カトラリーや土鍋から、大根おろし、ルーペ、セキュリティーゲートに信号機まで、幅広い製品のデザインを手掛けている秋田さんですが、革素材の製品は、この「Nothing」シリーズが初めてでした。
工業デザイナーが初めて手掛けた革製トートバッグ「Nothing」ができるまで
「バッグをデザインするという話は、前に一度あったんです。革製品の工場をやっている方とご縁があり、私のデザインを気に入ってくださって、製品の提案などもしていたのですが、コロナ禍などもあって流れちゃったんです。実は、そのときに描いたスケッチが『Nothing』の原型になっています」と秋田さんは当時を振り返って話してくれました。
さらにそれ以前に、ランドセルをリニューアルしたいという相談を受けたときに考えていた形があったと言います。しかし、それも実現には至りませんでした。秋田さんはそのときのデザインをとても気に入っていたため、いつか、同じようなコンセプトのバッグを作りたいと考えていたのだそうです。
結果的にそのとき考えていた形が、トライオンの考えるシンプルだからこそ便利な革製ビジネスバッグを作り続けてきたというアイデンティティーと呼応したのでしょう。
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2枚の壁が立っているようなトートバッグというのが、秋田さんのコンセプトでした。そこに、トライオンが扱うさまざまな革の中でも、最高級のカナディアンキップレザーを使い、B4が楽に入る大きさで、マチは7cmという薄マチながら、荷物を入れなくても自立するという独特な製法で実現したのが「Nothing」でした。
「ランドセルは本当に残念に思っています。サンプルまで出来ていたんですよ。それがとてもかわいくてカッコいい、いい出来だったんです。私のスケッチ以上にいい仕上がりで。構造や製法まで考えていたんですよ。そのときに、普段使っている金属や樹脂ではなく、革だからこそ生まれる丸みのようなものの魅力も感じていました。
周囲の評判も良かったし、私としては珍しく、思いが残っていたんでしょうね」と秋田さん。
その思いが形になった「Nothing」は、一見、切り立った凛としたシルエットながら、使ってみると実は柔らかくて、持ち歩いていて角が当たっても全然痛くない、あまり世の中にはない「かたやわらかい」バッグです。
あえて仕切りやポケットを廃して、なんでもポンポンと入れられるトートバッグの構造と、フォーマルな服装にも似合う革鞄としての美しさの融合は、TPOを選ばずにラフに使えるけれど、大切に使いたいという気分にもさせる心地よい緊張感があります。
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かかりつけの歯医者さんからの要望がヒントになった
「『Nothing』はとても気に入っていて、あまりカバンを持たない私ですが、どこに行くにも持ち歩いていたんです。それでかかりつけの歯医者さんにも持っていったら、そこの先生と、その息子さん、歯科助手さんまでとてもカバンを褒めてくださって。
ただ、先生は女性で細身の方だからか、『これがもう少し小さくて縦型だったら良かったのに』とか『肩から提げられるといいなあ』といった要望を出されたんですね。
そういうニーズもあると思った私は、すぐにトライオンさんに連絡して、『Nothing』の続きを作ることになりました」と秋田さんは、縦型トートの製作が始まった経緯を教えてくれました。
そうして出来た「Nothing トート縦型」は、A4サイズの書類が入る大きさだとは思えないほどにコンパクトに見えます。縦型なのに、身長が高くなくても普通に使えるサイズなのです。
「紙袋みたいなものをイメージしました。デパートのショッパーのようなものを、そのまま革にしたらというのは、当初から変わらないコンセプトです。ただ、よくある『まるで紙の袋みたいに見える』というのは狙っていませんでした。紙のピンと張った感じで、2枚の壁が立っているというイメージでスケッチを描いたんです」と秋田さん。
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ただ横型があるから縦型も……というバッグではない
「元々のコンセプトは2枚の壁のような横型でしか考えていなかったんです。でも、周囲に結構、縦型がいいと言う人がいたから」と秋田さんは笑います。実は、秋田さんをトライオンに紹介したのは筆者です。そして、筆者もまた縦型のカバンが好きで、トライオンで「NOTE BAG」という縦型のショルダートートをプロデュースしています。
「トライオンさんがずっと作り続けているビジネスバッグのDOCUMENTシリーズというのがあって、あれが私はとても好きなんです。シンプルな1枚革で作られたスッキリしたブリーフケースで、あのシリーズのメインは横型なんですよね。それに、トライオンさんは、あのシリーズの次に向かう方向を模索されていました。
そこに答えのひとつを提案したかったというのがあって、最初は横型を提案しました。だから、縦型は縦型をお求めの方へのサービスという部分もあります。また、本来、なるべく機能を削りたい私ですが、利便性を考えて把手とショルダーベルトの両方を付けたりしています。もっとも、ベルトは着脱できるようにしましたけれど」と秋田さん。
なるほど、ベースとしての「Nothing」があって、そのバリエーションとしては、単純に形を変えるという考えではなく、デザインコンセプトは統一しつつ、使い勝手や機能に変化を付けるという方向性なのでしょう。
内装が明るい色になっているのも、中が深い縦型だからこそ、内部を見やすくする必要があると考えたからだと言います。横型では、内装は暗い色で底板が明るい色になっているのですが、今回は逆になっているのです。
実際に使ってみた印象をフィードバッグして、細部はメーカーにお任せ
また、把手部分も「Nothing」と比べると平たくなっています。
これは、「Nothing」を使っていて持ちにくいような気がしたということでの変更なのですが、その後、秋田さんは「元の把手の方が、重い荷物を入れたときはむしろ軽く感じて持ちやすくなるんです。でも、荷物が軽いときは平たい方が持ちやすい」ということに気が付いたのだそうです。
このあたりは、実際に使ってみたからこそ気が付く部分です。意外かも知れませんが、実際にハードに使わずに、製品開発をするケースが世の中にはそこそこあるのです。自分で作った製品は自分で使うのが秋田さん流です。
この「Nothing トート縦型」は、例えば、型崩れしてしまう可能性があるにもかかわらず、薄さや軽さを優先した裏貼りをしない構造や、革の柔らかさで押し込めばそれなりに荷物が入ることを踏まえた薄いマチなど、従来のカバンの設計からすると考えられないような構造になっています。
それでいて、底鋲もないのにしっかりと自立するなど、設計上の仕掛けがとても多いカバンなのです。
ただ、トライオンの製造責任者に聞いたところ、以前に「Nothing」を作っているので、今回は特に難しいことはなかったという返事でした。これをサラリと言えるトライオンの技術があってこそ、このバッグの美しさと機能性が実現したのだと思います。
着脱式のショルダーベルトをバッグに固定するための金具、ギボシは、バッグの表側にあるビス状の金具で留められているのですが、この金具がまた、目立たないけれどカッコいいのです。ここは秋田さんが指定したわけではありません。
「細かい部分は、大体メーカーさんにお任せするようにしています。その方がうまくいくことが経験上分かっていますから。きちんとコミュニケーションが取れていれば、私が何か言うより、現場の方々のアイデアの方が良い結果になるんですよ。それを見てビックリするのもデザイナーの仕事の楽しい部分なんです」と秋田さんは笑う。
そうして出来た「Nothing トート縦型」は、とても普通の見た目をしているのに、サイズ感や使い勝手も含め、なかなか他にはないバッグに仕上がっています。
荷物が少ない人向きではありますが、ショルダーベルトがあるので、タブレットや小型のノートPCを入れて持ち歩くのも苦になりません。カバン自体が革製としては圧倒的に軽いのです。
そして、スタイリッシュなデザインですから、使う側も無意識にスタイリングを意識します。そういう、使う人も少しだけ背筋が伸びるようなデザインを秋田さんは心がけているのだそうです。
納富 廉邦プロフィール
文房具やガジェット、革小物など小物系を中心に、さまざまな取材・執筆をこなす。『日経トレンディ』『夕刊フジ』『ITmedia NEWS』などで連載中。グッズの使いこなしや新しい視点でのモノの遊び方、選び方を伝える。All About 男のこだわりグッズガイド。(文:納富 廉邦(ライター))