルティーバ

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中垣内祐一インタビュー(前編)

「コシヒカリって、福井県生まれなんですよ」

 コシヒカリといえば、新潟県の代表的なブランド米だが、新潟で交配された苗を、福井県農業試験場が育成したものをそもそものルーツとする。

 東京オリンピック後、男子バレーの日本代表・中垣内祐一監督が勇退した。地元・福井に戻り、コメづくりに取り組むと聞いて、思い出したのが、かつて交わしたそんな会話だ。

【東京五輪後に故郷の福井へ】

"ガイチ"ことミスター・バレーボールの中垣内さん。『東京2020』で、自身がエースだった1992年バルセロナ五輪(6位)以来のベスト8入りを果たしたチームを率いた監督としては、「コメをつくる」というのはちょっと意外に思える転身ではないか。在籍していた日本製鉄も退社したという。だが、本人にとっては既定路線だったようだ。

「30年以上在籍していましたから、会社からは『なぜ?』と首をかしげられましたね。収入も減ることになる。ですが、実家は江戸時代からコメづくりをしていて、入社した時から50歳前後で帰省しようと決めていたんです。何十年も好きなバレーボールをやらせてもらいましたし......」

 中垣内さんは1967年生まれ。だか、まさに「50歳前後」にあたる2016年に、男子日本代表の監督に選出されている。それで実家に戻ることを先延ばしにし、東京五輪終了後に実行に移したというわけか。なるほど、米農家なら、コシヒカリのウンチクに詳しいのも当然なのである。

 中垣内さんの現役引退は04年。所属した堺ブレイザーズの監督を5シーズン務めたあと、日本オリンピック委員会スポーツ指導者海外研修員として、アメリカで2年間知見を深めた。

 帰国して11〜13年と日本代表のコーチを務めたあと、社業に専念した。16年に日本代表監督に就任すると、自らが白羽の矢を立てたフィリップ・ブラン氏をコーチに招聘した。実質的な指揮と選手の起用をブラン氏に委ね、自身は「総監督」的な立場をとる。

 そういえば東京五輪の試合中も、タイムアウト時にはおもにブラン氏が指示を出すシーンが目立った。

 それはそれとして......日本代表は、中垣内・ブラン体制で着実に力をつけていく。19年のワールドカップ(W杯)では、中垣内さんが現役だった91年以来の4位。先述のごとく、21年の東京五輪も92年以来の好成績だった。五輪後のワールドネーションズリーグ(VNL)も、22年は5位と過去最高の成績を残し、今年は初めての銅メダルへと躍進する。

 そして──10月中旬まで行なわれていたW杯(パリ・オリンピック予選)では、5勝2敗でプールBの2位に入り、パリ五輪出場権をつかんだ。地元開催の東京を除けば、予選を突破してのオリンピック出場は実に4大会ぶりだ。W杯期間中には、世界ランキングを過去最高の4位まで上げている。

【日本男子バレー躍進の理由】

 日本の世界ランキングは、10年代後半は15位前後だった。それが中垣内監督以後、19年のW杯の好成績で20年には10位に。今年初めには7位になっており、さらに4位まで上げたから、日本は急速に力をつけてきたといえる。

「それにしても......オリンピックに出ることに必死だった我々の時代には、世界4位なんて考えられなかったですよ。ランキングはアテにならない、という人もいますが、今回のパリ予選は世界3カ所で行なわれ、各プールの上位2カ国しか権利を得られません。つまり日本は、上位6カ国のひとつに入っているわけで、世界トップクラスであることは間違いないでしょう」

 その功績は、決して身長が高いとはいえない選手でも積極的に登用したことだ。これまでの日本には、世界に伍していくには大きな選手がポイント、という信仰があったように思う。サーブで崩して得点するためには、なによりブロックが大きなカギを握るからだ。それにはミドルブロッカー(MB)だけではなく、アウトサイドヒッター(OH)にも、できるだけ身長の高い選手を揃えたい。

 だが、ブロックを抜けてきたスパイクをレシーブ(ディグ)し、攻撃につなげるのも、もうひとつの大きな得点パターン。ディグから攻撃につなげることをトランジションというが、「身長ではやや劣っても、運動能力やボール扱いにすぐれ、ディグの能力の高い選手を重視した」のだ。

 たとえば、ディグの中心となるOHの高橋藍は188センチ、石川祐希が191センチ。先のW杯でも、このふたりが自ら拾い、自らアタックを決めて、ポイントゲッターとなった。フィジカルでおくれをとるなら、技術とアジリティー、そしてチーム戦略で補えばいい、とでも言うように。

 そして......コーチとしてブラン氏を入閣させたことが、中垣内氏のもうひとつの功績ではないか。

後編につづく>>


中垣内祐一(なかがいち・ゆういち)/1967年福井県生まれ。中学からバレーボールを始め、藤島高校では同好会レベルのチームに所属。筑波大から本格的にバレーボールに取り組み、在学中に全日本メンバーに選出、ワールドカップで脚光を浴びる。大学卒業後は、新日鐵(現・堺ブレイザーズ)に入社。1年目からリーグ優勝に貢献し、史上初の最高殊勲選手賞と新人賞のダブル受賞。また、全日本でもエースとして活躍し、92年のバルセロナ五輪では6位入賞を果たした。04年に現役を引退。11年から13年まで男子日本代表のコーチを務め、17年から監督に就任し、21年の東京オリンピックで7位の結果を残し、代表監督を勇退。22年に福井工業大学教授に就任。また、系列の中学、高校のバレーボール部の総監督にも就任した

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