「清原和博、桑田真澄の1年生の起用は上級生の反発もすごかった」PL学園元監督の中村順司が明かすKKコンビ秘話【2023年人気記事】

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2024年02月04日 10:51  webスポルティーバ

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 2023年の日本はWBC優勝に始まり、バスケのW杯では48年ぶりに自力での五輪出場権を獲得、ラグビーのW杯でも奮闘を見せた。様々な世界大会が行なわれ、スポーツ界は大いなる盛り上がりを見せた。そんななか、スポルティーバではどんな記事が多くの方に読まれたのか。昨年、反響の大きかった人気記事を再公開します(2023年8月5日配信)。

※記事内容は配信日当時のものになります。

* * *

元PL学園野球部監督・中村順司インタビュー前編(全3回)

 高校野球界に名を残した名将といえば、必ず思い浮かぶひとりがPL学園(大阪)監督を18年間務めた中村順司だろう。

「逆転のPL」と呼ばれ、数々の名シーンを甲子園の歴史に残したが、なかでも桑田真澄、清原和博の「KKコンビ」がいた1983〜1985年の3年間は、5季連続甲子園出場という偉業を成し遂げた。まさにチームの黄金期だった。

 この頃、まだ30代だった中村監督。今年8月5日で77歳となったが、当時の記憶は今も鮮明だという。印象に残る試合を振り返りながら、思い出を語ってもらった。

●池田の水野雄仁に「憧れるのをやめましょう」

 桑田、清原のふたりがPL学園のスーパー1年生として衝撃のデビューを果たしたのが、1983年夏の甲子園、第65回大会である。背番号11の桑田がマウンドに上がり、背番号3の一塁手・清原が4番に座る。

 率いる中村はその3年前に監督に就任し、半年後の1981年センバツでいきなりの優勝を飾っていた。翌1982年春も制して大会2連覇を果たし、甲子園無敗のまま1983年に初めて夏の大会に臨んでいた。

「この年のPLは小柄な選手が多く、平均身長は171センチ。188センチの清原がひとりでその数字を上げてくれたようなものでしたよ。大阪大会でも苦戦しながら勝ち上がってきて、私は甲子園に出場できただけで上出来だと思っていた。だから大会前、選手には甲子園で一回は校歌を聞こうなと声をかけていたんです」

 その大会で人気、実力ともにナンバーワンと言われていたのが、蔦文也監督率いる池田高校(徳島)だった。エースに水野雄仁(元巨人)を擁し、パワフルな野球で甲子園を沸かせて夏春夏の3季連続優勝を狙っていた。

 その池田と、勝ち上がったPL学園は準決勝で顔を合わせる。下馬評では明らかに池田が有利。そこで中村監督は試合前、選手たちがちょっと驚くような言葉をかけた。

"水野はやっぱりすごかったと、たとえ負けても言うなよ"

「これまで池田と戦ったチームが、声をそろえて相手エースを称えていた。戦う前から、池田は強いと思い込んでいるのではないかと思ったんです。今年のWBCで大谷翔平が試合前に『(メジャーリーガーに)憧れるのをやめましょう』と仲間に言ったことが話題になりましたが、それに似たような思いがあったんですね。

 相手を上に見るな、同じ高校生なのだから対等な気持ちで戦おう。そして、(右打者が)右方向に打てといってもファウルになってカウントを稼がせるだけ。だったらインコースにきた球を思いきり引っ張ってやれとハッパをかけました。2回に桑田がインコースのボールを叩いてスタンドに運んだ時は、水野が信じられないという表情で悔しがっていたのが印象的でしたね」

 桑田の2ランに続いて次打者も連続ホームラン。終わってみれば7−0でPLが勝利し、桑田は5安打完封で投打にわたる活躍だった。池田の連覇の夢を打ち砕いたPLは、翌日の決勝戦でも横浜商(神奈川)を3−0で破り、大会前には考えもしていなかった優勝を勝ちとる。

●桑田真澄に主役を譲った"エース"の活躍

 清原は横浜商との決勝戦の2回に先制ホームランをライトラッキーゾーンに叩き込む。これが記念すべき甲子園第1号だった。

「それまで清原はプレッシャーから神経性の下痢に悩まされ、池田戦でも4打数すべて空振り三振。でも思いきってバットを振ったので、試合後に私が清原に言ったのは、『ナイススイング!』。これで少しは気がラクになったのかもしれません。

 清原、桑田に関しては、PLで1年生を使うなど異例のことで、上級生の反発はかなりのものでした。話し合いを重ね、理解を得たうえでメンバーを決めましたが、3年生のバックアップなくして1年生ふたりの活躍はなかったと思いますね。

 とくにエース番号をつけながら主役の座を譲った藤本耕は、大会中ずっとバッティング投手を務め、私はどこかで投げさせたいと思っていた。それが実現したのが、高知商戦でした。

 その試合は5回表を終わって8−0と大量リードしながらも、そのあと相手の猛反撃にあいます。次の池田戦を意識して、選手にも私にも心にスキが生まれていたんですね。結果的に10−9で辛勝しましたが、踏みとどまれたのは7回から登板した藤本のおかげ。辛抱強く投げてくれました」

 KKコンビが2年生となった1984年春は、決勝戦で初出場の岩倉(東京)に敗れて準優勝。中村の監督就任以来続けてきた甲子園連勝記録も、ついに20でストップした。

 続く夏も甲子園決勝戦に躍り出るが、PLの2連覇を阻んだのが木内幸男監督率いる取手二高(茨城)。9回裏に4−4の同点に追いつく粘りを見せたが、延長10回表に桑田が3ランを打たれて決着がついた。

●清原和博がピッチャーを諦めた理由

 そして、KKの3年間でターニングポイントといえる試合が、翌1985年センバツで敗れた準決勝・伊野商(高知)戦である。

「相手投手はのちに西武で活躍する渡辺智男。清原はこの試合で完全に抑え込まれ、3三振だった。試合後バットを片づけながらしゃくりあげ、相当に悔しかったんでしょうね。

 学校に帰ってミーティングをし、解散後しばらくして私が帰ろうとしたら、室内練習場からものすごい音が聞こえてくるんです。行ってみると、清原が上半身裸で鬼の形相でマシンを打っていた。それも人の力では到底投げられないであろう、最速のボールをです」

 最後の夏に向けて、仲間にも大きな刺激を与えた清原の有名なエピソードである。そんな選手たちの努力が爆発したのが、1985年夏の初戦・東海大山形戦だ。毎回得点の29−7で相手を一蹴。点差が大きく開いたこともあり、この試合で9回にマウンドに立ったのが、なんと清原だった。

「補欠の選手をみんな投げさせていたら、清原が投げたそうな顔をしている。彼はもともと投手だったんです。投手を断念するひとつのきっかけとなったのが、1年の時にホームベースからライトのポール方向へ遠投させたときのことです。

 一緒にいた桑田が、回転のいいボールを低い弾道でシューッと立て続けに投げた。私もコーチと目を合わせ、こいつはスゴイと思いましたよ。清原はそんな桑田を見て、打者に専念することを決意したんだと思います。普段からバッティング投手をやっていたので甲子園のマウンドに上げましたが、相手の反撃を受けながらも試合を締めてくれました」

 決勝戦の宇部商(山口)との試合は、相手に再三リードを奪われながら、清原の2打席連続ホームランで同点に追いつきシーソーゲームとなった。決勝打を打ったのは、主将・松山秀明。ランナーを二塁においてフルカウントから右中間を破るヒットを放ち、劇的な勝利でPLは優勝を飾った。

 この日の清原のホームランは、大会新となる5本目(当時)。なおかつ春夏通算13本の金字塔を打ち立て、その記録は今も破られていない。桑田は連投で疲労困憊の状態だったが、ひとりで投げきりこちらも前人未踏の春夏通算20勝目をあげた。

「桑田には、抑えるにはインコースを使ったらいいんじゃないかと言っていたんです。そのほうがラクだろうと思ったからですが、首を縦には振りませんでしたね。一途にストレートをアウトコースにビシッと決め、そのあとカーブで打ち取る戦法を崩さなかった。

 生命線はアウトコースのコントロール。このスタイルを固めたうえでステップアップしようという考えを最後まで貫いていた。桑田にしても清原にしても、本当にすごい選手に出会ったなと思います」

(文中敬称略)

中編<「立浪和義・片岡篤史は徳を積むために草むしりをしていた」PL学園元監督の中村順司が甲子園春夏連覇の偉業を振り返る>を読む

後編<「清原和博も1年からすぐ練習に参加できると知ってPLに来てくれた」甲子園の勝率.853、教え子39人がプロ入りの中村順司が語る指導論>を読む


【プロフィール】
中村順司 なかむら・じゅんじ 
1946年、福岡県生まれ。自身、PL学園高(大阪)で2年の時に春のセンバツ甲子園に控え野手として出場。卒業後、名古屋商科大、社会人・キャタピラー三菱でプレー。1976年にPL学園のコーチとなり、1980年秋に監督就任。1981年春のセンバツで優勝を飾ると、1982年春優勝、1983年夏優勝。1984年春の決勝で敗れるまで甲子園20連勝を記録。1998年のセンバツを最後に勇退。18年間で春夏16回の甲子園出場を果たし、優勝は春夏各3回、準優勝は春夏各1回。1999年から母校の名古屋商科大の監督、2015〜2018年には同大の総監督を務めた。

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