「まるで詰め将棋」自信家の新谷博が唯一「この人には勝てない」と絶賛した投手がいた

0

2024年02月29日 17:31  webスポルティーバ

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

webスポルティーバ

写真

新谷博インタビュー(後編)

前編:新谷博が振り返るプロ入りまでの壮絶日々はこちら>>

 西武入団後も順調に白星を積み重ねていった新谷博氏。94年から3年連続2ケタ勝利を挙げ、同年は最優秀防御率のタイトルを獲得するなど、西武が誇る強力投手陣でも中心的存在として活躍。そんな新谷氏が「この人には勝てない」と思った投手がいたという。

【最優秀防御率のタイトルは勲章】

── プロ1年目から先発投手として活躍されましたが、3年目はリリーフも経験されています。

新谷 プロ3年目というのは、オフの自主トレで左右の違いはあるのですが、工藤公康さんの"クロスファイアー"の軌道を習得しました。右投手なら左打者の膝もとに投げ込むボールです。そのボールのおかげで、先発としてさらなる飛躍の予感がありました。ただこのシーズンは、小野和義(近鉄を自由契約)と村田勝喜(渡辺智男とのトレードでダイエーから移籍)が加入しました。ふたりとも先発完投型なので、シーズン前半は私がリリーフに回りました。その年は、中継ぎ、抑え、先発......何でもやりました。

── その3年目は最優秀防御率のタイトルを獲得しました。

新谷 最終的に規定投球回に到達しましたからね。その年は本当によく投げたと思います。勝敗はチームの成績に左右されるのでそんなに気にしませんが、私は「防御率こそ投手本来の実力」と考えるタイプですので、タイトルを獲れたことはうれしかったですね。10年間のプロ生活で一番の勲章です。

── 自信をつかんだきっかけは何だと思いますか。

新谷 94年4月のダイエー戦で、1点リードながら二死満塁、フルカウントで捕手の伊東勤さんのサインに首を振り、松永浩美さんを空振り三振に打ちとりました。自分でボールを選択して抑えることができたことで、自信めいたものが生まれました。それ以降、伊東さんのサインに首を振ることをあらためて許されました。

── 94年から3年連続2ケタ勝利を挙げ、プロ5年目の96年は開幕投手に抜擢されました。

新谷 じつは3年目にタイトルを獲って、4年目の95年に「開幕投手をやれ」と指名されたんです。でも、大学時代に開幕投手を任され"イップス"になったトラウマもあって、お断りしました。郭泰源さんもいましたからね。

── その郭泰源さんは94年、95年と開幕投手を務めています。

新谷 僕は結構な自信家なんですけど、「この人には勝てない」と思ったのは郭泰源さんだけですね。もちろん、西武にはほかにもすばらしい投手がたくさんいましたが、郭泰源さんは別格でした。コントロールよし、キレよし、スピードよし。細身の体で、思いきり投げていないのにあの球ですから。それに頭もよかった。打者が外角のスライダーを狙っていると思えば、インコースにズバッとストレートを投げ込む。1球1球に意図があって、最後は打者が「参りました」という、まるで"詰め将棋"のような投球でした。もう絶対に敵わない。私の理想です。

── ほかにすごいと思った投手はいましたか。

新谷 ソフトバンクの斉藤和巳ですね。190センチの長身から150キロを超すストレートとフォークを投げ下ろす。2006年に日本ハムとのプレーオフでサヨナラ負けを喫した時の姿は、今も記憶に残っています。いつだったか、私が解説の仕事をしていて、試合のあと本人に直接「ほんとにいいピッチャーだよな」って言ったことがあるぐらいです。郭泰源さんはクール、斉藤和巳は気迫。両極端のエースでしたね。

【プロで活躍できるか否かはメンタル】

── 西武のあと、2000年から2年間は日本ハムで過ごしました。

新谷 あの郭泰源さんは50歳まで投げると思っていましたが、96年にファーム落ちすると「投げるのが怖い」と、97年を最後に35歳で引退しました。その気持ちがよく理解できました。私もファーム暮らしが長くなり、その頃は一軍で打たれるのが怖かったですね。薄々限界というのは気づいているのですが、現実を突きつけられるのが怖かった。

── 投手にとって"気持ち"が大切であると、あらためてわかります。

新谷 プロに入ってくる選手の技術は、大差ないと思います。違うのはメンタルの強さ。振り返れば、私も大学時代のメンタルの弱さを社会人時代に克服して、プロでも勝つことができました。ただ、プロ入りしてからの5年間でタイトルを獲り、2ケタ勝利も挙げ、開幕投手も経験し、オールスターにも出場した。そこで気持ちが途切れてしまったのかもしれません。

── 2001年に引退後は、日本ハムコーチ(02〜04年)を経て、筑波大大学院でスポーツコーチングをあらためて学ばれました。以後、女子野球の尚美学園大の監督、西武ライオンズレディースの監督、23年からは明治安田生命のヘッドコーチをされています。指導者としてのポシリーは?

新谷 アマチュア時代は佐賀商の板谷英隆監督、駒澤大の太田誠監督、日本生命の井尻陽久監督、プロ入り後は森祇晶監督、東尾修監督、大島康徳監督、トレイ・ヒルマン監督と7人の監督に仕えました。とくに影響を受けたのが、太田監督と森監督です。太田監督は戦国・東都リーグにおいて、「人の心理を読む野球」で高い勝率を誇りました。森監督にしても、西武は巨大戦力と言われていましたが、それを的確に使いこなすマネジメント能力に長けていました。

── そのふたりの野球を礎とした「新谷野球」とは?

新谷 私は、野球は"詰め将棋"と同じだと考えています。何百手、何千手先を読む。たとえば、7回にスクイズをしたいから、1回にバントの構えをしておく。選手という駒をどうやって使うのか。そして相手が考えていることを読み、的確に対応する。相手の心を見るためには、自分の心が整っていないといけない。「新谷野球」も、言わば「心理野球」なのです。


新谷博(しんたに・ひろし)/1964年7月14日、佐賀県生まれ。佐賀商のエースとして、82年の夏の甲子園でノーヒット・ノーランを達成する。同年ドラフト2位でヤクルトから2位で指名されるも拒否して駒澤大へ進学。その後、日本生命を経て、91年ドラフト2位で西武に入団。94年に最優秀防御率のタイトルを獲得し、この年から3年連続2ケタ勝利を挙げるなど、西武の主力として活躍。2000年に日本ハムに移籍し、01年に現役引退。引退後は日本ハムコーチ、尚美学園大学女子硬式野球部監督、埼玉西武ライオンズ・レディースの監督などを歴任。23年から明治安田生命のヘッドコーチに就任した。

    ランキングスポーツ

    前日のランキングへ

    ニュース設定