大阪桐蔭「藤浪世代」の主将・水本弦が振り返る春夏連覇の快挙と、大谷翔平と韓国の街中で猛ダッシュの思い出

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2024年01月24日 11:01  webスポルティーバ

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大阪桐蔭初の春夏連覇「藤浪世代」のそれから〜水本弦(前編)

 2012年夏。晴天の甲子園球場に戦いの終わりを告げる勝者の声が響いた。

「目標だったんで、今は達成感でいっぱいです」
「自分たちのやってきたことが間違ってなかったと証明できて、本当によかったです」

 グラウンドに用意されたお立ち台の上に並ぶふたりのヒーロー。先にマイクを向けられたのは、甲子園史上7校目となる春夏連覇を成し遂げた大阪桐蔭の主将・水本弦。つづけて落ち着いた口調で喜びを語ったのは、14奪三振完封で大会を締めたエースの藤浪晋太郎。長い夏を戦い抜いてもなお、余力を感じさせるふたりに「春夏連覇さえも通過点」の思いを強くしたものだった。

 あれから10年が過ぎようとしていた2022年。阪神で苦戦を続けるあの夏のエースの姿を見ていると、大阪桐蔭初の春夏連覇を遂げたメンバーの"それから"に興味が向いた。それぞれ、どんな時間を重ねてきたのだろうか。

【大阪桐蔭・西谷監督との出会い】

 思い立って訪ねたのは、愛知県名古屋市。当時、水本が勤務していた東邦ガスの本社がここにあった。夕刻、仕事終わりの水本と待ち合わせると、馴染みだという夫婦が営む居酒屋に向かった。

 半袖のワイシャツからのぞく太い二の腕や分厚い胸板には、まだ十分に現役感が残っていたが、2021年秋の日本選手権を最後に水本は現役を引退し、野球部を離れていた。

 しばらく近況を確認したのち、時間を巻き戻し、石川県出身の水本が大阪桐蔭に進んだ経緯から話を進めていった。

「中学3年の春、あそこからつながっていったんです」

 白山能美ボーイズの主力選手だった水本は、大阪で行なわれていた全国大会に出場。ここでの試合を、大阪桐蔭の監督である西谷浩一が観戦していたことで縁が生まれた。西谷に当時の記憶をたどってもらった。

「舞洲での試合だったんです。第一印象は『左のまずまずいい投手だな。名前は水本というのか』という感じで......。4、5回になったところで、もうひとつの会場だった南港に移動したんです。しばらく試合を見て、再び舞洲に戻ったら白山能美が勝ち上がって、2試合目を戦っていた。

 そこでスコアボードを見ると、ショートのところに『水本』とある。てっきり兄弟か双子だろうと思ってファウルボールを回収に来た白山能美の子に聞いたら、『さっき投げていたのと同じ選手です』と。そこで両投げだとわかったんです。バッティングもよかったし、ショートも守れるのかと興味が湧いてきたんです。試合後、監督さんのところにあいさつに行くと、名刺に『水本』と記されている。お父さんだったんです」

 その時はあいさつだけで帰ったが、2、3日が経ち、顔見知りのプロのスカウトと話をするなかで、この日の話題になった。すると、そのスカウトから思いがけないひと言が返ってきた。

「あのチームの監督とオレは一緒で、PLや。手出さんでええぞ」

 まだ何も話は進んでいなかったが、西谷はすぐ水本の父へ連絡を入れた。

「PLの出身とは知らず、勉強不足ですみませんでした。いい選手で見させてもらうと思いましたが、失礼な話を......」

 西谷には、水本獲得は難しいと考えていた。ところが電話の向こうからの声は、西谷に希望を与えた。

「私がPLだから、息子もPLに行くかもしれないですが、行かないかもしれません。息子の進路を狭めることはしたくないので、また見に来てやってください」

 その結果、PLはもちろん、それ以外にも強い関心を示すチームがあったなか、最後は水本自身が決断し、大阪桐蔭行きが決まった。

 入学してから2年半の高校野球生活については、これまでさまざまな場面で語られてきた。先輩たちのレベルの高さに鼻をへし折られたところからのスタート。学校からグラウンドまでの山道を駆ける"山ラン"。夏前の強化練習でグラウドコートを着込んでのランニング......。思い出の定番メニューを振り返りながら調子よくジョッキを傾けていると、「忘れられない一曲があるんです」と、急に歌の話題になった。

「西野カナの『Best Friend』です。この曲名を聴けば、自分たちの代は一瞬であの頃に戻ります」

『Best Friend』は、水本たちが入学する前の2010年2月に発売された曲だ。

「野球部員は毎朝、寮から学校までシャトルバスで行くんです。1年生は座る席もないし立っていて、先輩も一緒なんで静かにしている。その車内にこの歌がリピートで聞こえてくるんです。それがもう......」

 音の出どころは、最後部の席に貫禄十分で座っている3年生の江村直也だった。その年の秋にロッテから指名を受けるドラフト候補が、この曲の大のお気に入り。大音量で聴いているため、イヤホンから漏れる透き通った歌声が水本ら1年生の耳にも届いていたのだ。

「かなり迫力のある先輩だったので、その人が『Best Friend』って......。しかも学校までずっとその曲です。今こうして話をしていても、あの頃の空気を思い出します」

【よっしゃ、春夏連覇や!】

 当時の大阪桐蔭野球部の状況を振り返っておく。

 2008年夏に17年ぶり2度目の全国制覇。水本らの入学直前の2010年春にもセンバツ出場。水本、藤浪が戦力となった1年秋は、近畿大会まで進むも初戦敗退。藤浪が主戦、水本が2番・センターに入った2年夏も、大阪大会決勝で東大阪大柏原にサヨナラ負け。

 あと一歩が届かず、甲子園への思いを募らせたなかで立ち上がった新チームで、水本は主将に抜擢された。そして副主将には白水健太(現・福井工大福井監督)と澤田圭佑(現・ロッテ)。このリーダー3人体制が機能したとの声は、当時からよく聞こえていた。

 水本は高校だけでなく、大学、社会人でも主将を任されることになるが、自己主張の強いタイプではなかった。チームメイトの水本評も「意見が言いやすい」「マイペース」「群れない」「よくわからない」などさまざま。自己診断では「こう見えて人見知り」「得意なのは人間観察」とのことだ。

 チームきっての元気印の白水、藤浪と競いながら投手陣を引っ張った澤田、そしてチームを俯瞰して見られる水本......この3人のバランスが絶妙だった。

 水本はメンバー外の選手とも分け隔てなく接し、同級生25人に満遍なく視線を届かせるタイプのリーダーだった。

 この取材の時も「小柳(宜久)っていうのがいるんですけど、野球は全然でまったく大阪桐蔭らしくないんですけど、最後までやりきって、今は東京で仕事を頑張っているみたいです」「ベンチには入れなかったですけど、山口(聖也)っていうピッチャーはめちゃくちゃけん制がうまくて、バッティングピッチャーでもいつも原崎(隼人)と投げてくれたんです。今は奈良でお父さんのあとを継いで頑張っているそうです」といった感じで、合間合間にチームメイトの話を挟んできた。

 その話を聞きながら、水本の人柄が伝わってくると同時に、明るくて伸びやかな当時のチームの雰囲気が容易に想像できた。

 3人が中心となって動き出した新チームは、連日、寮でミーティングを行なった。全員が寮で過ごす大阪桐蔭野球部最大のメリットと言えるのが"選手間ミーティング"で、その頻度が高まったのがこの時期だった。あと少しで甲子園を逃した悔しさを持ったチームは、何度も話し合いながら目指す場所を確認し合った。

「気合い入れな、甲子園行かんまま終わるで」
「なんのために山の中で毎日こんな練習してるんや」
「秋に大阪、近畿を勝って、まずセンバツや」
「センバツだけか? 夏もやろ!」
「甲子園に行くだけか? 優勝でもせんと割に合わんやろ」
「ほんまやで。よっしゃ、春夏連覇や! これでいこう」

 水本曰く「いつでも盛り上がれるチーム」に、ここで明確なスイッチが入った。すると秋は大阪大会を制し、近畿大会ベスト8。翌春のセンバツ出場が決まり、待望の甲子園となった。

「大阪桐蔭に来るような選手は、目標が決まったらそこに向かってひたすら努力できる子が多いんです。逆に目標がなかったり、ぼやけている時が一番大変で、一歩を踏み出すまでのゼロイチに弱い。でも、目標が決まって踏み出せば1から100のスピード感はかなり持っている。あのチームもそんな感じでした」(水本)

【プロをあきらめさせた出来事】

 スイッチが入ったチームは負けなかった。際どい戦いを制してセンバツ優勝を飾ると、夏の甲子園決勝でもセンバツと同じ顔合わせとなった光星学院(現・八戸学院光星/青森)を返り討ちし、甲子園10戦全勝で春夏連覇を達成した。『Best Friend』の記憶から始まった約2年半の高校野球生活は、胸のすくような解放感とともに幕を閉じた。

「終わった瞬間は『勝った!』というのはもちろん、『やっと終わった!』『解放された!』というのが一番でしたね。あの一瞬の気分を味わうために、毎日、毎日、野球、野球......って、ほんまによくやりました」

 ただ解放感に包まれても、燃え尽きることはなかった。次の目標は、4年後のプロ。ひと足先にプロに進んだ同級生たちに続くべく、目指す場所ははっきりと見えていた。

 亜細亜大に進んだ水本は1年春からレギュラーを獲り、東都リーグでベストナイン、新人王も獲得。ところが、これ以上ないスタートを切ったにも関わらず、水本は人知れず不安を感じていた。

「高校の時、足が速いとは思っていなかったんですけど、遅いとも思っていなかった。それが大学に来て『あれ、オレ足遅い?』と。大学に入って体重が増えたこともあるんですが、『外野を守って、走れんかったらプロは無理や』と、急に現実に気づかされて、『まずいな』ってなったんです」

 7月に行なわれた日米大学野球選手権では、1年で唯一代表入り。しかし、大学球界のスターが揃った舞台でも、気持ちが揺らぐ出来事が待っていた。衝撃を受けたのが、青山学院大2年の吉田正尚(現・レッドソックス)のバッティングだった。体格的には水本より小柄な吉田の打球に度肝を抜かれた。

「捉える技術もすごいうえに、フリーバッティングの飛距離がケタ違い。あの小さい体で、坊っちゃんスタジアム(愛媛)の上段に軽々と放り込むんですよ。自分はスタンドに入れても、上段なんて無理。その時に、バッティングで勝負するならこのレベルまでいかないと、プロに行けたとしてもその上にはいけないなと思ってしまったんです」

 のちにメジャーでも中軸を打つことになる吉田の力をもっと理解できていれば、「この人は別格」と思えたかもしれない。あるいは、吉田が2年ではなく4年であれば、「オレもあと3年で技術を磨いて......」となったかもしれない。しかし。当時はそう思えなかった。

「プロを基準にして、プロに行くことだけを考えていた分、パッと気持ちが引いてしまったんです」

 大きな目標だったプロの世界が意識のなかで遠のき、そこへさらにモチベーションを下げる出来事が続いた。

 1年秋のリーグ戦を亜細亜大は制し、神宮大会も優勝。大学日本一の座に就いたのだが、ここでまた気づいてしまった。

「正直『えっ、これで日本一?』って思ってしまったんです。もちろんうれしかったんですけど、お客さんはそこまでいないし、11月で寒いし、球場の雰囲気も、メディアの盛り上がりももうひとつ。5万人近いお客さんが入って、あの華やかな応援だった甲子園とのギャップがあまりに大きくて。その時に『ああ、高校で一番スポットライトを浴びて、一番いい思いを味わわせてもらったんだな』となったら、そこで日本一を獲るというモチベーションが下がっていったというか......」

 甲子園で春夏連覇の快感を味わったからこそ痛感した"落差"とも言えるだろう。その結果、「大学2年から、完全に迷走しました」と水本は言う。

 納得する数字も残せず、スカウトの目も離れ、「野球は大学まで」と決心し、西谷に連絡を入れた。しかし、「ユニフォームは自分で脱ぐもんじゃない。野球をとことん頑張って、『脱げ』と言われた時に脱ぐものや」の言葉で翻意。社会人野球の東邦ガスへ進んだ。

 しかし、社会人1年目は肺に穴があき、2年目は足の肉離れ、3年目は膝の痛み......。結局5年間プレーし、2021年限りで引退。場合によってはコーチの道もあったが、グラウンドを離れた。

【現役への未練は1ミリもない】

 現役引退までを振り返り、ひと息つくと水本の視線は店の壁に設置されていたテレビに向いた。中日戦の実況アナウンサーが「今日の大谷翔平は......」と海の向こうの話題を口にした時だ。

「大谷とは韓国でクッソ長いソフトクリームを食べながらふたりで観光して、街中でダッシュもしたんですよ」

 話は高校時代に戻った。春夏連覇のあとに開催された第25回AAA世界野球選手権大会。水本は日本代表に選出され、大谷たちとチームメイトとして戦った。日本は6位で大会を終えたが、最終日が観光となり、気づけばふたりで街を巡ることになったのだという。

「この前、あるテレビ番組で大谷が韓国の街をウロウロしているあの時の映像が流れたんです。メディアの人が何人かついてきて、『食事代でもなんでも出すから1日密着させてほしい』と、大谷に交渉してきたんです。でも大谷は、『プライベートで遊んでいるので』と断ったのですが、それでもついてきて。そうしたら、少しして角を曲がったところで大谷が『弦、いくぞ!』と言って、そこからふたりして猛ダッシュ。完璧にまきました(笑)。懐かしい思い出っすね」

 その時の相棒が、今や「世界の大谷」となりメジャーを席巻。大谷のほかにも、藤浪をはじめプロの世界でプレーを続けている同世代は多くいる。何かがプラスされていれば、水本も画面の向こうでプレーしていたかもしれなかった。しかし、水本は一貫して首を横に振った。

「『あの時、ああしていれば』とか、『もっと現役をやっておけば』とか、未練は1ミリもないんです。自分は向こうの世界で活躍する人間じゃないと、完全に線を引きました。だから、今もふつうにプロ野球をテレビで見ますし、知っている選手が出てきたらふつうに応援しますし、そこは完全に割り切ったっすね」

 ただ野球に未練はないが、グラウンドから離れ、「自分に何ができるのか」と考える時間が続いていた。いつスイッチが入り、次の一歩を踏み出せるのか。

「見えかかってはいるんです。いるんですけど、今はまだちょっと......」

 ジョッキが調子よくあいていくなか、何度かこれからの話を向けたが、この夜の水本からは最後まで明確なビジョンが語られることはなかった。

後編につづく>>

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