江川卓フィーバーは個人情報だだ漏れの時代に過熱 過酷日程の陰でチームには不協和音が

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2024年02月23日 17:31  webスポルティーバ

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連載 怪物・江川卓伝〜センバツ後の喧騒(前編)

 春のセンバツ大会で作新学院の怪物・江川卓が全国デビューし、準決勝で敗退してからも「江川フィーバー」は日本中を席巻していた。1962年に甲子園史上初の春夏連覇を果たした作新学院の名将・山本理は、センバツ後のマスコミを含めたフィーバーぶりについて、後にも先にも「これほど尋常じゃない体験をしたことはなかった」と語る。

「センバツから戻った頃から、毎日20人から多い時で40人くらいの報道陣が学校に来るんです。これで夏に甲子園に行かなかったら大変なことになると思いました。スポーツ紙、週刊誌、婦人雑誌などの記者とカメラマンが、それぞれ企画を立ててやってくるんです。報道規制すると、記者たちが高野連本部に連絡して、本部が取材協力の要請をしてくるんです。規制したくてもできなかった」

 現在は報道規制を敷く場合が多いが、昭和40年代(1965〜1974年ごろ)はまだまだ規制に関して緩やかな時代だった。2005年4月1日に個人情報保護法が全面施行され、厳重にプライバシーが保護されているが、当時の新聞を見ると作新学院のベンチ入りメンバーの紹介欄に、堂々と実家の住所が記載されている。電話番号までは載っていなかったが、当時はほとんどの家が電話帳に登録していたため、住所がわかれば電話番号も簡単に調べることができた。現在ではまったく考えられないことである。

【過熱する報道と過酷なスケジュール】

 異常な騒がれ方をしたセンバツが終わり宇都宮に戻っても、喧騒はおさまらなかった。

 朝8時、合宿所の前にはすでに20人近くの報道陣が集まっている。江川からスクープネタがほしい記者は、ありとあらゆる手段で接触し、質問を投げかける。そして完成した記事は、前後の文脈が完全に取っ払われたもので、さらに脚色されたものも掲載されていた。それを見た江川はぶ然とした顔で山本に言った。

「僕こんなこと話していませんから。先生、ちょっと言ってください」

 山本は記者をつかまえ「江川がこう言っているんですが、どうなんですか?」と問うと、「ええ、ここに書いてありますから」とノートを見せられると何も言えない。監督として選手を守りたいのだが、どうすることもできなかった。

 ある婦人雑誌には『江川卓くんがいまいちばん大切にしているガールフレンド!』と、恋人らしきと思われる一般の女子高校生を3ページにわたり、しかも実名、写真入りで掲載するなど、今では想像もできないことが起きていた。

 このあたりから江川はマスコミに対して不信感を募らせ、ナーバスになっていく。

 また全国各地から練習試合、招待試合の申し込みが殺到し、江川をはじめとした作新ナインは心身ともに疲弊していくことになる。

 金曜日の授業が終わると学校を出発し、土日に試合をして戻ってくるというサイクルで、4月から6月の大事な夏の準備期間を遠征に明け暮れた。

 4月20〜23日の福岡での招待試合を皮切りに、5月3〜6日が沖縄で若夏国体、5月12〜14日がMRT招待高校野球大会(宮崎県宮崎市)、5月19〜23日が春季関東大会(山梨県甲府市)、5月25〜28日が熊本での招待試合、6月22〜24日が富山で遠征交歓試合などが行なわれた。これらは飛行機、新幹線を利用した遠征で、このほかにもバス移動による県外試合が組まれるなど、7月17日から始まる地方大会の10日前まで続いた。

 遠征に行くと、移動やらなんやらで3、4日間は時間をとられてしまい、その間、チーム練習、個人練習はまったくできない。さらに招待試合に行くと、夜は地元の名士が集まっての歓迎を受けるのだが、そこに江川が呼び出され「フォームがよくない」「もっとテイクバックを大きくしろ」など、名士たちが聞きかじりの知識で指摘する始末。山本はその様子を見て、複雑な気持ちになった。

「名士の方は新聞に掲載された江川の分解写真を見て、いろいろ指摘するんです。おそらくプロの投手と比較して指摘しているんでしょうけど、江川はまだ高校生ですよ。それだけ高いレベルを求められていたということなんでしょうが、さすがにかわいそうでしたね」

 山本は江川を混乱させないよう、フォームに関しては「腰の位置が高いから、もう少し低くしろ」とアドバイスしたが、それ以外は言わないようにした。

【チームメイトとの不協和音】

 江川が特別扱いされればされるほど、チームメイトとの関係は微妙になっていく。反江川派の急先鋒と言われていた一塁手の鈴木秀男に、チーム内の内紛は本当にあったのか聞いてみた。

「反江川派の親玉みたいに言われていますが、大学時代に江川とは何度か麻雀をやりましたし、口を聞かないほど仲が悪いわけじゃなかった。ただ、私は言うことを言わないと気がすまないタイプですから」

 紳士的な語り口調の鈴木だが、見るからに男気あふれる雰囲気を醸し出している。

「チームが分裂した決定的な出来事があったんですよ。センバツから戻ったあと、センターを守っていた野中(重美)が『おまえ、少しは走れよ!』と江川に言ったんです。すると江川は『試合で疲れるのはオレひとりだから』と。それを野中がほかのナインにも言って、『じゃあ、勝手にやれよ。ひとりでやれや』となって、チームの雰囲気が悪くなっていったんです」

 江川にしてみれば軽い冗談のつもりで言ったのかもしれないが、ほかの選手たちはそう受けとることができなかった。勝ったら江川、負けても江川......。チームメイトはフラストレーションを募らせていく。

 ある日、鈴木は監督である山本に思いの丈をぶつけた。

「オレたちにはちょっとしたことでも怒りますが、なぜ同じことをしても江川には怒らないんですか?」

 山本は何も答えることができなかった。

 江川が「痛い」と言えば「病院に行け」と言うのに、ほかの選手が「痛い」と言っても「病院なんか行かんでいい」と平気で言う。鈴木は明らかな差別に腹立たしさを覚えた。ここまでくると、修復は難しい。

 控えキャッチャーの中田勝昭はこう振り返る。

「1年夏から背番号をもらい、合宿所でも別格。掃除、洗濯、靴磨きは免除。先輩たちも江川がいれば甲子園に行けると思っただろうし、オレたちも恩恵にあずかれると思った。ピッチングが終わると、普通はランニングなんだけど、ポールを1、2往復しただけで、アンダーシャツを着替えに30分ほどかかったりして、必死に走らない。それでも誰も怒らないし、注意するヤツもいない」

 3年生になった江川は、自分のペースで調整をし始める。毎週のように遠征が組まれ、行けば少なくとも2試合は投げさせられる。疲労の蓄積は尋常じゃなかった。グラウンドに出れば、マスコミに追われる。個人練習などできるはずがなかった。おまけにチームメイトとの溝は深まるばかりだし、江川は練習に出てくる意味がわからない状態がしばらく続いた。実際、病院に行くと言って、グラウンドに来ない日もあった。

 思ってもみない言動からナインとの間に溝ができた江川。修復する方法がわからないまま最後の夏を迎えようとしていた。

(文中敬称略)

後編につづく>>


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している

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