死後15年。今も野球界に色濃く残る「根本陸夫の遺産」

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2024年01月29日 10:31  webスポルティーバ

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根本陸夫伝〜証言で綴る「球界の革命児」の真実
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 今から15年前の1999年4月30日、ひとりの男がこの世を去った。根本陸夫――野球界に様々な革命を起こした男だ。彼の死から15年経ったが、根本が残してきた功績は消えるどころか、色褪せることなく今も生き続いている。

 沢村栄治とベーブ・ルースが対戦した、1934年11月の日米野球。そのときの「日本代表」メンバーを主体として誕生した大日本東京野球倶楽部が、のちに巨人軍となった。

 現在のNPBに連なるプロ球団第1号。その誕生から80年の歳月が経った。ゆえに今年は「プロ野球80周年」と称されているわけだが、それだけの長い歴史が紡がれてゆくなかには、いくつかの「革命」が起きている。

 昨年、2013年の日本プロ野球、パシフィック・リーグのペナントレース最終盤。東北楽天が球団初の優勝を決めた一方、埼玉西武、千葉ロッテ、福岡ソフトバンクの3球団が、クライマックス・シリーズ(CS)進出に向けて熾烈を極める戦いを繰り広げた。

 最終的に、3位のロッテに勝率8厘差をつけて西武が2位、ソフトバンクは4位に終わったが、各監督には共通項がある。渡辺久信、伊東勤、秋山幸二の3人は、1980年代から90年代にかけて黄金期を築いた西武の主力メンバーだったことだ。

 この事実は、かつて巨人のV9時代にプレイした野球人が、巨人以外の球団に監督として招聘されたケースを想起させる。ヤクルト、西武を初の日本一に導いた広岡達朗をはじめ、それこそ西武黄金期にチームを率いた森祇晶、オリックスの土井正三、ヤクルトの高田繁、さらには王貞治もダイエー、ソフトバンクの監督を務めている。

 だが、2013年のパ・リーグの状況にはおよばない。なにしろ6球団のうち半数の監督が現役時代に同じチームでプレイし、なおかつ全員が日本一を経験しているのは史上初のケースだったのだ。

 渡辺はCSで敗退した後に退任したものの、代わって復帰した伊原春樹も常勝西武でコーチを務めた元監督。2002年には、チームをリーグ優勝に導いている。

 それほどに今、西武の黄金時代の野球を熟知した指導者が求められている、と言ってもいいのではないだろうか。そして、その黄金期は、ひとりの野球人なくして築かれなかった。

 根本陸夫――。

 1950年代、近鉄の捕手だった現役時代は、実働わずか4年で輝かしい実績もない。それが引退後にスカウト、コーチとして経験を積むと、68年から広島の監督に就任。自身は72年のシーズン途中、成績不振から休養、そのまま退団となったが、山本浩二、衣笠祥雄、三村敏之らの若手を鍛え上げ、のちの75年に初優勝を成し遂げた"赤ヘル軍団"の基礎を固めた。

 その後、78年に根本はクラウンライターの監督に就任。シーズン終了後に国土計画の堤義明社長(当時)が球団を買収し、西武ライオンズへと球団名が変わった。根本はそのまま監督として残留し、西武の初代監督となった。

 西武監督時代は管理部長(GM)も兼任し、球団代表の坂井保之、スカウト部長の浦田直治らとともに西武の骨格を築いていった。78年のドラフトでは森繁和を1位で指名し、阪神から田淵幸一、古沢憲司、ロッテから山崎裕之をトレードで獲得し、自由契約となっていた野村克也を入団させた。

 西武1年目の79年こそ最下位に終わったが、翌80年は後期ペナントレースで優勝争いを演じた。その年のドラフト会議では、石毛宏典、岡村隆則、杉本正、安倍理を指名し、ドラフト外で秋山幸二を獲得。根本は81年で監督を退任し、管理部長に専念。後任監督に広岡達郎、ヘッドコーチにのちの監督となる森祇晶を招聘。根本の後を継いだ広岡は82、83年と2年連続して日本一を達成し、85年もリーグ制覇。その後、86年から監督に就任した森も9年間で8度のリーグ優勝、6度の日本一を達成するなど、黄金時代を築いた。

 根本は93年に西武を退団し、ダイエー(現・ソフトバンク)の代表取締役専務兼監督となる。この年は最下位に終わるが、同年オフ、佐々木誠、村田勝喜、橋本武広を放出し、西武から秋山幸二、渡辺智男、内山智之を「世紀のトレード」で入団させる。ドラフトでもこの年から採用された逆指名制度で渡辺秀一、小久保裕紀を獲得。その後も、94年オフに王貞治を監督に招聘し、ドラフトでも井口資仁、城島健司、斉藤和巳、松中信彦、柴原洋ら、のちの黄金期の中心となる選手を次々と獲得した。

 その辣腕ぶりから「球界の寝業師」とも呼ばれ、特に有望新人獲得の手段をめぐっては、球界内で問題になることもあった。

 だが、いずれも前身球団から低迷していたライオンズとホークス、ふたつのチームに実力と人気をもたらし、パ・リーグひいては球界全体を好転させたという意味で、根本は「日本プロ野球に革命を起こした男」と言える。

 99年1月、根本はダイエーの球団社長へと上り詰めたが、同年4月30日に72歳で急逝している。以来15年が経ったこともあり、20代、30代の野球ファンにはピンと来ない名前かもしれない。

 しかし昨年、さらには今年のパ・リーグもそうであるとおり、根本の「遺産」は時を経て風化するどころか、今でも確かな影響を球界に与えている。まして「遺産」は監督に限らない。根本が存在した時代の西武、ダイエーにいた人間が各球団に分散して、フロント、コーチとして活躍しているのだ。なかでも特筆すべきは、昨年オフに中日に復帰した落合博満GM、森繁和ヘッドコーチである。

 森は中日退団後に刊行した二冊の著書のなかで、自身の西武での現役生活およびコーチ人生が、根本の指導によって成り立ったことを強調している。しかも根本と落合には接点があり、あるとき、「いずれ監督になったら森をコーチで使うと面白い」という意味の助言をされたという。森はこう書いている。

<根本さんは、鉄拳も振るえば、とことん面倒も見る親分肌の指導者であり、GMであり、参謀だった。根本野球を学んだ私に、鉄拳禁止の選手操縦を約束させたのが、落合監督。その落合監督に私を推薦していたのが根本さんなのだから、不思議な因縁を感じる。いや不思議ではなく、私も落合監督も根本さんの手のひらでうまく踊らされたのかもしれない。>(講談社刊、著者・森繁和、『参謀―落合監督を支えた右腕の「見守る力」』より一部抜粋)

 8年間でリーグ優勝4回、日本一1回、常にAクラスをキープし続けた落合中日。強いチーム、勝てるチームには、まさに根本の「遺産」が生きていたと感じられるのだが、なぜ、「遺産」は今でも影響力を持つのか。なぜ、革命を起こせたのか。そして、根本陸夫とはどういう人間だったのか――。
 
 残念ながら、筆者である私は、生前の根本に会うことはできなかった。野球雑誌の企画で往年の名選手たちに話を聞き、球史を掘り起こす連載を始めた矢先に帰らぬ人となってしまった。

 ただ、学生時代から根本の親友であった関根潤三(元ヤクルト監督)を筆頭に、広島監督時代に仕えた安仁屋宗八、外木場義郎、根本スカウトに誘われて近鉄に入団した土井正博、西武のスカウトだった毒島章一、その他何人もの野球人から聞く思い出話に惹きつけられた。本人には会えなくても、野球人が語る逸話を通して、今に生きる「遺産」を伝えられるのではないか。そう考えて、『根本陸夫伝〜証言で綴る、「球界の革命児」の真実』として連載を始めることになった。

つづく

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