90歳の球友が語る根本陸夫「少年時代から見えたフィクサーの才」

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2024年01月24日 15:01  webスポルティーバ

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根本陸夫外伝(前編)

 各球団が戦力補強に動くシーズンオフ。劇的な大型トレードが敢行されたときなど、マスコミ上ではひとりの男がよく引き合いに出される。

 男の名は、根本陸夫。かつて広島、クラウンライター、西武、ダイエー(現・ソフトバンク)で監督を務め、各球団で実質GM(ゼネラルマネージャー)としても手腕を発揮。1975年に初優勝した赤ヘル・カープの基礎を固め、80年代から90年代にかけてのライオンズ黄金期を築き、ホークスを今に続く強豪に仕立てた。

 その辣腕ぶりから"トレードの名人"と称され、新人獲得で裏技を駆使したことから"球界の寝業師"とも呼ばれた根本だが、ダイエーの球団社長に就任した1999年の4月、心筋梗塞のため72歳で急逝。それでも、数々の功績を称えられて2001年に野球殿堂入りし、ソフトバンク監督の工藤公康をはじめ教え子たちの多くが指導者になっている。2017年から中日監督を務める森繁和も、「各チームで優勝への足がかりを作った根本さんが理想像」と発言。死後17年が経った今も、"根本遺産"は消え失せていない。

 もっとも、実質GMとしては天下無双だった根本も、監督としては二流、選手としては三流だったといわれる。

 たしかに、指揮官としては一度も優勝がない。1968年、広島の監督就任1年目の3位が最高の順位。それでいて72年途中に休養(同年に退団)するまで5年も務め、クラウンと西武で4年、ダイエーでは2年、合わせて11年と在任期間は長い。その意味では勝つこと以前に選手を育て、チームを作ることを期待された監督だったと言えるだろう。

 では、捕手として近鉄でプレーした現役時代は、なぜ「三流」だったのか。

 茨城県出身の根本は、旧制中学の茨城中(現・茨城高)で本格的に野球を初め、転校した日大三中(現・日大三高)で関根潤三(元近鉄−巨人)とバッテリーを組んだ。その後は日本大に進み、東都大学リーグの首位打者になるほど打力もあった。諸事情で東京六大学の法政大に移ると再び関根とバッテリーを組み、ノンプロの川崎コロムビアを経てプロ入りしたのに、そこまで評価が低いのはなぜなのか。

 成績を見れば、1952年に近鉄に入団した根本は、通算186試合出場で打率1割8分9厘、2本塁打、23打点。しかも55年から2年間は出場がなく、57年限りで引退したから実働は4年。数字のうえでは「三流」と言わざるを得ない。ただ、根本自身、数字の中身についてこう語っている。

「実際に試合に出たのは、1年か2年くらいのものでね。入ったときはもう27歳で、当時はコーチなんて存在しない時代だったから、最初からブルペンでピッチャーを見てくれということだったんですよ。ところがレギュラーのキャッチャーが故障してね。その間だけ試合に出た。そういうふうだったから、かなり早い時期からスカウトの仕事はしていたね。嫌いじゃないんだよ、あっちこっち見て歩くのが。どっかから連絡が入れば、当時からパッと飛び出して行っていたからね」

"遅咲き"を期待してというのでもない。選手としての活躍は想像もしていなかったような口ぶり。球団も当初から兼任コーチ的な役割を根本に求め、スカウトの資質があると判断していたようだ。出場がなかった2年間については、ベンチで監督のサポート役を担っていたという。

 とはいえ、53年は年間100試合以上に出場していて、能力自体は「三流」ではなかったはずの根本。はたして、野球の才能はいつ頃から輝き出したのか――。

 この問いの答えを知る人物、元球児の馬目大(まのめ・まさる)に、縁あって面会することができた。茨城中の野球部員だった馬目は、根本と同じ1926(大正15)年生まれ。御年90歳になるかつてのチームメイトに、思い出を聞いた。

「根本は1年生からレギュラーで、キャッチャーでね。茨中(いばちゅう)の野球部にはほかにそんな選手はいなかったですよ。肩も強くて、大したもんだった。それで私はピッチャーで、根本とバッテリーを組んでいたんです」

 旧制中学は5年制で、6年制の尋常小学校を卒業してそのまま進む場合と、2年制の高等小学校を経由して進学する方法があった。したがって、中学5年生の年齢は現在の高校2年もしくは大学1年に相当したから、そのなかで1年生レギュラーとは、根本の野球レベルは相当に高かったと言える。

「身長170センチぐらいで、体は大きくなかったけど野球はうまかった。2年生のときは根本が3番を打って、私が4番という試合もあったかな。でも、茨中は強くなかったんです。あの時代、水戸商が強かった。石井藤吉郎がピッチャーでいてね」

 水戸商の大型左腕だった石井は、戦後、早稲田大の強打者として活躍。法政大との試合で打席に立つと、同郷の捕手・根本から声をかけられることもあったらしい。おのずと中学時代の対戦にも興味が湧くが、馬目自身、細かな野球の記憶は薄れているという。ただ、そのかわり、根本の普段の行動は鮮明に憶えているそうで、これは馬目自身の学校生活と関係していたようだ。

 馬目は福島県石城郡の泉村(現・いわき市)出身で、尋常小学校卒業後は磐城中(現・磐城高)への進学を目指したが断念。隣県の茨城・水戸市にある茨城中に入学し、根本に出会った。普段は常磐線で1時間40分ほどかけて通学したが、冬場は水戸で下宿生活。この下宿に、根本がよく泊まりにきた。

「ある日、夜の11時過ぎ、ひと気がなくなった頃、一緒に外へ出たんです。『どこ行くんだ?』と思ったら、根本は薬屋に行って、店の名前が書かれた立て看板を引っこ抜いた。それをお寺に持って行ってお墓の傍(そば)に立てた。なにをやりたかったのかなんてわからない(笑)。要するに、いたずら好きだったんだね。昼間も学校サボって、彼の家に行ってね、空気銃があるからそれで雉鳩(きじばと)を撃って。その肉が入ったカレーライスをおふくろさんに作ってもらったこと、憶えてます」

 水戸市で生まれた根本は、同じ茨城県の石神村(現・東海村)で育っている。「陸夫」の名は、「大陸のように広い心を持て」と祖父が命名したそうで、この祖父はバス・タクシー・トラック運送の会社などを興した事業家。その事業を父親が継ぐため、根本家は石神村に移り住んだ。終戦後、父親は石神村の村長になり、同村が村松村と合併して東海村となったあとも村長を二期務めた名士だった。

 いわば、資産家の"跡取り坊っちゃん"だった根本。進学や将来の進路を考えた祖父の意向で、石神村の小学校から水戸市内の三の丸小学校に転校する。若い弁護士が家庭教師としてつけられたが、この弁護士が大変な野球好きだった影響で、根本は勉学以上に野球に励むことになる。馬目によれば、その傾向は中学でさらにエスカレートした。

「学校はサボってばっかりで勉強どころではなかったから、根本は2年生のときに2回、落第してるんです(笑)。それでお父さんは、今でいう観光バスのようなものを持っていて、鉄道の会社もやってたんですね。だから根本は、バスも汽車も『オッス!』で通ってた。"顔パス"だったんです」

 まさに"跡取り坊っちゃん"の証だが、そんな育ちだけに根本は幼い頃からわがままでわんぱく、ケンカもよくやったという。文献資料によれば、中学生になると〈ひとかどの暴れん坊になっていた〉そうだが、馬目の記憶のなかに、暴力を振るう根本は存在しない。

「彼はね、ケンカするにしてもちょっと違ってた。他校生とよくケンカがあったんだけど、自分では表に出ないから。腕っ節のいい連中を集めて、後ろで糸を引いてやらせる。そういうタイプだったね」

後編につづく

(=敬称略)

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