篠塚和典が語る、クロマティが「4割バッター」に迫った1989年 「大好き」と語っていた投手とは?

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2024年01月16日 11:01  webスポルティーバ

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篠塚和典が語る「1980年代の巨人ベストナイン」(4)

ウォーレン・クロマティ 前編

(連載3:ルーキー原辰徳にセカンドを奪われた篠塚和典にミスターから電話「チャンスが来るから腐るなよ」>>)

 長らく巨人の主力として活躍し、引退後は巨人の打撃コーチや内野守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任した篠塚和典氏が、各年代の巨人ベストナインを選定し、各選手のエピソードを語る。

 以前選んだ「1980年代の巨人ベストナイン(※記事を読む>>)」の中で3人目に語るのは、篠塚氏と同時代に主軸として活躍し、「巨人の歴代最強助っ人」のひとりとして数えられるウォーレン・クロマティ氏。巨人に移籍してきた時のバッティングの印象やその変化、打率.378という驚異的な記録を残した1989年の活躍について聞いた。

【プルヒッターから、篠塚らの影響で徐々に変化】

――クロマティさんは米フロリダ生まれで、カナダのモントリオール・エクスポズ(現ワシントン・ナショナルズ)在籍時、ナ・リーグでの安打数が4年連続(1977年〜1980年)で上位になるなど多くのヒットを記録していました。1984年シーズンに巨人入りした時のバッティングの印象を教えてください。

篠塚和典(以下:篠塚) もちろんヒットを打つ技術も高いと感じましたが、最初にフリーバッティングなどを見た時は、「長打を狙っていこう」というバッターだと思いました。メジャーから日本にやって来て、役割として「長打を打たなきゃいけない」という意識があったと思いますし、引っ張る意識が強いプルヒッターという印象が強かったです。

――来日1年目のシーズンに、いきなり35本のホームランを打ちましたね。

篠塚 1年目は打率3割に届いていませんよね(1年目の打率は.280。2年目以降は5年連続で3割を記録)。最初は長打を狙っていたように見えましたし、日本で1年、2年とプレーをしていく中で「打率を残そう」という考え方に変わっていったように見えました。

――篠塚さんのバッティングを近くで見ていた影響もあったのでしょうか?

篠塚 同じような打球のコースではなく、90度のフィールドを広く使っていく意識を持てば打率も上がっていくんじゃないか、といったように、確実性を高めるためのバッティングの話をクロウ(クロマティ氏の愛称)としたこともありますから、僕から影響を受けた部分もあったと思います。そういう話をしてからは、ポンと合わせて逆方向へ運ぶバッティングも増えていきましたね。

――前かがみになり、お尻を突き出すような感じのクラウチングスタイルでのバッティングは技術的にどう見ていましたか? メジャー通算4256安打を記録したピート・ローズさんに憧れて始めた、と言われていますね。

篠塚 昔は、ああいう構えの外国人選手が多かったですよね。クラウチングスタイルの場合はバットを立てない。たぶん、肩でバットを担ぐような感覚だと思うので、バットは出しやすくて軌道もよくなるはず。ただ、前かがみの姿勢でボールに強い力を伝えるのは、体が強くないとできません。外国人選手の屈強な体があってこそのバッティングスタイルだと思います。

――打撃の調子が悪い時、同じ左バッターとしてアドバイスを求められることはありましたか?

篠塚 バッティングの話をすることはあまりなかったのですが、たまに「どういう意識でバッターボックスに入っているのか?」「どんなボールを狙っているのか?」などと聞かれることがあって、そんな時はアドバイスをしていました。

 それと彼は、僕も含めて他のバッターのバッティングをよく観察していましたよ。僕がバッティング練習をしている時にクロウが後ろで見ていたり、見たものを練習に取り入れて試したりと、研究熱心なタイプでしたね。自分のチームだけでなく、他チームのいいバッターも熱心に観察していたような気がします。それによってバッティングフォームが大きく変わるわけではないのですが、意識の持ち方が年々変わっていくのを感じていました。

――意識の持ち方というのは、来日当初の引っ張る意識から変わっていったということでしょうか。

篠塚 そうです。なんでもかんでも引っ張って長打を狙うわけではなく、「つなぐ意識」や、試合の状況に合わせたバッティングを心がけるようになりましたね。

【クロマティが「大好き」だったピッチャー】

――1989年には打率.378という驚異的な記録を残しましたが、なぜあれだけのハイアベレージを残せたと思いますか?

篠塚 自信でしょうね。巨人で5年くらいプレーして日本のピッチャーを理解して、どういうバッティングをすれば打率が上がるのか、という感覚を掴んでいったんだと思います。その当時は、「どんなコースのボールでもある程度は捉えられる」という自信があったはずです。そうでなければ、あれだけの打率は残せません。

 苦手なピッチャーもいたかもしれませんが、得意なピッチャーで打率を上げる感じだったんじゃないかなと。自分もそうでしたが、打てないピッチャーに関しては無理に「打とう」とは思っていなかったはずです。

――クロマティさんが得意だったピッチャーは?

篠塚 尾花高夫(元ヤクルト)は「大好き」と言っていましたね(笑)。ヤクルト戦で高野光から頭にデッドボールを受けて病院に搬送されたことがあったのですが、次の日の試合に代打で出て、尾花から満塁ホームランを打ったこともありました。あれも左中間へのホームランでしたが、広角に打つ意識があったからこそでしょう。

――1989年の話に戻りますが、シーズンの規定打席(※)に到達していた時点で打率が4割を超えていました。当時、プロ野球史上初の4割バッターがついに誕生するのか、という期待が高まりましたが、チームメイトとしてどう見ていましたか?

(※)当時はシーズン130試合制。規定打席は試合数×3.1=403打席。

 篠塚 4割を達成してほしい、と期待していましたよ。周囲からそういう目で見られてプレッシャーも相当だったはずなのですが、彼はすごく陽気な性格ですし、最後まで楽しんでプレーしていたように見えました。外国人選手は「常に試合に出たい」という気持ちが強いので、打率を維持するために試合を休むという考えはなかったと思います。

(中編:「クロマティは日本シリーズで恥をかいて守備が変わった」 巨人最強助っ人の愛すべき素顔>>)

【プロフィール】

篠塚和典(しのづか・かずのり)

1957年7月16日、東京都豊島区生まれ、千葉県銚子市育ち。1975年のドラフト1位で巨人に入団し、3番などさまざまな打順で活躍。1984年、87年に首位打者を獲得するなど、主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。1994年に現役を引退して以降は、巨人で1995年〜2003年、2006年〜2010年と一軍打撃コーチ、一軍守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任。2009年WBCでは打撃コーチとして、日本代表の2連覇に貢献した。

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