《箱根駅伝“昭和の山の神”》恩師との決別、在日韓国人としての苦悩、がん闘病、⾦哲彦の数奇な半生

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2024年01月01日 17:10  週刊女性PRIME

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プロランニングコーチ・⾦哲彦(59)撮影/廣瀬靖士、山田智絵

「富士山、きれいだな」

 箱根・芦ノ湖畔のゴール手前。身体は限界に近いのに、初めて見る雪化粧の富士山を前に素直にそう思った。胸には東京・大手町から仲間がつないできた襷がある。天下の険を必死に駆け上がりながら2人を抜き去った。「これはすごいことをやった。フィニッシュしたらどうなるんだろう」。胸は高鳴っていた。ゴールの先で恩師が待っていた。勢いのまま抱きつくと「頑張った、頑張った」と褒めてくれた。うれしかった。

走ることを愛してやまない金哲彦さんの“ランニング人生”

 走ることを愛してやまない金哲彦さんの“ランニング人生”の号砲が鳴った瞬間だった。

 1964年に福岡県北九州市で生まれた金さん。少年時代は鬼ごっこやかくれんぼで町中を走り回った。陸上競技を始めたのは5歳年上の兄、和彦さんの影響だった。

「小学生のころは、中学で陸上部だった兄とよく走っていました。あるとき、デニムの短パンをはいて走ったら股ずれになっちゃって。でも、なんで痛いかわからなくて母親に『股が痛い!』って泣きついた記憶があります」と懐しむ。

 兄を夢中で追いかけることで鍛えられ、頭角を現していく。緑丘中学校で陸上競技部に入部。2年で県大会新人2000mでの優勝など順調に成長するが、3年になるとどうしても勝てない相手が。のちに大東文化大学で活躍する只隈伸也さんだ。

「市大会でも県大会でも只隈くんが1位、僕が2位でした。悔しい思いもありましたが、ライバルの存在は貴重だったと思います」

 只隈さんと相談し、一緒に八幡大学附属高校(現九州国際大学付属高校)へ進学。地元の新興校を2人で強くして全国大会へ行こうと決めたのだ。熱心な顧問の指導のもとで記録を伸ばしていく。だが、キャプテンに選ばれた3年生の高校総体県大会、5000mは“ドンケツ”の惨敗だった。

「身体が重くてスピードが出せなかった。それで血液検査をしたら極度の貧血だとわかりました」

 食事療法や鉄剤を飲み、秋ごろにようやく回復。最後の高校駅伝福岡県大会はアンカー7区を任され、区間トップタイの力走を見せる。しかし総合2位で、都大路にはあと一歩及ばなかった。

 大学進学を考える際、箱根駅伝が目標というわけではなかった。

「箱根駅伝は陸上の専門誌で知っていたけど、当時はテレビ中継がなくて自分が走るイメージは持てなかった。それよりも、当時マラソン界のヒーローだった瀬古利彦さんへの憧れがあったんですよ」

 福岡国際マラソンで早稲田大学の瀬古さんが優勝したシーンを見て、ユニフォームの“W”の文字に惹かれた。某大学の推薦の話がなくなると「一浪をしてでも早大に行く」と決意し、猛勉強に励む。決して裕福な家庭ではなかったが両親も応援してくれた。

運命を変える恩師との出会い

 晴れて現役で早大教育学部に合格、競走部の門を叩く。そこで金さんの人生を変えたともいえる、中村清監督と出会う。その指導方法は強烈だった。練習前の訓話は1時間や2時間はざら。「おまえたちのためなら何でもできる」と草を食べたり、地面を踏んで足を骨折したり、伝説はいくらでもある。

「監督が『俺はおまえたちに暴力は振るわん。だけど俺はその分、自分を殴る』と言って、ボコボコと自分の顔を血が出るまで殴るんですよ。もう迫力が半端じゃない」

 普通の学生なら引いてしまうかもしれないが、金さんは「よっしゃ」と練習へのスイッチが入った。

「だいぶ“中村教”に染まっていましたね。監督は心臓に持病がありながら、雨でも傘を差さずに僕らが20、30km走るのを鋭い眼光でグーッと見ている。命を懸けているんだと本気を感じました」

 それに呼応するように金さんは倒れる寸前まで必死に走り込んだ。

 その様子を、同学年で箱根駅伝を共に戦った田原貴之さん(現『味の素株式会社』執行役常務)は「苦しくなっても離れず、ガッツがあって非常に粘り強い。長距離の適応力はずば抜けていました。例えは悪いかもしれませんが、北海道ばんえい競馬の道産子のような走りでした」と表現する。

 金さんの能力をいち早く見抜いていたのが中村監督だった。金さんが卒業後10年も20年もたって当時のマネージャーから聞いた話がある。

「1年生の4月、5000mのタイムトライアルを見た監督が『あいつの魂の走りを見ろ。早稲田の山の歴史が変わるぞ』って予言したというんです。それを聞いたときはゾクッとしました」

 当時、中村監督はエスビー食品監督を兼務していたため、瀬古さんと一緒に練習することがあった。

「挨拶するぐらいでしたが、いつもドキドキ。『スターに会える!』ってファンの1人になって。瀬古さんは修行僧のように寡黙でしたけど優しかったですね」

瀬古さんにマッサージして世界の足を実感

 さらに合宿では瀬古さんにマッサージをする機会もあった。筋肉に弾力性があって「これが世界の足なんだ」と感動した。反対に瀬古さんは「後輩にはよく揉んでもらったけど、やってもらった半分はお礼にマッサージしてあげたんですよ」と思い出を語る。憧れの人から受けたマッサージは緊張しっぱなしだったが、柔らかい手だったことを覚えている。

 11月ごろ監督に「上りは得意か」と聞かれ思わず「はい」と答えた金さんは、実際の箱根駅伝5区のコースを試走することになる。だが、どんな道か、どこがゴールか、まったく知らなかった。

「先輩に聞いても山を指して『まぁその辺までだよ』としか教えてくれない。でもタイムトライアルだからひたすら坂道を上り続けました」

 結果、前回走った先輩の記録を上回る好タイム。1年生ながら重要区間の5区に抜擢される。しかし、実績のない金さんは他大学から「当て馬」だと思われていた。

 初めて挑戦する箱根駅伝。小田原中継所に行くと人の多さに圧倒された。

「うわぁ、これが箱根か! 正直、ビビりましたね(笑)」

 標高差834mの天下の険。どう走ったか何も覚えていないほど、がむしゃらに走った。「実際には、順天堂大学の選手を抜くときにジープ(伴走車)の澤木啓祐監督が『聞いたことない名前のやつが来てるぞ』と声がけしたのは覚えていますけどね」と笑う。区間2位の快走で順位を4位から2位に押し上げた。無名の1年生の活躍は「中村マジック」と新聞に書かれるほど衝撃を与えた。

 2年になると実力が認められ「千駄ケ谷組」に選ばれる。エスビーと早大で、世界に挑戦するトップ選手を集めた精鋭チームだ。金さんは合宿所を出て中村監督の自宅近くに引っ越す。千駄ケ谷組の練習は特別メニューで、文字どおり陸上漬けの毎日だった。しかし張り切りすぎたのか、秋ごろに貧血の症状がぶり返してしまう。

「対処法はわかっていたので箱根駅伝には何とか間に合わせた感じでした」

 万全ではない状態でも区間2位と健闘。往路優勝のゴールテープを切る。

「本当は区間賞を取らなきゃいけなかったのに、駒澤大学の大八木弘明さん(現同大総監督)に負けたんです」

 と悔しさをにじませる。

 このころ、瀬古さんもOBとして早大のジープに乗っていたという。「中村監督の早稲田の校歌が名物でしたね。監督が『都の西北〜』って歌うと選手は力が湧くんです」と懐かしむ。金さんも、

「僕の場合は『おまえがここに来るまでご両親は苦労して……』って話で泣かせにきましたね。頂上付近で校歌を歌ってくれて、学校の名誉を背負っているのだから苦しいけど頑張ろうって思えました」

 偉大な指導者が率いた早大は、'84年第60回大会で30年ぶりの総合優勝を飾った。

国籍変更で葛藤し恩師と決別

 この優勝を機に、中村監督はエスビー食品監督に専念するため早大監督を勇退する。その際、監督から「韓国籍を取得してはどうか」とすすめられた。そこには'88年のソウル五輪に金さんを韓国代表として出場させたいという思いがあった。

 金さんは在日韓国人の3世。当時は通称の「木下」を名乗り、国籍も「朝鮮籍」(※朝鮮籍とは、日韓併合で日本に移住した朝鮮半島出身者や子孫で、戦後に韓国など他の国籍に属さない人のために設けられた便宜上の籍)のままだった。日本でも韓国でもなく、どの国の代表にもなれない。ひとりで悩み抜いた。

「振り返ればアイデンティティーが確立していなかったのだと思います」

 国籍を変更するという決断が20歳の金さんにはできなかった。提案を断ると監督は激怒。「おまえは本当に頑固者だ。もう顔など見たくない、出て行け」と突き放された。金さんは千駄ケ谷組を離れ、ひとり暮らしを始める。

「その後、監督とは練習などでニアミスすることもありましたが、完全に無視でした。でも監督に見放されたから弱くなったと思われるのが嫌で、一生懸命頑張りました」

 強固な意志が、そこにはあった。過去の練習日誌を見ながらメニューを組み立て、長い距離を黙々と走り込む。秋には日本インカレの30kmで優勝するなど実績も残した。

 学生長距離界で一目置かれる存在となって迎えた、3年生での箱根駅伝。早大は1区の田原さんが区間3位の好走で流れに乗り、5区の金さんはトップで襷を受ける。3度目の山上りはコースを熟知し、ペース配分もばっちり。小田原中継所では僅差だった2位のチームをどんどん引き離していく。「山上りの木下」の異名どおりの走りで、5区の区間新記録を樹立した。

「完全に狙って出した区間新ですね。もうエースのような存在でしたから、きちんと仕事を果たした職人みたいな気持ち。早大の2連覇に相当貢献できたと思います」

 田原さんも「今の時代なら山の神と呼ばれるような走りでした。まさに『昭和の山の神』ですよ」と称賛した。

 最上級生として意気込みを新たにした5月、突然の訃報が舞い込む。中村監督が渓流釣りで不慮の死を遂げたのだった。

「破門された身でしたが、葬儀では棺も担ぎましたし骨も拾わせてもらいました。最後にありがとうございましたって、やっぱり言いたかったですけど……つらかったです」

 と沈痛な面持ちで振り返る。

 名伯楽の急逝が陸上界に与えた衝撃は大きかった。金さんもショックから調子を崩してしまう。しかし、最後の箱根駅伝に恩師への弔いの思いを込めた。区間トップの快走で、3年連続の往路優勝を遂げた。

「気持ちで立て直して、前年の区間新と2秒差、ほぼ同じタイムで走り切りました」

 復路で逃げ切りを図った早大だったが、最終10区で逆転され総合2位に終わった。

リクルートに入社し孤軍奮闘

 早大卒業後は実業団からの誘いもあったが、「中村監督以上の指導者はいない」との思いがあった。当時、陸上競技部のなかったリクルートに入社。面接の際に「マラソンに挑戦したい」と仕事に関係のない目標を語ったのに、面接官の役員は「やってみたら」と受け入れた。そんな自由な社風が気に入ったのだ。

 そして、金さんはもうひとつ決意していたことがある。それまで使っていた「木下」ではなく本名の「金哲彦」と名乗ることだ。

「自分がどこまで通用するか挑戦したい気持ちはあるのに代表選手になれない。自分のアイデンティティーを確立する上で、第1弾として社会人になるタイミングで名前を戻したんです」

 入社後、ランニングクラブを立ち上げ、ひとりで練習を始める。

「夕方になると会社を抜け出して皇居周辺でランニングして、また会社に戻って残業するんですよ。周りは何をやっているんだと思っていたでしょうね」

 徐々に結果を残し、'87年の別府大分毎日マラソンでは3位に輝く。「リクルートの金選手」がテレビや新聞で取り上げられ、社内では宣伝効果があると大盛り上がり。本格的に取り組むことになり女子チームを設立、のちに五輪メダリストを何人も育てた小出義雄さんを監督に迎える。

 そのころ、金さんは悶々としていた。エスビー食品所属で仲の良かったダグラス・ワキウリさんがソウル五輪で銀メダルを獲得したからだ。

「別大マラソンではワキウリに勝っていたのに、彼がメダルを取って自分はこのままでいいのか。このころの韓国マラソン界はまだ弱い時代だったので、持ちタイムの2時間12分は韓国代表になれる記録だったんです」

 金さんが一大決心をする最後のきっかけが、'89年に中国で起こった天安門事件だ。「デモ隊と軍隊が衝突して若者がどんどん亡くなっていく。それを見て自分がやりたいことをやるべきだ、と。五輪出場を目指すなら韓国でやるのが自然だと思ったんです」

 そして国籍変更へ動き出した。煩雑な手続きを手助けしてくれたのは、'36年ベルリン五輪で「日本代表」としてマラソンで優勝した孫基禎さんの息子・孫正寅さんだった。ソウルで生まれ育った中村監督は、孫基禎さんと共に五輪に出場した縁があった。

「中村監督も孫さんも僕にとって恩人でありマラソンの歴史をつくってきた人なので、2人からいろいろな影響を受けることができて幸せだなって、今でも思います」

 歴史はつながっているのだと不思議な縁を感じた。

オリンピックへの挑戦と挫折

 世界への最初のチャレンジは'90年の東亜マラソン。アジア大会の韓国代表を決める大会だ。しかし直前の合宿中に右ふくらはぎの肉離れを起こし、不安を抱えたままのスタートだった。

「最初の5kmぐらいで1回プチッて切れたんですよね。痛いまま走り続けたら20kmあたりでバチッて完全断裂しちゃったんですよ」

 しかし金さんは諦めなかった。「やめられないんです。頑固者なので(笑)」。足を引きずりながらも30kmまでレースを続ける。

「最後は歩けなくなり、そのまま病院に運ばれました。人生最大の挫折ですね」

 金さんの競技人生で唯一の途中棄権となった。

 失意の中、ケガの回復途中だった金さんに、またもや悲報がもたらされる。北海道で合宿中だったエスビー食品の車が交通事故に遭う。早大の先輩である金井豊さん、谷口伴之さんを含む5名が亡くなった。

「自分のケガと先輩の事故が重なって、夏ごろにうつ病みたいになっちゃったんです。身体に力が入らなくって、トイレに這って行くぐらいで……」

 2か月ほど抜け殻のような生活をしていた。立ち直るきっかけをくれたのが交際していた、たみさんのひと言だった。

「マラソンで失った自信はマラソンで取り戻すしかない」

 この言葉で弱気になっていた金さんは再び走り出すことができた。爆弾を抱えながらの練習は難しいと感じたため、アメリカのボルダーで高地トレーニングを行うことに。渡米前にたみさんと結婚したが、いきなりの別居生活だった。

 1年ほど充実した練習をこなし、満を持して2度目の東亜マラソン。韓国代表の最終選考レースだ。堅調な走りで34km地点までは先頭集団に食らいついたが、スパートで離されて6位。2時間11分48秒の自己新記録だったものの、オリンピックの夢は破れた。

銀メダルをきっかけに引退

 アメリカに戻って4年後はどうするか悩んでいたところに小出監督から電話がかかってきた。「有森の面倒を見てくれないか」。女子マラソンの日本代表に選ばれていた有森裕子さんだ。「不明瞭な代表選考の騒動はまったく知らなかったけど、有森さんはリクルートの後輩だし、コーチ料をいただけることもありがたいと思って引き受けました」

 コーチとしての経験はないが、ボルダー合宿のノウハウを活用した。有森さんに当時の様子を聞くと、

「とにかく金さんは一生懸命でした。疲れていても食事を作ってくれて、試行錯誤しながら二人三脚で練習しました。あと、奥さんは同じ会社で理解はあったと思いますが、新婚早々で離れていたので大変でしたね」

 とエピソードを語ってくれた。

 ご存じのとおり、有森さんはバルセロナ五輪で銀メダルを獲得。現地で応援した金さんは「感動しましたよ。他の人の成功が自分の喜びに思えたのは初めてでした」と感慨に浸った。

 そこへ再び小出監督から「女子のコーチをやらないか」と提案される。引退を決断。28歳だった。

「もったいないって気持ちは多少ありましたけど。最後のレースで自己記録を出した満足感もありつつ、強くなった韓国選手を見て4年後は無理かなと思いましたね。それとサポートした有森さんがメダルを取って、自分が思い描いていたことを代わりにやってくれたみたいな達成感はありました」

 小出監督率いるリクルートで、金さんはトラック競技のコーチを担当。五輪選手を輩出する強豪チームとなるが、それも長くは続かなかった。小出監督が選手とのトラブルを巡って謹慎させられ、金さんが監督に就任。その後、小出さんは会社側と決別する形で積水化学へ。

「高橋尚子さんをはじめ主力選手が小出さんを追って一気に辞めたんです。移籍するには当時“円満退社証明”が必要だったんですが、選手に罪はないと思ってハンコを押しました。甘いことするなって会社には怒られましたけど」

 ただ、メンバー移籍の影響は大きく、チームの成績は低迷。ついにリクルートは'01年9月での休部を決める。しかし、転んでもただでは起きないのが金さん。

「休部発表の記者会見で、会社には内緒で新しくクラブチームを創設するという決意表明をしたんです」

 新たな挑戦が始まった。

 1年ほどかけてさまざまな勉強をして、'02年にNPO法人「ニッポンランナーズ」を発足する。市民ランナーを対象にした練習会は、最初は5人ぐらいしか来なかった。だが実業団の元監督が直接指導してくれる、理論に基づいたことを教えてもらえると口コミで広がっていく。

「仕事を持ちながら練習する市民ランナーは、まじめでひたむきで教えがいがあります。勝ち負けじゃない世界で、一人ひとりに喜びがある。すごく面白いですよ」

 メディアに取り上げられることもあり、ランニングブームの波にも乗って徐々に大きくなっていった。

がん手術からフルマラソン完走

 身体の異変はあったが、仕事が忙しくサインを見逃していた。'06年の夏、42歳のときだ。長野でハーフマラソンに参加した帰り、新幹線のトイレで大量下血。さすがに心配になって病院で内視鏡検査を受けた。内視鏡カメラのモニター画面に何やらグロテスクなものが映っている。それは病院の待合室にあった大腸がんのポスターにそっくりだった。

「先生に『これ、がんに似てますね』って言ったんです、冗談半分で。そうしたら『金さん、これがんですよ』ってはっきり言われました。ビックリですよね。内視鏡がお尻に入ったままがん告知(笑)。しかも相当進んでいるから、一刻も早く手術しましょうって」

 混乱を必死に抑え、数日後に行われた手術は無事に成功。がんの大きさは約3cm、進行具合はステージ3だった。「かなり進行していましたが、病理検査で、たまっていた腹水やほかの臓器にがん細胞が見つからなかったのは奇跡でした」。

 翌年、金さんはオーストラリアのゴールドコーストマラソンへの出場を決意する。手術からたった11か月。腹部の痛みは続き、体力も回復途中。なぜ、走るのか。

「がん患者の誰もが経験すると思いますが、“死の恐怖”に悩まされていました。それを乗り越えるために完走したい。もし走り切れたら再びマラソンランナーとして胸を張れると思ったんです」

 仕事などで少しずつ走れるようになったとはいえ、42・195kmはハードルの高いものだった。

「確実に練習不足でしたから、案の定途中で足が痛くなり30kmからは全部歩きました。5時間42分は自己ワースト記録だけど、制限の6時間以内にフィニッシュできた。これで復活できたって感動がありました」

 当時、周囲にはがんを公表していなかった。カミングアウトのきっかけにしたのが、'09年のつくばマラソンだった。

「このころ『走る意味 命を救うランニング』(講談社現代新書)を執筆していて、締めくくりをサブスリー(フルマラソンを3時間未満で走ること)達成にしようと。がんでもサブスリーを出したら、この人は大丈夫って印象になるでしょ」

 そして2時間56分10秒でゴール。見事な有言実行だ。

 独り身になっていた金さんは'13年に幸枝さんと再婚。ランニングがつないだ縁だった。

「僕は料理が好きで、魚をさばくところからいろいろ作ってね。幸枝ともよく一緒に食べましたよ」

 金さんの自宅を訪れたことがあるという有森さんは「お店のような寿司セットを用意して、お寿司を握ってくれました。かなり凝り性ですね」と普段の様子を教えてくれた。

 幸せな日常があった。しかし、幸枝さんを病魔が襲う。卵巣がんだった。長い治療のかいも虚しく'23年6月に永眠。大切な人を失うのは何度目だろう。

 それでも金さんは、平坦ではない道だとしても走り続ける。

「『50代でサブスリー、還暦でもサブスリー』が目標。今度の2月で60歳になるんですが、さすがに年には抗えないかも」と笑う。

 年が改まり'24年1月2、3日に行われる第100回箱根駅伝。

「創設者の金栗四三さんが始めてもう100年たったのかと感慨深いですね」

 金さんは例年どおりNHKラジオで解説を務める。

「実は、卒業後にOBとしてゲスト出演してから30年以上も携わっているんですよ」

 ほかにも五輪や世界陸上など数多く担当する金さんの解説は、説明が丁寧でわかりやすいと定評がある。

「一番は選手目線。ネガティブなことは言わず、選手をリスペクトできるような解説を心がけています」

 映像のないラジオならではの難しさもある。

「言葉だけで想像できるよう、頭を働かせてしゃべっています。例えば、色ですね。『富士山がきれい』なら『青い空に雪化粧した富士山』みたいに具体的に言うんですよ」

 と極意を教えてくれた。

 節目の大会でどんなドラマが生まれるか、金さんのラジオ解説と共に楽しみたい。

<取材・文/荒井早苗>

あらい・さなえ 大学卒業後、出版社や編集プロダクションなどを経てライターに。週刊女性で箱根駅伝特集を担当。陸上競技や野球などスポーツ好き。

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