1年夏で「高校野球は終わった」と悟った江川卓の控え投手は、公式戦わずか16イニングの登板で大洋から2位指名を受けた

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2024年03月08日 17:31  webスポルティーバ

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連載 怪物・江川卓伝〜控え投手・大橋康延の矜持(前編)

 球数制限と投手複数制を推奨している現在の高校野球と違い、かつてはエースがひとりで投げ抜くのが当たり前の時代だった。そのため控え投手にスポットが当たることなど、皆無に等しかった。作新学院のエース・江川卓の控え投手もご多分に漏れず、陰に隠れた存在だった。

 ただ江川の控え投手は、高校3年間の公式戦で16イニングしか投げていないにもかかわらず、1973年のドラフト会議で大洋(現・横浜DeNA)から2位指名を受けたのだ。高校時代の控え投手が大学や社会人に進んで力をつけ、ドラフト1位で指名されるケースはあるが、公式戦の実績がほとんどない投手が高校時に2位で指名されるなど、異例中の異例だった。

【初めて自分より上の者がいる】

 江川の控え投手の名は大橋康延。182センチ、84キロのアンダースロー投手だ。相当な野球通でもない限り、その名を記憶している人は少ないだろう。

「(江川が)1年夏の烏山戦で完全試合をやった時、高校野球は終わったと思いました」

 大橋はそう断言する。

 小山二中時代、「サブマリンの大橋」と県下に名を轟かせ、高校進学にあたり強豪校がスカウト合戦を繰り広げた逸材である。

「えっ、なんでいるんだよ?」

 大橋は入学式で、思わず声を上げてしまった。新入生のなかでもひと際目立つ大きな体。その男こそ、1年で大橋の高校野球を終わらせた江川卓である。

 大橋の持ち味といえば、アンダースローから浮き上がるストレートとスライダー。その原型がつくられたのが中学時代である。60年代後半から70年代にかけて、小川健太郎(中日)や足立光宏、山田久志(ともに阪急)といったアンダースロー投手が頭角を現したことが影響したのか、コントロールの悪かった大橋はオーバースローからアンダースローに転向した。

 そもそも大橋と江川の接点は1970年、中学3年に遡る。その年の春、隣町の小山中がいきなり快進撃を始めたので調べてみると、静岡からすごい転校生が入ってきたことがわかった。

 そして8月、栃木県中学校総合体育大会(中体連)の2回戦で、小山二中と小山中が対戦することになった。大橋と江川の投げ合いは1対1で迎えた最終回の7回裏、江川がサヨナラランニング本塁打を放ち、小山中が勝利した。

 その後も小山中は、江川が圧倒的なピッチングを披露して優勝。輝かしい成績をあげた江川に、栃木県内だけでなく県外の野球名門校からも勧誘の手が伸びた。

 その力を肌で感じた大橋は「ヤツと一緒だとエースになれない」と、進学については江川と違う高校に行くことが最重要だった。大橋でなくても、ピッチャーをやっていた栃木県下の中学生はみんな同じ思いだったはずだ。

 そんな折、「江川は小山高に行く」という情報が入ったため、大橋は「作新へ行け!」という父親のひと言で進学を決めた。大橋は高校で再び江川と対戦することを夢見て作新に進んだが、入学式の日にその夢はもろくも崩れ去ってしまった。

「小学校からずっと野球をやってきて『コイツより下』と思ったことなんて一度もなかった。でも江川を見た時、『うゎー』と思ったのが正直な気持ちですね。初めて自分より上の者がいると認めた瞬間でもありました。だから江川を入学式で見つけた時、『これはまずい。大変だ』と思いましたね」

 結局、1年夏から江川が不動のエースとなり、それ以降は競い合う場さえ与えられなかった。それでも大橋は試合で投げたい一心で、ブルペンで毎日300球以上投げていた。

 そんな大橋でも、唯一投げたくない試合があった。

「小山高との試合は嫌でしたね。作新には、小山市出身者が私や江川を含めて6人いたんです。高校3年夏の準決勝で対戦した時なんか、『おい大橋、小山に帰ってこいよ!』って応援団から言われたりして......とにかく投げたくなかったですね。その試合は9回の1イニングだけ投げたんですけど、『なんでオレが投げなきゃいけないんだ。最後まで江川でいってくれよ』と思いました。江川は引っ越してきたから、まだ馴染みが薄いですけど、私の家は小山市の真ん中で畳屋の看板を出していましたから。小山の応援団はほとんど知り合いで嫌でしたね」

【憧れの甲子園のマウンドへ】

 大橋にとって、高校3年間のなかで最も印象深い試合が、1973年春のセンバツ2回戦の小倉南(福岡)戦である。

 初戦で、出場校中ナンバーワンのチーム打率を誇る北陽(大阪)から19奪三振という衝撃デビューを飾った江川の名は、一躍全国区となった。

 はたして、2回戦ではどんなピッチングを見せてくれるのか。甲子園に来た観客は、胸を躍らせた。

 試合前、小倉南の監督である重田忠夫は、こう述べている。

「大差になると思っている。とにかく1点でも取りたい。全力を出すだけです」

 試合の焦点は勝敗ではなく、江川から点を取れるのか、ヒットを打てるのか......だった。

 北陽戦よりもストレートは伸びを欠いたが、それでも7回が終わった時点で10奪三振。点差も8対0と作新のワンサイドゲームとなり、8回から大橋が登板した。

「ピッチャーの交代をお知らせします。江川くんに代わり大橋くん」

 甲子園にアナウンスがこだますると、観客席は少しざわめいた。

 大橋は三塁側ブルペンから小走りでマウンドに向かう。憧れの甲子園のマウンドだ。一度は「高校野球は終わった」と思った大橋だったが、まさか甲子園のマウンドを踏めるとは夢にも思わなかった。マウンドに立つと、足が小刻みに震えているのがわかった。

「おい、落ち着け、落ち着け......」

 大橋は自分に言い聞かせ、1球1球たしかめるように投球練習をし、あらためて球場をぐるりと見渡した。

「すげーなー」

 憧れのマウンドに立つ喜びに浸っていた大橋だったが、球場を見渡すとその気持ちは消え、マウンドを預かるピッチャーモードに切り替わった。

 先頭打者を力ないショートフライに打ちとると、後続もセカンドゴロ、センターフライと危なげなく三者凡退に切ってとった。9回も四球でランナーひとりを出したが、無失点に抑えてゲームセット。この試合が大橋にとって、最初で最後の甲子園のマウンドになった。

「小倉南戦の8、9回は気持ちよかったですよ。投球練習の最初の1球で、完全に落ち着きを取り戻した感じですね。ボールを投げた時、『おぉ〜』と観客席からざわめきのような声が聞こえたんです。『あっ、今日は(ボールが)走ってんだな』と勝手に思い、落ち着きました」

 今まで数多くの甲子園球児を取材してきたが、大橋ほど甲子園で投げられたことをうれしそうに話す選手はいなかった。たった2イニングだけのマウンドだったが、大橋にとっては生涯忘れられない心地よい時間だったのだろう。

 この大橋の甲子園登板には、江川がひと役買っている。5回が終わった時点で、作新の監督である山本理に「すみませんけど、大橋に投げさせてやってもらえませんか」と進言していたのだ。江川が言う。

「大橋とふたりで頑張ってきたんだから、どうしても甲子園で投げさせてあげたいと。点差も開いていたので、監督にお願いしました」

 もし早い段階で江川が作新進学を打ち出していれば、大橋は違う高校に進んでいたはずだ。自分のせいで大橋の野球人生を狂わせてしまったという悔恨の念が、江川のなかにあったのだろう。

(文中敬称略)

後編につづく>>

江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している

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